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EVE〜終末世界の整備兵〜  作者: 灰猫J
第二章 神を狩る
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第12話 重しの名

 アイリス・ファングブレーカーの呼吸は、もうきれいではなかった。


 ウェプワウェトと向かい合うたび、肺の奥へ熱い鉄片を押し込まれるような痛みが走る。右脚は着地のたびに鈍く軋み、肩はティタノマキア・ブレードの重みを受けるごとにじわじわと裂けそうになる。ミニヤ駅での戦闘、その後の強行移動、応急処置だけで突っ込んだカイロ第一支部の防衛線。普通の兵なら、もう前に立っていること自体が異常だった。


 それでもアイリスは前へ出ている。

 前へ出て、ウェプワウェトの剣を、まだ見ている。


 中央棟外縁の半壊した車両通路と、砕けた補給棟の影。その間に生まれた歪な空間が、いまの戦場だった。第一支部の灯がところどころ死に、死んでいない照明は白く瞬き、遠くで火災報知の異常音が鳴り続けている。その全部の真ん中で、犬頭の神話型は静かに双剣を構え、アイリスはティタノマキアを肩から流すように持ち直した。


 イーサン・クロークは一キロも離れていない後方観測点で、端末越しにその全てを見ていた。


 怖い、という感情は、もはや消えることがない基礎音みたいにずっと胸の奥で鳴っている。ウェプワウェトが剣を振るたび、あるいは振るう前の沈黙を見せるたび、その音は一段階だけ大きくなる。だが同時に、映像が鮮明すぎるがゆえに、彼の頭の中では恐怖とは別のものも研ぎ澄まされ続けていた。


 見える。ミニヤ駅より近い。

 しかもカイロ第一支部の施設配置は、ミニヤ駅ほど構造が複雑ではない。

 ロクサーヌの補助射撃、セラフィナの熱の置き方、ノクティアの消え方、アストラの狙撃照準、その全部が画面の中で繋がる。

 そして何より、アイリスの身体が、どこまで持っているのかが見えてしまう。


「……まだ大丈夫」


 自分へ言い聞かせるように、イーサンは呟いた。

 言葉にしたところで現実は変わらない。だが、そうしないと映像の中で少しずつ削られていくアイリスの身体へ、自分の心が追いつかなかった。


 ウェプワウェトが一歩だけ左へずれる。

 それに対してアイリスは、正面から追わない。

 真正面で噛み合えば、面の斬撃の“濃いところ”へ自分から首を差し出すことになると、もうわかっているからだ。

 アイリスは半歩だけ右へ斜めに踏み、ティタノマキアを本来より低い角度から振り上げた。大剣の軌道としては鈍重に見える入りだ。だがそれでいい。イーサンがミニヤからの帰還途中に彼女へ伝えたのは、まさにそこだった。


 ウェプワウェトの“面”は、真正面からの圧に強い。

 だが成立の輪郭、端の部分はまだわずかに揺らぐ。

 しかも相手は、一度読んだリズムに対して極端に強い。

 だからアイリスは、最初の一手で殺し切る獣ではなく、二手目、三手目で噛みちぎる獣にならなければならない。


 ティタノマキアの軌道が低く入った瞬間、ウェプワウェトの双剣が交差する。甲高い衝突音が響く。

 それを待っていたかのように、ロクサーヌの火線が斜め上から走った。


 敵そのものへ撃っていない。空間へ撃っている。

 ウェプワウェトが“そこが切れていること”を成立させようとした輪郭へ、力づくで乱れを差し込んでいる。

 火花と熱の歪みが同時に走る。

 アイリスが、その歪んだ“端”を踏み抜く。

 ウェプワウェトの双剣が返る。ティタノマキアがそれを受け流し、アイリスの身体はその反動を使って逆側へ半歩だけ流れる。イーサンはそこで、思わず息を強く吐いた。


 整備が、まだもっている。

 本来なら、ここで腰が遅れていたはずだ。

 本来なら、二手目に入る前にティタノマキアの返りが重すぎて、アイリスの身体が追いつかなかったはずだ。

 だがいまは違う。ミニヤからの帰還途中に、ほんのわずかだけ再調整した足裏接地補助と腰部支持の追従が、確かに仕事をしている。慣性補正を“一撃の重さ”ではなく“二手目以降の残り”へ振り分けた判断も正しかった。


 アイリスは疲弊している。

 けれど、その疲弊した身体の中で、兵装があと一手だけ、あと半拍だけ、噛みつく猶予を作っている。


 イーサンは通信へ声を飛ばした。


「今の角度です! 正面じゃなくて右外側! その方が面の端が甘い!」


『うるせえ、見りゃわかる!』


 アイリスは即座に返す。息が荒い。だが、その荒さの奥にまだわずかに余裕が残っているのがわかる。


 セラフィナの熱が、戦場の右側面へ細く走る。大きく焼き払うのではない。敵が一番使いたい抜け道だけを嫌な温度へ変える、嫌がらせのような熱だ。夜の空気の中で、その細い熱線はほとんど見えない。見えないが、ウェプワウェトの足運びが一瞬だけ変わる。


 そこへノクティアの気配が、薄い刃物みたいに触れた。

 完全な攻撃ではない。ほんの少し視線をずらさせるためだけの存在感。影から影へ移る時の空気の変化。鋼糸の微かな閃き。ウェプワウェトほどの個体なら、それを“脅威”としてではなく“ノイズ”として認識するはずだ。けれど、ノイズは戦場では十分に意味を持つ。


 アイリスはその全部を背に、なおも前へ出る。

 剣戟が続く。

 ただの斬り合いではない。刃と刃の噛み合い、その外側で成立する“面”、その面の輪郭へ差し込まれるロクサーヌの火線、熱、ノイズ、狙撃の気配、その全部が一つの巨大な近接戦として歪んでいる。


 それでも主役は、いまこの瞬間だけはアイリスだった。

 アイリス・ファングブレーカーは、疲れていてなお、ウェプワウェトの前に立てる。

 その事実自体が異常だと、イーサンはわかっていた。

 わかっているからこそ、じわじわと嫌なものも見えてくる。


 差が、詰まっていない。

 食らいついているし、互角に見える局面もある。

 だが押してはいない。

 ウェプワウェトは確実に、少しずつ、アイリスのリズムを飲み込み始めている。

 双剣の返しが深くなる。面の成立速度が上がる。アイリスの足運びの“次”を読まれていく。


 ロクサーヌの射撃密度が上がる。

 セラフィナの熱がさらに狭く、鋭くなる。

 ノクティアのノイズも濃くなる。

 それでもなお、敵の方がじわじわ一歩ずつ詰めてくる。


「くそ……」


 イーサンは端末を握る手に力を込めた。

 まだ足りない。

 自分の整備は確かに効いている。分析も役に立っている。だが、それだけでは決定打に届かない。アイリスの身体がどれだけ極限で踏ん張れても、ウェプワウェトの底がそれ以上に深い。


 前線で、アイリスの呼吸がさらに荒くなる。

 右脚が床へ着くたび、ほんの一瞬、遅れる。ティタノマキアが返る。返るが、その返りの質が微妙に鈍い。ロクサーヌの火線で支えてなお、ウェプワウェトの双剣はアイリスの“次”の場所へ先回りしてくる。


 来る。


 イーサンがそう思った瞬間、アイリスの踏み込みが半拍だけ遅れた。

 ほんのわずかだ。

 普通の相手なら気づかない。


 だがウェプワウェトは神話型だ。

 双剣が十字に走る。

 面の輪郭が濃くなる。

 アイリスの退路が、目に見えないまま閉じかける。


『アイリス!』


 ロクサーヌが鋭く叫ぶ。

 火線がねじ込まれる。だが遅い。セラフィナの熱も届く。ノクティアのノイズも差し込まれる。だが、それでも一拍足りない。


 その時だった。

 高所から、白い線が落ちてくる。


 アストラの狙撃。


 ロンギヌス・レールキャノンの出力は落としてある。基地内戦闘だ。最大火力を使えば第一支部そのものの崩壊を加速させかねない。だから精度を優先した一撃。撃ち抜いて終わらせるためではなく、アイリスを殺させないよう、確実に一発通すため。


 それでもロンギヌスは、もともとが高出力の怪物だ。

 光というより、細く研がれた暴力がウェプワウェトの側面を貫いた。肩口に浅くはない傷が走り、黒い体液が霧になって散る。ウェプワウェトの体勢が、一瞬だけ止まった。


 その一瞬で、アイリスは死なずに済む。

 ティタノマキアを無理やり引き戻し、踏みとどまり、荒い息を吐く。

 イーサンはそこでようやく、肺の奥に溜まっていた空気を吐き出した。


「アストラ少佐……!」


 アストラは返事をしない。狙撃後の再照準と退避判断に入っているのだろう。だが今の一撃が、戦場全体をどれほど助けたか、イーサンにはよくわかった。


 ただ火力を通したのではない。

 戦闘そのものへ楔を打ち込んだ。


 そこで、ウェプワウェトが初めて口を開く。

 それは怒鳴り声でも、獣の咆哮でもなかった。

 むしろ驚くほど静かな声だった。

 静かで、それでいて剣を愛する者だけが持つ種類の熱を含んだ声音。


 ウェプワウェトは高所を見た。アストラのいる方向だ。そこへ意識を向けたまま、小さく呟く。


「重しはあそこか」


 イーサンの背筋が総毛立つ。


 ウェプワウェトは理解していた。


 アストラの狙撃そのものをではなく、その“気配”が戦闘全体へ与えている圧を。

 いつ撃たれるかわからない、という一点が、自分の選択肢を縛っていたことを。

 そして、いま命中したことで、それが確信に変わった。


 ウェプワウェトはすぐ動く。

 アイリスへ向けていた意識を断ち切り、高所へ走り出した。躊躇がない。アストラが戦場の“重し”なら、真っ先に潰すべきだと即座に判断したのだ。


「アストラ少佐ッ!」


 イーサンが叫ぶ。

 だが位置が悪い。

 アイリスもロクサーヌも、敵の進行方向と逆に寄りすぎていた。

 止めるのには遅い。

 セラフィナの熱も間に合わない。

 ロクサーヌの火線も、ウェプワウェトの直進に対しては射角が薄い。

 アストラが危ない。

 その瞬間、闇が割れた。


     *


 ノクティア・ヴァルクラゼルは、負傷していた。

 ミニヤ戦からの損傷も残っている。第一支部へ戻ってからの戦闘でも、無理な体勢移動を何度も繰り返している。呼吸も浅く、脚部の返りも本来ほど滑らかではない。昼間なら、とっくに継戦能力の壁へ達していたかもしれない。

 だが、夜だけは違う。

 夜は彼女のフィールドだ。

 影が深く、光が斜めに刺し、炎の明滅が視界へ乱反射を生む。人間なら見落とす暗がりの濃淡が、彼女には全部ルートになる。気配を消すのではない。敵の意識が向く先と向かない先、その境界そのものへ自分の身体を滑り込ませる。


 ウェプワウェトの意識は完全にアストラへ向いていた。

 高所からの狙撃による戦場の重し。

 その重しを外すことが最優先だと、神話型は決めている。

 その決めた瞬間に生まれる偏りが、ノクティアには見えた。


 今しかない。

 この一度しか。


 ノクティアは影から出る。

 出る、というより、闇が刃の形で裂けたように現れた。


 ウェプワウェトの右側。しかも完全な死角。普通の相手なら存在の気配すら感じ取れない位置。右手首へ向けて鋭く、一息で届く角度。暗器ではない。黒糸でもない。ここでは、もっと確実な一撃が必要だった。

 刃が入る。

 ウェプワウェトの再生したばかりの右手首が、またしても宙を舞った。


 切断。

 しかも今度は、完全な意識外から。


 ウェプワウェトの身体が初めて、ほんの僅かに揺らぐ。

 ノクティアの奇襲は成功した。

 だが、神話型はそこで終わらない。


 右手首を失った瞬間に、残った左手の細剣が反射で返る。

 その速さは、人間の防御意識より先に結果だけを置いていく種類のものだった。ノクティアは外そうとした。外そうとしたが、遅れる。細い剣光が彼女の右腕を、肘の少し上から一息で切り飛ばした。


 血が散る。

 それでもノクティアは悲鳴を上げない。代わりに、切断の衝撃で崩れかけた身体を無理やり引いて、もう半歩だけ距離を取ろうとする。


 その“もう半歩”を、ウェプワウェトは許さなかった。

 左脚が大きく回る。

 戦車砲みたいな回し蹴りだった。

 人間の格闘技の延長にある蹴りではない。

 質量の塊が、そのまま水平に撃ち出されたような衝撃。

 ノクティアはそれを正面から受けた。


 細い身体が、まるで軽い道具みたいに吹き飛ぶ。背後の補助壁へ叩きつけられ、装甲が鈍い音を立て、彼女はそのまま動かなくなった。


「ノクティア!」


 セラフィナの声が裂ける。

 イーサンの肺が一瞬、凍りついた。

 さっきまで見えていたノクティアの気配が、突然、戦場から消える。


 右腕は肘から先が切られた。神話型の回し蹴りによる砲弾のようなダメージ。そして、沈黙。

 しかもその代償で、稼げた時間はほんのわずか。

 しかし、そのわずかが、次を分ける。


     *


 ノクティアが、沈黙した。

 ウェプワウェトはそれを確認する。

 確認したうえで、即座に次の行動へ移った。怒りや混乱でノクティアへ意識を残さない。神話型にとって戦場は、感情で濁らせるものではないのだ。


 次はアストラ。

 ウェプワウェトの視線が再び高所へ向く。


 そのころアストラは、狙撃地点からの退避へ入っていた。ノクティアが稼いだ時間は、たしかに彼女へ届いている。屋上端からさらに後退し、別棟への飛び移り姿勢へ入る、その一瞬までは間に合った。

 だが完全には、逃げ切れない。


 ウェプワウェトの左手がわずかに返り、そして“面”が放たれる。

 イーサンはそれを見た瞬間、思わず叫んだ。


「アストラ少佐!」


 空間が斜めに切れる。

 建物そのものが、一拍遅れて理解するみたいに裂ける。コンクリートの角が消え、手すりが宙へ飛び、斬撃の輪郭に触れた部分だけが別の現実へ押しやられたように崩れる。


 アストラは直撃を免れた。

 ノクティアの一撃が右手首を奪い、稼いだ時間があったからだ。

 もしあの数秒がなければ、アストラは狙撃地点ごと真っ二つだった。


 だが、完全回避ではない。

 面の端が、アストラの右大腿を深く切り裂く。

 狙撃手の身体が、一瞬だけ不自然に傾く。

 そこから先はどうしようもない。

 高所から飛び移りに入るはずだった重心が壊れ、アストラは足場を失ったまま落下する。


『っ……!』


 それが最後の通信だった。

 人影が屋上縁から消え、数秒遅れて、下方の瓦礫帯に重い落下音が響く。


 アストラ、戦闘不能。

 それは単に一人の負傷ではなかった。

 ゼロ大隊の“目”が潰されたのだ。


 イーサンはその意味を理解した瞬間、全身から血の気が引くのを感じた。

 アストラの狙撃はただの遠距離火力ではなかった。ウェプワウェト自身が言ったとおり、あれは戦場の“重し”だった。いつ撃たれるかわからない、というたった一つの気配が、神話型の選択肢をわずかに、しかし確実に縛っていた。その重しが消えた。


 戦場が軽くなる。

 いや、違う。

 人間の側だけが、急に軽くなって吹き飛ばされやすくなる。

 押さえがなくなる。

 底へ落ちる方向へ、戦況が傾く。


 ロクサーヌの火線が一気に密度を増す。セラフィナも熱を広げる。だが、一度潰されたものは簡単には戻らない。


 ウェプワウェトはそこで、ゆっくりと振り向いた。

 向き直った先には、まだ立っているアイリス・ファングブレーカーがいる。

 右脚は重く、肩は痛み、息は荒い。それでもティタノマキアを構え、歯を剥き、前を見ている。

 ウェプワウェトはその姿を見て、初めて明確に“誰かへ向けて”話した。


「これで邪魔者はいなくなった」


 声は低く、静かだ。

 嘲りではない。

 勝利宣言でもない。

 むしろ心からの歓びを隠さない、戦士の声音だった。


「さあ、再び始めよう」


 ウェプワウェトの犬頭が、ほんのわずかに傾く。人間なら笑みに相当する動きなのかもしれない。だがそれは不気味というより、異様に真摯だった。


「楽しい剣の宴を」


 イーサンは戦慄した。

 楽しい、と言ったのだ、こいつは。


 ノクティアは右腕を失って沈黙し、アストラは高所から落ち、戦場そのものが崩れかけている。その中で、ウェプワウェトはこの死闘を、本当に愉しんでいる。

 怒りではない。

 憎悪でもない。

 ただ純粋に、自分へ届きうる剣と斬り結ぶことを、心から面白がっている。


 それがたまらなく恐ろしかった。

 化け物だから怖いのではない。

 剣の悦びだけなら、人間の側にもあるからこそ怖い。

 理解できてしまう側面を持ったまま、人間の外へ立っているから怖いのだ。


 イーサンの喉が乾く。

 その時、アイリスが笑った。


 派手には笑わない。息が苦しいからだろう。けれど口の端が持ち上がる。血の味がしても、脚が痛んでも、目の前の敵がどれほど底知れなくても、その笑いは揺るがない。


「いいぜ」


 低く、掠れた声。


「もう一回だ」


 その不敵さに、イーサンは一瞬だけ息を忘れた。

 ノクティアが沈み、アストラも落ちた。

 戦場は圧倒的に不利だ。

 それでもアイリスは、まだ笑う。

 ロクサーヌが逆方向から全力で戻る。セラフィナも熱の配置を変えながら前へ出ようとしている。イーサンは震える指で端末を握り、目を逸らせないまま、ただその中心を見つめた。


 夜のエジプト第一支部外縁で、ウェプワウェトとアイリス・ファングブレーカーが、再び向き合う。

 重しは消えた。

 暗殺者は沈黙した。

 狙撃手も落ちた。

 それでも剣の宴は、まだ終わらない。


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