第10話 夜を連れて来る者
“シュリーク”は、空そのものに悪意が生えたみたいな災骸だった。
第13防衛区の上空監視映像は、ほかの戦域よりさらに見づらい。もともと空戦型の災骸は追尾が難しい上に、この個体は飛ぶだけではなく、飛びながら戦場全体へ“音”を撒き散らしていた。可視化された圧力波が薄い膜のように市街上空を走り、そのたびに映像ドローンの軌道が乱れ、ビル壁面の残骸が細かく砕ける。空を裂く翼膜は巨大なのに、その飛行は重くない。むしろあれほどの体格で、どうしてあの旋回半径が成立するのか理解しづらいほど軽い。
“シュリーク”は高い。
そして速い。
その上、正面から迎え撃とうとすれば、あの広域音圧で先に崩される。もし市街上空を完全に支配されれば、地上の避難路も、残存砲座も、支援部隊も、まとめて壊される。アストラが「上空を取られると地上部隊は壊滅的に乱される」と言っていた意味が、イーサンには嫌というほどわかった。
だからノクティアは、空へ上がらなかった。
飛行ユニットを装備していない彼女に、そもそも真正面からの空中戦はできない。だがノクティアは、できないことを無理にやる女ではなかった。彼女の戦い方は、最初から一本の線で繋がっている。見つからないこと。近づくこと。気づかれる前に切ること。相手の意識の外側に、自分の死角を作ること。
つまり、空飛ぶ“シュリーク”相手ですら、彼女はアサシンのやり方を捨てなかった。
監視映像が市街西部の崩落区画へ切り替わる。
折れた高層棟、外壁だけ残ったビル群、半壊した立体道路。上から見れば障害物だらけの瓦礫地帯だが、ノクティアにとっては違うのだろう。あれは全部、隠れるための壁であり、飛ぶための踏み台であり、敵の視線をずらすための道具だ。
最初の一撃は、本当に“意識の外”から来た。
“シュリーク”が低空をかすめる。
高層棟の中腹をなぞるような軌道。たぶん地上部隊への音圧照射のため、高度を下げたのだ。その瞬間、崩れた看板の裏から、一本の黒い鋼糸が走った。細い。暗い。モニター越しだと、見失いかけるほどだ。だがその糸はただの投射ではない。“シュリーク”の右翼膜外縁、その最も薄い膜構造だけを狙って引っかけていた。
次の瞬間、ノクティアが現れる。
現れる、という表現すら正確ではない。そこにいたのだ。ずっと。瓦礫の影と建物の断面とを繋ぐように、最初から息を潜めていたのだろう。黒い装甲、黒い長髪、片目を隠す前髪。影の中にいると輪郭がほとんど溶ける。
彼女は鋼糸を手繰るのではなく、自分ごと引かれるように飛んだ。
高速機動。
だが飛行ではない。建物の断面、倒れた鉄骨、街灯の支柱、瓦礫、その全部を一瞬ずつ踏み換えながら、空中へ刺さるように上がっていく。速度だけを見れば飛翔に近いのに、挙動の本質は地上戦の延長だ。ノクティアは決して空の生き物ではない。地面のある場所からしか飛ばない。だからこそ、低空へ入った一瞬だけを狙い撃てる。
黒いナイフが一閃した。
“シュリーク”の翼膜の端が裂ける。
致命傷ではない。だが充分だ。飛行中の大型災骸にとって、翼膜の一部損傷は即座に姿勢制御の乱れへ繋がる。ノクティアはそこへさらに二本、三本と糸を走らせ、空中の軌道そのものへ罠をかけていった。
イーサンは思わず息を止める。
すごい。
すごい、という語で足りるかどうかも怪しい。戦闘ではない。処刑準備だ。獲物に気づかせないまま、逃げ道だけを静かに塞ぎ、気づいた時にはすでに首元へ刃が来ている。ノクティアの戦いは、他のメンバーのような派手さがない。ロクサーヌのような火炎でもないし、アイリスのような野生の暴力でもない。セラフィナのような超出力の神罰でもない。
だが、その静かさが逆に恐ろしい。
“シュリーク”がもう一度低空へ入りかけた瞬間、ノクティアは別のビル断面から現れて、今度は左翼の付け根へ刃を差し込んだ。深くはない。けれど位置がいやらしい。翼の駆動そのものではなく、その周辺の制御膜だけを切っている。飛行能力を一気に奪わず、少しずつ狂わせる。つまり追い詰めているのだ。
高く飛ばせない。
低く飛べば刺される。
旋回すれば糸に触れる。
“シュリーク”は明らかに苛立ち始めていた。
この時点では、ノクティアが優勢だった。
完全に。
イーサンはモニターへ食い入るように見入りながら、同時に整備兵として別の恐怖も感じていた。
ノクティアの兵装は、持たない。
飛行ユニットを持たない彼女が、この空戦型B級へ食らいつくためには、超高速機動を地上構造物の連続利用で無理やり成立させるしかない。それはつまり、脚部補助、腰部安定装置、肩部ワイヤー射出、視界補助、姿勢制御、その全部を短時間に過密運用するということだ。しかも今回は、イーサンが兵装を触る時間がなかった。基地で見た時点で、彼女の昼間継戦能力には明確な課題があったのに。
左脚の熱逃がし、背部の姿勢補正、黒糸射出機構の再装填遅延。あれらを詰める時間がないまま出してしまった。
イーサンの胸がひどく重くなる。
ノクティアは戦えている。戦えているどころか、B級を追い詰めている。
けれどその強さの根本に、今の機体は耐えきれない。
そして、それを“シュリーク”も気づいた。
災骸に知性があるのかどうか、イーサンにはわからない。少なくとも人間の言う知性とは違うだろう。だが戦場での学習という意味なら、あれらは異様なほど速い。“シュリーク”は数度の交錯で理解したのだ。ノクティアは自分を低空へ誘い、意識外から切り刻む。しかし、その高速機動は永遠には続かない。
次の動きから、露骨に変わった。
“シュリーク”はもう不用意に低く降りない。高度をわずかに上げ、広く旋回しながら、音圧の照射範囲を拡げた。狙いは命中ではなく、ノクティアの移動ルートそのものを削ること。崩落建物の上部が音圧で砕け、踏み台にしていた鉄骨群がばらばらと落ちていく。さらに翼膜の一部を犠牲にしながら、高速の俯角変化でノクティアの糸配置を空振りさせる。
いやらしい。
その変化を見た瞬間、イーサンは唇を噛んだ。
完全に継戦能力を突いている。
“シュリーク”はもう「殺されないように飛ぶ」ことをやめていた。「ノクティアを先に疲弊させる」戦い方へ切り替えている。時間が経つほど不利になるのはこちらだと、向こうが理解したのだ。
ノクティアの動きが、ほんの僅かに鈍る。
いや、鈍ったというより、選択肢が減った。今まで使えていた踏み台がもうない。低空の誘いにも“シュリーク”が乗らない。ならばこちらが無理に高度を取りにいくしかない。だがそれはノクティア本来の戦い方ではない。
彼女はなお食らいつく。
黒糸を一本、倒れた通信塔へ引っかけ、その反動で高層棟の側面をほとんど垂直に駆け上がる。人間ならあり得ない。だが彼女の兵装はそれを可能にする。いや、可能にはする。けれど持続はしない。脚部からの熱警告がモニターに小さく走る。背部姿勢制御の黄色表示。右肘ワイヤー射出機構、応答遅延。
イーサンの喉が締まる。
整備する時間があれば。
あの時、あと十五分でも兵装を見られていれば。左脚の逃がしを少し変えて、背部の補正をほんの一段軽くして、ワイヤーの再装填テンポを詰めていれば。悔いが胸に刺さる。自分は今、後方から見ているだけだ。見えているのに手が届かない。
「ノクティア少佐、左脚の熱が――」
通信を開く。届くかどうかも怪しい。戦場の高周波は相変わらず荒れている。
『……わかってる』
短い返答。
それだけで、彼女はもう状況を把握しているのだとわかる。
だが把握していても、どうにもならないことはある。
“シュリーク”が急降下した。
今度は低空へ入るためではない。建物上部を薙ぎ払い、ノクティアの進行方向ごと潰すためだ。翼膜から放たれる音圧が街区一角を削り、ビルの外壁が爆ぜる。ノクティアは回避する。だが、その回避がもう綺麗ではない。これまでのように影から影へ滑るのではなく、崩れる瓦礫を足場に、ほとんど転がるみたいに逃げている。
そこでイーサンは初めて、戦闘補助解析の残酷な表示を見た。
ノクティア・ヴァルクラゼル。
パワードスーツ稼働率、七〇%機能停止。
左脚補助、死。
背部姿勢制御、死。
肩部ワイヤー再装填、大幅遅延。
視界補助、断続的ノイズ。
通常の解析では、あと三分で死亡。
冷たい文字列だった。
整備兵としてそれを読んだ瞬間、イーサンの頭が一度真っ白になる。三分。そんなの、いくら何でも短すぎる。
その時、別系統の通信が割り込んだ。
アストラだった。
『こちらアストラ。狙撃ライン再構成完了。シュリーク捕捉まで、四分十秒』
四分十秒。
一分十秒足りない。
機械の計算では、ノクティアはその前に死ぬ。
イーサンの背筋が凍る。
「だめだ……間に合わない」
思わず漏れた声は、誰にも聞かせるつもりのない本音だった。
だがノクティアは、その計算を聞いていたのかいないのか、次の瞬間には戦い方を変えていた。
潔く、美しく殺すことを捨てたのだ。
あまりに鮮やかな転換だった。
それまでのノクティアはアサシンだった。見えず、近づき、切り、消える。気づかれぬまま首へ至る。けれど今の彼女は違う。泥だ。生き延びるためだけの、不格好で、見苦しくて、でも徹底的に正しい粘りだ。
彼女は黒糸を敵へ投げなくなった。
代わりに周囲の瓦礫へ乱雑に絡め、自分の退避路をその場その場で作っていく。ナイフも急所狙いではなく、翼膜の端、視界を遮る骨質突起、音圧発生器官のわずかな出っ張り、そういう“嫌なところ”へ撒くように投げた。致命傷ではない。だがうっとうしい。行動を狂わせる。ほんの一瞬だけでも視線をズラす。
綺麗じゃない。
全然、綺麗じゃない。
なのに、イーサンは見ていて思わず声が出そうになった。
すごい。
素直にそう思った。
ここまで壊れて、ここまで追い詰められて、なお「勝つ」ではなく「死なない」を最優先へ切り替えられる。それは派手な強さではない。むしろ格好悪い。英雄譚なら省かれる部分だ。だが本当に戦場で生き残るのは、こういう強さなのかもしれないと、イーサンは直感した。
ノクティアは諦めない。
静かなまま、薄いまま、いつもの無口な顔のまま、驚くほど泥臭く生き汚く食らいつく。
“シュリーク”が再び音圧を浴びせる。ノクティアは半壊したシャッターの裏へ滑り込む。完全には防げない。衝撃で吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる。それでも起きる。起きて、落ちた鉄骨の影へ潜り、そこから黒糸を一本だけ通して、次の跳躍の足場を作る。
もう暗殺者の美しさではない。
獣でもない。
これは執念だ。
ただ「まだ死なない」と決めた人間の、ひどく不格好で、だからこそ強い執念だった。
イーサンは通信を握りしめたまま、思わず呟く。
「すごい……少佐、すごすぎる……」
本心だった。
整備兵としての冷静な目はまだ警告を鳴らし続けている。機体は限界だ。これ以上は本当に保たない。だがその一方で、目の前の戦い方には敬意しか湧かなかった。ノクティアの真の資質は、静かさでも暗殺技術でもないのかもしれない。もちろんそれらも凄まじい。だが根っこのところにあるのは、こんな状態になってもなお、絶対に諦めない粘りだ。
普段の態度からは想像もつかない。
何事にも淡々として、必要なことしか言わず、影のように薄いあの女が、実際の戦場ではここまで泥臭く、執拗に、生きることへしがみつく。
ゼロ大隊は本当に、ひとりひとりが違う。
“シュリーク”は苛立っていた。
高く飛び続ければ安全圏にいられるはずなのに、地上から飛んでくる黒い糸と刃と、何より「死なない」ノクティアの存在が鬱陶しい。決め手に欠ける苛立ちが、旋回の乱れに少しずつ出てくる。ほんの僅か。アストラ以外なら見逃す程度の揺れ。だがたぶん、その程度で十分なのだ。
アストラの狙撃までの残り時間表示が減っていく。
一分四十秒。
一分二十秒。
五十秒。
通常解析上の“死亡予測時刻”は、とうに越えていた。
なのにノクティアはまだ生きている。
機体の七〇%が死んでいるのに、彼女自身がその残り三〇%を無理やり引きずり出しているようにしか見えない。左脚が半ば死んだなら、右脚と腕と糸で補う。視界補助が壊れたなら、目と耳と肌で飛来方向を拾う。ワイヤーが遅いなら、遅い前提で次の退避路を早めに作る。
全部が不格好だ。
でも全部、正しい。
狙撃まで残り三十秒を切った頃には、イーサンの手のひらは汗でぐっしょりだった。
“シュリーク”も理解している。この獲物を仕留めるには、もう一撃、逃げられない攻撃を通せばいい。ノクティアの退避路は減っている。街区の足場もほとんど壊れた。あとは真正面から圧し潰せる。
“シュリーク”が急角度で落ちてくる。
音圧、翼膜、嘴状の頭部、全部を一体化させた殺意そのものの急降下。ノクティアは反応する。だが遅い。いや、遅いのではない。機体が限界なのだ。逃げるための初動に、ほんの半拍、致命的な遅れがある。
イーサンの喉が詰まる。
避けられない。
そう思った。
次の瞬間、ノクティアは地面へ倒れ込むように見せて、最後の黒糸を“自分の影”へ打ち込んだ。
意味不明な挙動だった。
だが、その糸は地面ではなく、瓦礫の下に埋まっていた反転した鉄板の縁へ引っかかっていた。ノクティアは倒れるのではなく、その反動で体を半回転だけ滑らせたのだ。綺麗じゃない。格好悪い。まるで泥の中で転がって生き延びるだけの動き。
でも、その半回転が命を分けた。
“シュリーク”の急降下が、彼女の肩口を掠めて地面を抉る。直撃していれば終わりだった。けれどノクティアは致命傷を、ギリギリで回避した。
その瞬間だった。
空に、横薙ぎの雷光が走る。
最初、イーサンは何が起きたのかわからなかった。
音より先に、光があった。灰色の空、その一角だけが真横へ裂けたように白く光る。雲を切り、空気を焼き、地平線の端から端まで一本の発光線が走ったように見えた。
アストラだ。
理解は次の瞬間に来る。
《ロンギヌス・レールキャノン》。
あれほど遠距離から、あれほど高速で、あれほど小さな機会を撃ち抜けるのか。
“シュリーク”は一瞬で消えた。
爆散ですらない。悲鳴も、再生の兆しもなく、横薙ぎの雷光に触れた空中部分がまるごと蒸発した。巨大な翼膜も、骨格も、音圧器官も、B級災骸としての存在そのものが、一本の線で帳消しにされたようだった。
空が、ほんの一瞬だけ静かになる。
イーサンは戦慄した。
これがアストラ・ヴィレルガン。
都市三つ消える、という冗談めいた言葉が、全然冗談ではなかったと身をもって知る。高速機動する空戦型B級を、ここまで正確に、一撃で蒸発させる。狙撃というより、遠方からの処刑宣告だ。
けれどその戦慄の奥で、イーサンはもう一つのことを考えていた。
アストラが仕留めた。
だが、その一撃へ繋げたのは、ノクティアだ。
四分十秒。
通常解析では三分で死んでいたはずの時間を、彼女は泥臭く、みっともなく、それでも見事に生き延びた。その粘りがあったから、アストラの狙撃が間に合った。
ノクティア・ヴァルクラゼルの本質は、静かな暗殺技術だけじゃない。
あの女の真の資質は、ここまで壊れて、ここまで追い詰められて、それでもなお「終わらない」と決めた時の異常な泥臭さだ。
イーサンは、モニターの中で満身創痍のまま片膝をつくノクティアを見つめながら、胸の奥でその事実を噛み締めた。
ゼロ大隊は強い。
ただ派手に敵を殺せるから強いんじゃない。
圧倒的な火力があるからでも、天才的な技術があるからでも、それだけではない。
強者ばかりの部隊なのに、その強さの根の張り方が一人一人まるで違うのだ。野生で押し切る者。頭脳で解く者。火力で焼き尽くす者。そして、死ぬはずの時間を執念で引き延ばす者。
その全部が揃って初めて、世界最強になる。
イーサンは震える指で通信卓を握りしめた。
今、自分はその一端を見た。
そして、その強さの裏側にある脆さや無茶も、同時に見てしまっている。
だからこそ、支えたいと思う。
ほんの少しでも、この怪物たちが死ぬ確率を減らしたいと思う。
その感情が、さっきまでの恐怖とは別の形で胸を熱くしていた。
モニターの向こうで、ノクティアがゆっくり顔を上げる。
片目の奥に宿る光は、まだ消えていない。
その姿を見て、イーサンは小さく息を吐いた。
助かった。
助かったのだ。
その安堵とともに、ゼロ大隊という部隊の強さが、また一段深く骨身へ染み込んでくる。
恐ろしくて、格好悪くて、だからこそ本物の強さだった。




