2 夢のお告げで『悪役令嬢』
この世界で最後の人間の国ゴルシカ王国は、王国そのものが天敵に捕食される寸前の生き物であるかのように、緊張に包まれていた。
この世界が魔族と魔物で覆われて数十年が経過していた。人間は徐々に領土を奪われ、日毎に領地を狭め、ついに一国を残すのみとなった。
魔族や魔物に属さない存在は奴隷としてしか存在を認められず、エルフやドワーフといった多くの種族が虐げられ、捕まった人間のほとんどは食料か愛玩動物となっていると噂されていた。
ゴルシカ王国は、古代から魔法大国として知られ、最後まで抵抗を続けた。
たとえ人間の国に一国しか残っていなくとも、戦い抜くだけの力があった。
滅びた多くの国の精鋭が、虐げられた一族の生き残りが、ゴルシカ王国に集い、魔族軍との決戦に臨んだ。
ゴルシカ王国の強さを信じる国民たちだったが、勝てる確率は5割だと見なされていた。
王国の全軍が最後の決戦に望み、その結果が出るまで、人々は息を潜めていた。
まるで、そうすればきっと勝てると信じているかのようだった。
リーゼ・エクステシアは、エクステシア公爵家の長女として生まれ、何不自由なく暮らし、ゴルシカ王国の王位継承権を持つラテリア・ゴルシカ王子と婚約していた。
誰もが羨む立場であり、リーゼもその立場に満足していた。
学業の成績は中の上で、魔法の知識も同年代の貴族たちに比べて遜色ないリーゼだが、魔族との戦いに行くのは許されなかった。
王国軍が決戦に出発してから、リーゼは魔法学園の内部にある教会の礼拝堂に通い、時間の限り祈るのが日課になっていた。
「リーゼ、今日も来ていたのかい?」
礼拝堂には、リーゼ以外には誰もいないはずだった。
王国が敗れれば、人間は滅びる。そう言われている。
本当は、全国民が祈りを捧げるべきだとリーゼは思っていたが、人間の思考はそうは働かないようだった。
信仰が失われているのか、礼拝堂に足を運ぶ人間は少なかった。
今も、礼拝堂にはリーゼの他には、声をかけたゴルシカ王国第1王子のラテリアしかいない。
「ええ。戦場に行くことが許されない私にできるのは、ただ祈ることだけですから」
「そこまで思い詰めなくてもいいのではないか? この戦いで負けたら、全てが終わるというわけじゃないんだ」
リーゼは、ラテリア王子の言葉に耳を疑った。
祈るために組み合わせていた手を解き、ラテリア王子に視線を向けた。
「負けたら……終わりではないのですか? みんな、そう言っているわ」
「ああ。多くが失われることになるだろう。賠償金の請求に、国民の多くを奴隷として差し出すことになるかもしれない。しかし……人間が滅びるわけじゃない。魔族の王も、それは約束している。人間は滅びないよ」
ラテリア王子がリーゼのそばに立った。リーゼは背の高い王子を見上げた。
「『魔族の王が言っている』ですって? ゴルシカ王家は……魔族と取引をしたのですか?」
「リーゼ、そんな顔をしないでおくれ。政治的な駆け引きだよ。どちらかが滅びるまで戦い続けるなんて、戦争ではありえない」
「それは、人間同士の戦争の場合でしょう?」
「ああ。だが、魔族もそれほど人間と違うわけじゃない。人間を全滅させることのデメリットは、魔族も感じているそうだ。人間は滅びないよ。でも……現在行われている最後の戦いに負けたら、人間は絶滅する。そう煽ることで、戦力をゴルシカに集められただろう?」
「ええ……そうね……」
リーゼには、魔族に騙されているようにしか聞こえなかった。
だが、ここで口論をしても仕方がない。
戦争に勝てば、元の日常が帰ってくる。その時、リーゼはラテリアとすぐにでも結ばれるだろう。
言い争うのは得策ではない。
ただ、リーゼは言った。
「それでも……私はゴルシカ王国に勝って欲しいの。ここで祈りを捧げるわ」
「ああ。リーゼは優しいな」
ラテリア王子は、礼拝堂を出て行った。
※
その日、リーゼは夢を見た。
白い場所だった。
何もないと思っていたが、白さに慣れてくると、目の前に真っ白いテーブルと椅子があることがわかった。
椅子に腰掛ける白い人がいるのに気づいた。
性別はわからない。だが、綺麗な人だと感じた。
「お座り下さいな」
白い綺麗な人が、この世のものとは思われない綺麗な声でリーゼに椅子を勧め、自分はテーブルの上に乗せられた真っ白いカップを口につけた。
カップの中身はわからないが、じゅるじゅると何かを啜る音が響いた。
真っ白く、意識しないと何も見えなくなりそうな世界は、リーゼを不安にさせた。
何かに捕まりたかった。
リーゼが手を伸ばすと、白い椅子の背が指先に触れ、リーゼは椅子に腰掛けた。
リーゼの前にも、白いカップがあった。
「この世界の物を何か口に入れないと、認識できませんよ」
カップの中身を飲めと言われたのだと感じ、リーゼも口に運んだ。生暖かく、ほんのりと甘い。
葛湯のような粘着質でもある。
少量だけ口に含み、嚥下する。
真っ白かった世界が、色鮮やかに変わる。
よく手入れされた庭園の中にいるような感覚を、リーゼは味わった。
あくまでも感覚だ。自分がどこにいるという認識は、この時リーゼには感じられなかった。
「あの……神さまですか?」
リーゼの問いには答えない。ただ、目の前の綺麗な人は、小さく微笑んだ。
もはや白い人ではない。だが、その人の肌の色をなんというのか、リーゼにはわからなかった。
「人間は滅びない」
「えっ?」
カップを弄び、意匠を楽しむようなそぶりをしながら、その人は唐突に言った。
「あの、それは……現在の戦争に勝てるという……」
「魔族が全滅して、人間は新しい歴史を刻み始めるのよ」
「戦争で……そこまで?」
「違うわ。戦争じゃない。私が長い時間をかけて準備してきたのは……魔族に伝染する未知の病気、疫病よ。人間には伝染しない。でも、魔族は耐えられないわ。最後の一人になるまで死に絶える」
「なら……戦争なんてしなくても……」
「よかったのよ。でも、戦争を始めてしまった。人間たちが勝手にね」
「……ごめんなさい」
美しい人は、呆れたように息を吐き出した。
戦争自体、リーゼも反対ではなかった。このままじりじりと殺されていくよりは、最後の戦いに打って出るという、王族たちの考えも理解できた。
「戦争には負けるでしょうね」
「……ぇっ。でも……」
「戦争の結果を受け入れ、魔族の求めに従順に従えば……人間は100日後には一人もいなくなる。つまり、種として絶滅する」
「で、でも……人間がいなくなるデメリットとか……」
「魔王は、人間の皆殺しを選択するわ」
「え、疫病は……」
「100日後に最初の一人が発症する。それからは、10日もかからず全魔族に感染するわ」
「その時には……もう人間は……」
「つまりね。現在やっている最後の戦争に大負けした後も、魔族に逆らい続ける。それが必要なのよ」
「……でも、王子は……」
「出来そうな人を、私は一人知っている」
綺麗な人が、リーゼをじっと見つめた。
「私が……王子を説得するのですか?」
「まともにやってもダメよ。魔族を守護する別の存在がいる。魔族は狡猾で、魅力的だもの。あなたは、王子だけでなく全ての王族、貴族たちから憎まれるかもしれない。いえ……憎まれなさい。あなたがその役を担わない限り、人間は滅びます」
「でも……どうやって……」
「理想は……これね」
美しい人がリーゼに一冊の本を手渡したところで、リーゼは何かに揺り起こされた。
「お嬢様、酷くうなされておりましたよ」
すでに日は高い。リーゼは、専属メイドのエリザに揺り起こされたのだ。
リーゼは目覚めた。
白い世界の事は、全て覚えていた。
「ああ……ありがとう。水をくれる?」
「ただいまお持ちします」
エリザが出て行った。
リーゼは、自分の額を撫で上げ、髪を掻き上げた。
夢の中の綺麗な人が勧めた本を受け取る前に、目覚めてしまった。
夢の中から本を持ってくるような奇跡は起きていない。
せめて、最初のページだけでも見たかった。
タイトルもちゃんと覚えていない。
だが、タイトルに含まれた数文字だけは覚えていた。
『悪役令嬢』
その言葉が、リーゼの中で次第に大きく膨らんでいった。
人間の滅亡予告日まで100日
魔族が滅びるまで110日




