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オマケ



「おにいちゃん、朝だよ」

 ドーンと軽くて柔らかい物体が、ベッドで横たわる勇士の上に落ちてきた。

「おうっ」

 その不意打ちに勇士は息を詰まらせてしまった。

「ほらほら、目を開けてー」

 どこまでも元気印の妹が、カーテンを開けていくにつれ、彼の部屋に朝日がいっぱい差し込んできた。

「うーん」

 ベッドで上体を起こした彼に、すでに学校の制服を着ていた妹の明日菜が振り返った。頭の両側で結んだ髪が、遠心力で丸く宙を舞った。

「おはよ。おにいちゃん」

「おはよ、アスナ」

「朝の準備できてるから、はやくはやくぅ」

「おう」

 勇士はいつも寝間着代わりに着ているTシャツを見おろした。

「どしたの?」

 呆然としている兄に、アスナが不思議そうな顔をして見せた。

「いや、着替えるから先に降りてろ」

「はーい」

 何か言いたそうなまま明日菜は部屋を出て行った。

 ベッドからノロノロと起き上がり、クローゼットの扉を開いた。そこに備わっている鏡をのぞき込むと、いつもの自分がいた。

「夢?」

 変な夢を見たと思おうとした時だった。鏡に映った自分の顔が、霧の中の老人に入れ替わった。

「!」

 驚いてたじろぐと、鏡の中で老人が口を動かした。

《勇士よ。今度は、一週間の間、死なぬようにするのだぞ》

 鏡の中から勇士に告げると、微笑みを見せて消え失せた。

「夢じゃないのか…」

 額に浮かんできた脂汗を拭い、しばし呆然と立ちすくんだ。

「おにいちゃん! 冷めちゃうよ!」

 階下から明日菜の催促して来る声が無かったら、一日そうしていたかもしれない。

「おう!」

 声だけは元気よくこたえ、勇士はクローゼットをかき回し始めた。

 大分下の方から出てきた黒いTシャツ。勇士はそれを忌々し気にゴミ箱へ放り込んだ。

(死んじまう運命なんか、変えてやる)

 制服に着替えた勇士は、鏡の中の自分を睨みつけながら決意した。



 トーストにサラダという小野家では定番の朝食を片付け、揃って玄関を出る。

 勇士と明日菜は、幼年部から大学院まで揃えた私立清隆学園の生徒である。勇士は高等部一年、明日菜は中等部二年であった。

 昨年、明日菜が中等部に合格してからそうしているように、今日も二人並んでバス停へ向かうつもりだった。

 勇士が鍵を閉めている間に、明日菜は犬小屋の前にしゃがみこんでいた。

「それじゃあ、ルス番たのみますよー」

 地面に寝転がって腹を見せている愛犬の毛皮を撫でながら、明日菜はそう語りかけていた。

 そんな見慣れていたはずの一コマを見おろすと、勇士にまたあの感情が湧いてきた。

(この風景を一週間後も見れるようにしなきゃな)

 そしてまだ小さい愛犬へ視線を移す。

(ありがとうな、キララ。オマエのお陰でやり直すチャンスが貰えたんだ)

 そんな勇士の心を知ってか知らずか、雑種犬キララはつぶらな瞳を勇士に向けた。頭のいいコなので、無駄に吠えたりはしない。

「ほら、遅刻しちゃうぞ」

 放っておいたらいつまでも撫でている気がして、勇士は明日菜を急かした。

「あ…」

 その時だった。

「肉がイル」

「?」

 声をかけられた気がして振り返ると、そこに狂人が立っていた。

 第一印象は背の高い美人である。しかし、黒い髪は伸ばし放題に伸ばして、手入れをしている様子はまったくない。服だって、何日も着替えていないかのように薄汚れ、垢と汗と臭いがした。それに加え今日は、なぜかトウモロコシを持っていた。

 年のころは勇士と同じ女である。その赤い唇が歪んだ。どうやら微笑んでいるようだ。

 極めつけに特徴的なのは、その左目であった。開いた瞼の中は真っ赤の充血した白目に、赤く変色した瞳をしているのだ。

「よう。おはよう」

 その異様な雰囲気で、家の前に通りかかる通行人すら、わざわざ道の反対側へ大回りしていたりする。その女に、勇士は親しげに話しかけた。

 その声が耳に入ったことで、まるでスイッチが切り替わったように、女の視線が勇士へと向いた。

「ごきげんよう、ユウジ」

「キョウコも機嫌よさそうだな」

 手に持っている物が凶器になりそうなので、注意して声をかける。

 彼女は吉田恭子。勇士の幼馴染というやつである。長い付き合いなので、他人には分かりづらい恭子の機嫌も、勇士には読み取ることができた。

 茶色の右目と赤い左目が回るように動いた。

「大きイ肉が一個に、小サい肉が一個…」

「肉じゃないよ。アスナだよ」

 勇士の優しい声に、視線が戻って来た。

「肉に変ワりは無いジャないの」

「今日は、オバサンはどうしたの?」

「ホ護者?」

 カクっと首が横に傾げられた。そのまま肩の上から落ちる錯覚をもよおすほど機械的であった。

「そレが、わたしのドコに関係がアると?」

 少々雲行きが悪くなったような声であった。だがそれだけで、彼女の保護者が彼女を見失っていることが察せられた。恭子の視界に入らないように、背中で勇士は左手を振った。

 その合図に気が付いた明日菜が、自分の携帯を取り出して、なじみの電話番号をコールしはじめた。

「そりゃ心配してるだろうからさ、オバサン」

「そレはどうでしょう。いなクなって、清々しているのカもしれないわ」

 そう言いつつ恭子は一歩前に出た。他の誰かならばたじろいでしまうだろうが、慣れている勇士は平気であった。

「ユウジは、おでカけ?」

「これから学校だよ」

「学校? わたシは行ってナいワ。学校」

 形の良い眉を、ちょっとだけひそめる恭子。

「キョウコだって、行けるようになるさ」

「そンな優しい言葉をかけてクれるのは、ユウジだけよ」

「最初のトモダチだからな」

 恭子は、勇士が近所の幼稚園に入園して、最初にできたトモダチだった。いままでの色々な思い出がある限り、勇士は狂ってしまったからと言って、恭子を切り捨てることはできないのであった。

「キョウコちゃん!」

 中年の半ばも過ぎた女性が道をかけてきた。一目でだいぶやつれていることが分かる、そんな女性であった。背の高さも顔の造形も恭子にだいぶ似ていた。

 彼女が恭子の伯母である神谷月子である。

 おそらく徘徊癖のある恭子を探して、街をだいぶ探した後なのであろう。ふと半分だけ振り返って確認すると、明日菜が自分の携帯を軽く振っていた。

 余分なことを口にすると騒ぎ出すと分かっているのか、二人に会釈だけして恭子の肩を押して誘導する。

「あら、もウ行かないと。でワ、ごきげんヨう」

 おしとやかに頭を下げる恭子と、泣きそうな表情で顔が固まっている月子が去っていくのを見送る。彼女がまともに人として認識しているのが勇士ぐらいのものだから、週に何度も見ることになる風景だった。

「さ、おにいちゃん。いこ」

 二人の背姿を見送っている勇士に、明日菜が声をかけた。



 バスの車内に通勤通学の時間帯に余裕があるわけもなく、二人は周囲の人込みから受ける圧力のまま、目的地まで密着状態で我慢することになる。

 いい加減お年頃なのだから、兄にくっつかれて嫌がってもいいだろうに、幼いころからお兄ちゃんコだった明日菜は、嫌な顔を見せることは無かった。

 バスは定刻よりちょっと遅れて、清隆学園前のバス停に到着した。

 桜並木の緩い上り坂の向こうに、在校生から「刑務所」だの「ベルリン」だの悪い呼び名がつけられた高い壁が見えてくる。

 高等部はあの壁の向こうとなる。

 中等部は、もうちょっと奥に位置しているため、明日菜とは毎日高等部の正門前で別れることになる。

「じゃあな、アスナ」

「うん。今日は遅いの?」

「あー」

 勇士は自分の予定を思い出してみた。

「今日は月曜だろ。部活のミーティングがあるから、いつもよりは遅いかな」

「そっか…」

 残念そうに唇をすぼめる明日菜。兄という立場から見ても、仕草が年相応でかわいらしかった。

「じゃあ今日はカレーでいい?」

「作ってくれるならなんだっていいさ」

 南米のバルベルデという小国に赴任してしまった父と、それについて行ってしまった母。ただバルベルデは長く政情不安が続いており、子供を教育する環境としてはあまりお勧めできない土地であった。

 二人して、競争率の高い清隆学園へ、せっかく合格できたという事情もあり、子供二人は両親と離れて日本に残ることが決まった。そんな生活で毎日の食事は、妹の明日菜が張り切って作っていた。もちろん勇士は、男子厨房に入るべからずなんていう古い考えは持っていなかった。当番制にしようかと提案したこともあったが、明日菜にはっきりと断られていた。

 曰く「だってアスナの、はなよめしゅぎょうだもん」だそうだ。

 まあ、そう言われてしまうと家事が全般的に苦手な勇士も、妹に甘えてしまうことになってしまうわけで、台所は明日菜の担当ということになってしまった。

「寄り道しないで帰るんですよ」

 まるで母親のようなことを言いながら、兄へ背中を見せる中学生。

「はいはい」

 勇士の口元には苦笑のような物が浮かんできていた。

(アスナのためにも、一週間生き残らなくちゃな)

 勇士は同じ制服を着た人ごみの流れに加わった。



 生徒昇降口で上履きに履き替え、教室があるB棟へと移動しようとする。

 全校生徒の半分近くが電車バス通学なので、自然と同じ時間帯に登校するものが増えてしまう。よって登校時間のいまは廊下もラッシュアワー状態であった。

「あ、小野くん」

 二つの棟を繋ぐ位置にある階段室へ向かう途中で、人ごみの中から声をかけられた。

 振り返ると、ほぼ同じ目線の高さに笑顔があった。

 声をかけてきたのは、シュシュで束ねた長い黒髪を、左肩から胸の前へ流している美人であった。

 女性としては高い身長と、体中に纏わりつかせている雰囲気といい、新任の女教師のような佇まいであるが、着ている物は清隆学園高等部の制服であった。

 襟に付けたクラス章や、学年ごとに違う色が指定されている上履きなどで、二つ上の三年生と分かる。どうりで一年生の勇士と比べて大人びた印象を持っているはずである。

 彼女は勇士の知らない人物ではない。むしろクラスメイトの女子よりは会話を交わすことの多い先輩であった。

 彼が所属する刀剣研究部の部長、飯塚咲弥であった。

「ブチョー…。はよっす」

 彼女の方も積極的に男子と話すようなタイプではないのだが、同じ部活という気安さが手伝って、声をかけてきたのだろう。

「おはよう」

 固い無表情を取り崩して笑顔を作ってくれた。勇士のうぬぼれであるかもしれなかったが、彼女が笑顔を見せてくれるのは彼だけであるようだ。

「今日、部活はどうする?」

「部活っすか?」

 二人が所属する刀剣研究部の活動曜日は、生徒会に申請した書類によると、水曜日となっている。それ以外の日には、同じD棟二階にある学生会館か、談話室に集まることが多かった。

 しかし活動内容と言えば、図書室から関連書籍を借りてきての資料集めやら、休日へ有名刀剣が展示されている博物館へ行くとか、それ以外は何となく集まって時間をつぶしているだけの、帰宅部すれすれの活動しかしていなかった。

 そんな部活に勇士が入ったのは、クラス担任が新年度の始まった最初の学活で「なんでもいいから部活に入ること。入れば内申に色が付くから」と告げたからだ。

 勇士が適当な文化会系の部活に潜り込もうと考えていたところ、廊下で廃部を回避するための新人勧誘がうまく行かずに、一人で泣きそうにいた咲弥と目が合ったのだ。

 大人の女性に見える美人が泣きそうになっていた。それに勇士が同情したのがきっかけとなった。

 廃部を避けるためには、部員数が最低でも五人必要であった。今年度の部長である咲弥と、入部することにした勇士と合わせて二人。残り三人は、勇士が「幽霊部員で構わないから」とクラスメイトたちに声をかけて確保した。

 廃部回避が確定となり、感謝してくれた咲弥の浮かべた別の種類の涙は、勇士の記憶に刻まれていた。

 その時と同じような目線で、咲弥の赤茶色の瞳がやや下から勇士の表情をのぞき込んできた。

「んまあ、別にコレといった用事があるわけでも無いっすから」

「じゃあ、またいつもの学生会館で」

 一斉に花が咲いたような笑顔を見せて、咲弥は階段室を出て行った。

 今にもスキップを踏み出しそうな彼女の背姿を見送りながら、勇士もそのお裾分けを貰った気になって、階段へ踏み出した。



 高等部B棟三階、一年二組の廊下側の列中ほどに勇士の席はあった。

 いつもの時間に席へ着くと、すでに隣の席に座っていたクラスメイトが明るい笑顔を向けてきた。

「おはようユウジくん」

「おう。おはよシュウ」

 その同級生は一言で表現すると、気の弱そうな女の子であった。

 耳にかかるぐらいの薄い色の髪には強い癖がついており、高めの声は耳障りが決して悪くなく、それよりも天使の囁き声かと思えるほど優しい響きであった。

 長い睫毛に潤んだトビ色の瞳、人よりも白さが目立つ肌には理由があった。

 彼の祖母がフィンランド系アメリカ人なのである。

 そう、猪熊修也は、神が戯れに作ったとしか思えない完璧な少女であった、男なのに。

 じーっと見つめる勇士の様子に、いつもと違うものを感じたのか、不思議そうに修也は小首を傾げた。

「どうしたの? ユウジくん」

「いや」

 いつもの平和そうな修也を見ていると、自分が一週間後には死ぬ運命だということを忘れてしまいそうになった。

「あ、その…。また読んでいるのか? その雑誌」

「うん」

 ちょっとハニカミながら、机の上でなく膝の上でページをめくっていた薄い雑誌を持ち上げた。

 彼の膝の上にあるのは、今どき読む人が少ないであろう電子工作を扱う月刊誌であった。

 勇士には、何が書いてあるのかさえチンプンカンプンな記事内容しか掲載されていないような雑誌である。そんな専門知識がなければ理解できない記事を、修也は平気に読むどころか、なにか暗号のようなメモを記事から拾い上げていた。

「ええと…」

 目線を宙に彷徨わせて、修也は少し言葉を探した。

「ボクがいま作っているロボットに使えそうな回路があってさ」

「ボクじゃなくて、オレな」

「あ…」

 勇士の指摘に修也が口へ手をやる。そんな仕草の一つ一つすら女の子のような彼へ、勇士は意識して男っぽい言葉を使うように指導していた。

 ただでさえ女の子のような外見なのである。さらに見るからに小動物のようなオーラさえ醸し出していた。

 そんな「カモ」に、素行不良な上級生が目をつけないわけがない。新学期早々上級生に絡まれること十数回。金を巻き上げられるだけなら被害が少ない方で、要求はどんどんエスカレートしていった。

 そんな修也を救ったのが勇士なのであった。

 勇士だって腕っぷしは強いと言える方ではなかったが、学内の秩序を守る風紀委員会の力も借りて事件の解決を図った。

 金銭的な被害も全額返還するということで警察沙汰にしないと、その上級生と話がついていた。

 そんな恩人である勇士に、修也はすっかり懐いてしまっていた。

「ぼ…、じゃなくて、オレが作っているロボットに、使えそうな回路があってね…、あってな」

 はたから見ていると可愛い少女が粋がって無理に口調を男言葉にしているようにしか見えなかった。

 勇士は大きなため息をついた。

 せめて口調だけでも男っぽくすれば、あんな被害に遭うようなことは無いだろうと思って科した課題であったが、どうやらうまくいかないようだ。

「ん? なにかおかしなトコあったかな?」

 本人に自覚がないところが一番致命的であった。

「まあ、いいや。ロボット?」

「うん。ぼ…、オレがコツコツ作ってた人型ロボットが、そろそろ完成しそうなんだ」

 そしてニッコリ。やはり女の子にしか見えなかった。

「あ~、前に言ってたヤツか」

 二人でつるむようになって打ち明けられた修也の趣味である。彼は人型ロボットを製作中なのであった。始めた動機は、やはり強く出られない自分であった。イジメっ子から守ってもらえる存在が欲しかった。だが気弱な彼に今までそんな友人はおらず、いない物は作ろうとして、用心棒として人型ロボットの制作に入ったのだ。

 だが、そんな動機も勇士の存在で霧散した。

 今では自分の技術力向上のために、続けている趣味なのだ。もちろんロボット製作工場を営む家族へ、自分の実力を示すという副次的な意味もあった。

「そっかぁ、完成しそうなのか」

 友人として喜ばしいことだ。これで修也が自分に自信を持てば、さらにいい技術者としての道が開けることだろう。

「えへへ。そしたらユウジくん、見に来てくれる?」

 はにかんで下からの目線。やはり神は彼の性別を間違えたようだ。

「おう。ぜひとも見せてくれ」



 午前中の授業は滞りなく終わり、昼休みとなる。

 生徒たちはそれぞれの席でお弁当を広げたり、D棟にある購買部でパンなどを買ってきたり、学食へ押しかけたりする。

 勇士は、どちらかというと学食派であった。

 お弁当は家事担当の明日菜に負担がかかるし、購買部は人気のカレーパンなどの獲得競争が激しいので食った気がしないからだ。

 と言って学食に欠点がまるでないわけでもない。

 まず味や量は、この値段ならば納得しないこともないというレベルだ。これは利点であろう。

 栄養バランスは、ちゃんと栄養士がいるので間違いない。これも利点の一つだ。

 ただし床面積に対して押しかける生徒の数が多いので、いつも入り口に長い列ができるのだ。酷い時などは、やっと食べられると思ったら午後の始業時間を気にしながらかきこまなければならないことがある。

 今日も混んでいる学食で、日替わりランチのトレーを手にした勇士が、窓際に席を確保できたのは、まったくの偶然だった。

 向かいの席には当然のように修也が座っている。

 最初はお弁当だった修也だったが、勇士にあわせて学食利用に切り替えたのだ。

 友情に厚いと感じればいい話なのだが、なにせ見た目は美少女の修也である。熱い眼差しを送って来る女子生徒数名がいたりする。

 まったく誤解である。いやわざと誤解しているのかもしれないが。勇士の嗜好は、もちろん女であった。

「あのさあ…」

 もしかしたら一週間後には死ぬかもしれない運命でもある。死なないように努力するつもりだが、言いたいことはこの際言っておこうと決めた。

「シュウも見た目はいいんだから、彼女の一人でも作ったらどうだ?」

「もぐ?」

 コロッケを口いっぱいに頬張っていたため、それが喉に詰まりそうになって目を白黒させる修也。なんとか嚥下した彼は、ついでに味噌汁で口の中を整えてから言葉を発した。

「ボクが彼女つくるなんて、無理無理」

 とんでもないとばかりに首を振る。

「そうか? まるでペットのように可愛がってくれる女子ぐらい、探せば出てきそうだけど」

「ユウジくんまでそんなこと言うんだ…」

 絶望に顔を歪ませる修也。そういえば彼は、別の意味の「かわいがり」で酷い目にあっていたのだった。

「ちげーよ」

 慌てて勇士はフォローした。

「ほら、大人な女性なんかは、シュウみたいな男の子の面倒見たいなんていう欲求があるんじゃないか? そういう人なら、シュウの面倒を任せられるかなって、思ったんだよ」

「ユウジくんは、ボクがキライなの?」

 潤んだ瞳を向けてきた。

「バーカ。好きでもないダチとツルむかよ」

 呆れたように言ってから、添え物のポテトに手をつける。ふと反応が無いことが不思議で顔を上げると、修也が今度は真っ赤な顔をしていた。

「てへへ。好きって言ってくれた」

「いや、友人としてだけど?」

 間髪入れずに言っておく。

「うん、わかってるよ」

 ニコニコと赤くなった顔を、軽く握った拳の向こうへ隠す修也。気になった勇士は、確認することにした。

「何回も聞いたと思うが。シュウも女が好きなんだよな?」

「そうだよ? 当たり前じゃないか、ボクは男の子だよ」

 不思議そうに首を傾げる修也。

「だって男同士って、ああいう時はお尻なんでしょ」ブルルと身もだえ「そんなバッちい」

「聞くたびに安心するぜ」

 それから先ほどのイメージから興味が湧いて聞いてみた。

「じゃあ、ブチョーなんかどうだ? 大人びたようで、オマエに似てどこか天然なトコがあるし」

「部長さん?」

 修也も刀剣研究部に籍だけは置いていた。もちろん勇士の頼みがあったからだ。

「あれ? いいの?」

「いいのとは?」

「だって、部長さんのこと狙っているのはユウジくんでしょ?」

「ぶほっ」

 あまりの質問に、含みかけだった味噌汁のワカメが鼻から出た。

「あれ? ちがうの?」

「んー」

 重ねて聞かれて、勇士は腕組みをした。目を閉じて考えてみる。

「ほらアノ人は、虎徹ラブの人じゃん?」

 部長の咲弥は、刀剣研究部創立のきっかけとなったゲームに出てくる、名刀虎徹を擬人化したキャラであるところの、はかま姿をした青年のファンであった。もちろん二次元である。

「そらあ最初は、下心がまったく無かったとは言わないけどよ」

 瞼の裏にD棟の中央廊下で儚げに涙ぐんでいた咲弥を思い浮かべる。

「けど、実態を知っちゃうとなあ…」

 あの時は、高校ともなると大人のような女子もいるんだなあと感心すらした。しかし次に勇士の脳裏に浮かんできたのは、アニメショップで手に入れた抱き枕を、普段にはまったく見せない表情で抱きしめている咲弥であった。

 しばらく沈黙した後に言った。

「考えさせてくれ」

「そんな人をボクに薦めたんだね」

「うっ」



 午後の授業も終えて、今日の課業はおしまいである。学活も終えて、以降は委員会のある者はそちらに、部活のある者はそれぞれの活動場所へと散っていく。

「さて、行くか」

 自分の荷物をまとめた勇士は、隣の席に声をかけた。ちょっとトロいところがある修也は、まだ机の上を片付け切れていなかった。

「ちょっとまっててね」

 趣味のロボット製作と同じような精密さで、キャラクター物の筆箱や、配られたプリントなどをバッグへ入れている。ひょいと覗いてみたら、まるで工業製品のように、四角四面に教科書やノート、それに文房具が納められていた。表紙の向きまで揃えられているという几帳面さであった。

 対して自分のバッグはというと、表紙の向きを揃えるどころか、教科に足りないノートだったり、いつ放り込んだかわからない紙屑だったり、とても人には見せられない状態であった。

(まさか人に見られて恥ずかしいモンなんか入ってないだろうな)

 心当たりは無いが、借りたエロ本なんかそのままにしておいて、一週間後に死亡した後に明日菜あたりに見つかったら、それは取り返しのつかない程の恥辱ではないだろうか。

 不安になった勇士は、まだトロトロと修也が荷造りしていることをいいことに、自分のバッグの中身を検分することにした。

 教科書やノートはまだいい。その間に間違えて薄い写真誌が挟まっていないかをまず確認した。

 大丈夫だ、問題は無かった。

 あとこの丸めたプリント類はなんだろうか。

 ワシャワシャ開くと、入学直後に渡された高校生としての心得みたいなプリントなどであった。

これを機に捨ててしまおうと、まとめて一つに丸めてしまい、野球のボール程度の物を作った。

 教室に備え付けのゴミ箱と、自席の距離、そしてできたばかりの紙屑を見比べた。

(いけそうだ)

 座ったままで、バスケットボールのシュートをイメージしてみた。もちろん屋内なので横風などの要因は限りなく少ない。

「ほっ」

 手首のスナップを利かせたシュートは、見事な放物線を描いて、燃やすゴミの箱へ…。

「?」

 と思ったら、丁度通りかかったクラスメイトに当たってしまった。ブレザーが制服に規定されている清隆学園で、学ランを着て授業を受けている奴である。学ランの方は二十年ほど前まで制服だったとかで、今でも第二種制服として着用が認められている。が、さらに彼はボタンを三つもはめずにいて、中に着た黒いワイシャツと、首に巻いた白いスカーフを見せているという異装なのだった。

 かねがね勇士は彼を見るたびに(あれで先生に怒られないんだったら、私服でも大丈夫じゃね?)と思うのだった。

 それよりも紙屑だ。

「おーい、えー、悪いな、左右田くん。代わりに捨てといてくれ」

 不思議そうに自分に跳ね返った紙屑を拾い上げていたクラスメイトが、勇士の声に振り返った。

 はっきりと眉を顰めた彼は、勇士を確認すると紙屑を拾い上げた。

「まったく、またぶつけて…」

 ブツブツと呟きつつ紙屑をゴミ箱へ。それを見ていた勇士は、強烈な違和感に包まれた。

「待て!」

 ほとんど反射神経で勇士は立ち上がった。クラスに残っていたほとんどが彼を見たが、そんな事は気にならなかった。荷物も修也もほったらかしで、教室から出て行ったクラスメイトの左右田を追いかけた。

 廊下をゆっくりと歩く左右田を見つけると、行く手を遮る様に前へ回り込んだ。

「待ってくれ」

「なにかな?」

 面倒くさそうに左右田が訊いてきた。なぜか訊いてはならない質問をするような気分になるが、勇士は勇気を振り絞って彼に訊ねた。

「いま『また』って言ったよな?」

「ああ」

 左右田は焦点のあっていないヤバ目の顔をしていた。身長差から勇士を見おろすと、何を当たり前の質問をするのだろうという顔になった。

「またって、何回?」

「?」

「オレはキミに何回ゴミをぶつけちまったんだ?」

 左右田は、なんだそんな質問かという態度で、簡単に答えてくれた。

「今ので四万三千一百四十五回だ。いいかげん、ゴミをぶつけるのは止めてもらいたいものだね」

「はあ?」

 勇士の口から素っ頓狂な声が出た。

「じゃ、いいかな」

 と言い残して行こうとする左右田に、勇士は食い下がった。

「ちょ、ちょっと待て。四万回もオレはキミにぶつけているのか?」

「四三一四五回だ」細かい数字に左右田が訂正する。

「キミは忘れているようだから教えてあげよう。キミは毎日殺されるという一週間を繰り返している。その繰り返しの一回は二七日で、その度にボクに五回もゴミをぶつけている」

「一週間を二七日?」

 勇士の脳裏に、緑色の工具を振り上げる恭子の姿が浮かんできた。

「ああ。火曜日に幼馴染。水曜日に部活の先輩。木曜日は猪熊くんだ。金曜日には妹さんに突き落とされ、土曜日に集団暴行。そして日曜日の交通事故で頭をやられて、全部忘れて最初に戻る。その繰り返しが一つの単位となっており、それをこなすのに二七日かかっている」

 左右田に指差され、勇士の膝が笑い始めた。恭子の次に、緋色の鞘を持つ咲弥を思い出したからだ。

「そのローテーションを、キミは八六二九周繰り返して、今日で二三二九八三日だ。よって、ゴミをぶつけるのが今回で四三一四五回目だ。わかったかね?」

 次にドリルを持つ修也に思考が行った時、勇士は立っていられなくなって、廊下に膝をついてしまった。

「それじゃ、ボクは行くところがあるから、失礼するよ」

「待ってくれ」

 勇士は左右田の学ランにしがみついた。

「う、ウソだよな?」

 自分で訊いたことなのに、それが真実だと魂の奥から感情が湧いてくる。

「ボクがキミにこんなウソをついて、なんの得があると?」

 まるで学究の民が観察対象へ向ける目のように、勇士を見おろした左右田の視線は冷たかった。

 金属製のオタマを振り上げる明日菜を思い出しながら、勇士はさらに左右田にしがみついた。

「た、助けてくれ」

「は?」

 左右田は眉を顰めた。

「いま、なんと言ったのかな?」

「助けてくれ、お願いだ。もう殺されたくない」

 そう言っている勇士の頭の中には、みんなが襲いかかってきたり、逆にみんなを小太刀で突き刺す映像が、ごちゃ混ぜになって駆け巡っていた。

「ふむ」

 左右田は行こうとするのを止め、腕組みをした。

「キミはボクに助けて欲しいと言うのだね?」

「ああ…、いえ、はい」

 すがったまま勇士は頭を何度も縦に振った。

「だが、解決するのはキミ自身の力だ。ボクができるのは手助けぐらいなものだぞ」

 どこまでも冷静に語る左右田に、勇士は立ち上がってこたえた。

「どうやっていいかすら分からないんだ。ボクはどうすればいい?」

「ふむ、そこからか。ではついて来るんだ」

 そう言うと左右田はスタスタと東階段に向かって歩き出した。勇士も、荷物や修也なんかほったらかしで、その背中を追った。

 一組の前を通り、その次が空き教室。小さな倉庫を過ぎると、屋上へ向かう上り階段と、階下へ向かう下り階段がある。

 左右田は、そのどちらにも向かわず、ドン詰まりにある便所に行くようだ。もちろん向かって右側の男子便所へと入った。

 右に並ぶ小便器を無視して、左奥の個室の前で止まる。そして、ちゃんと勇士がついてきたのを確認すると、その個室のドアに手をかけた。

 すると、それまで白い「空」表示だったのが、外側からしか触れていないのに、カタンと表示を変えた。ただし赤い「使用中」の表示ではなく、黄色い表示でクエスチョンマークを逆さにしたような図形が表示されていた。

「行くぞ。気をしっかり持つんだ」

 左右田がドアを押し開けると、個室内から圧倒的な白い光と、そして台風のような暴風が全身に押し寄せた。

 バーンとオルガンの鍵盤を叩きつけたような音が周囲を支配する。

 まるで吹雪のような冷たい風に、周囲に霧が発生し、視界を狭くしていった。

「さあ、キミ自身が解決するんだ」

 圧倒的な和音の中から左右田の声がしたが、もう光と風で、彼を見ることは叶わなかった。



「…次のニュースです。□×県〇×市のホテルで、地元産の果物を使ったカクテルの出来栄えを競う大会が開かれました。県内外から予選を勝ち抜いた一〇人の参加者が腕を競い合い、審査の結果、最優秀賞には文井直之さん四十一歳の「KISS THE KAKUTERU」が選ばれました。大会では味や香りはもちろん、飾りつけやネーミング等も審査され、文井さんが考案したカクテルは、ラム酒をベースにした初恋をイメージした物でした。今後、大会の開かれたホテル内のバーなどのメニューに加えられる予定です。…次の話題です。今年も田んぼアートに向けて…」



 厚い霧の中を歩いていくと、テレビのニュース番組のような音声が聞こえてきた。

(こんなところで、なぜテレビの音が?)

 一瞬顔を歪めた勇士は、それでも構わずに、前方の暖かい光の方へ歩いて行った。

 やはり、なにかの石碑のような大岩が見えてきて、その前に白い服を着た老人が、岩の縁に腰かけて、勇士とは違う方向を見ていた。

 長い髪も髭もすっかり銀色に染まっており、鋭い目元など記憶にあるままだ。

 勇士が歩いて近づくと、ふと気が付いて振り返り、その顔は驚きに支配された。

 彼の前まで行くと、のろのろと立ち上がり、長い髭に包まれた口元を開いた。

「なぜ、オヌシがここに? まだ死んでおらんじゃろう」

 当然の質問に、勇士も困ってしまう。

「いや、なぜだかココに…」

 言葉を口にしてから、彼に言われたことを思い出した。

(キミ自身が解決するんだ)

「ちょっとまてよ!」

 少々怒気の含んだ声を上げてしまう。

「まさか…。全部、あんたが?」

「なんの話かのう」

 老人は目を細めた。

「よいから、元の場所へ戻れ。でないと、生き返ることはできんぞ」

 明らかにとぼけている様子に、勇士はカッと自分の頭に血が上るのを自覚した。

「てめえ、オレをオモチャにしやがったな!」

「ふむ」

 老人は目を細めた。

「どうやらコスかタマシュの信者にでもたぶらかされたようじゃな。わしを信じておれば、無事に生き返ることが出来るというに」

「そんなヤツが八〇〇〇回も同じことを繰り返させるのかよ!」

「おやおや」

 感心したように老人は自分の髭を撫でつけた。

「そんなことまで知ってしまったのか」

「大人しく、オレを生き返らせろよ! もうあんな目に遭うのは嫌なんだよ!」

 勇士の中に、これから経験する、そして今まで経験してきたあれやこれやが浮かんできた。

「できない、と言ったら?」

 意地悪そうに細められる目に、一歩たじろいでしまうが、この場所へ導いてくれたクラスメイトを信じることにする。自分で解決しなければならないのだ。

「あんたを組み伏せても、言うこときかせてやる!」

 そのまま両手で拳を作ると、ボクシングのファイティングポーズのような物を作った。それを見た老人は「はあ」とため息をついた。

「もう二〇〇〇回は遊べると思ったのにのう」

 その言葉で勇士は相手が悪だと確信した。ダッと駆け寄ると殴りかかるが、老人とは思えない程の軽やかな体さばきでかわされてしまった。

「めんどうくさいのう」

 老人は両手を下から上へ、なにか天へ捧げものをするかのように振り上げた。

「なに?」

 すると地面から、塊が起き上がり始めた。その数は全部で四つ。地面から起き上がると、まるで廃油のような黒褐色に変色し、ボコボコと表面が沸騰したように波打った。

「まさか…」

 見る間に地面から起き上がった塊は、四人の人間と変化した。その全てが勇士の知る人物であった。

 バールを持った恭子。小太刀を提げた咲弥。ドリルを手にする修也。オタマを握る明日菜である。四人とも勇士の記憶にある服装をしていたが、全員がまるで死人の様なうつろな表情をしていた。しかも髪も肌も、着ている服や持っている凶器までもが黒褐色一色で、どう見ても生きている人間に見えなかった。

「うおおう」

 気の抜けた悲鳴のような声を上げて、ゆっくり歩く速度で襲い掛かって来る。速度は遅いが、こちらは武器どころか服さえ身に着けていない状態である。

 次々と振り下ろされる凶器を避けるだけで精一杯だ。そんな勇士の様子を、黒褐色たちの後ろから、老人は面白そうに眺めていた。

「ちくしょう」

 避けるのに忙しい勇士は、悔しくても歯噛みするぐらいしかできない。これが一体なら、隙をついて老人に襲い掛かれるのだろうが、四体ともなるとそうもいかない。次から次へと繰り出される攻撃が邪魔をする。

「くそ。せめて武器ぐらいあれば」

 噛み締めた歯の間から愚痴のようなものが出た。

「そのようなもの、この世界には存在せぬぞ。ほれ、言っている間に避けんと」

 老人が勇士の神経を逆なでするようなことを言ってくる。それに気を取られたのがいけないのか、恭子っぽい黒褐色の攻撃が、右腕をかすめた。

 こんな世界なのに、痛さは本物だった。

「もちろん」

 右腕を押さえる勇士を見て、老人は忠告するように言った。

「ここで死んだら、もう生き返ることはできんぞ」

「ちくしょう!」

勇士が歯を剥き出しにして悔しがった時だった。

「まあ、頑張った方だな」

 突然、空間に第三者の声が響き渡った。

「?」

「!」

 老人は驚きの表情で周囲を見回し、勇士は四体の攻撃を避けながら援軍の到着を確信した。

 今の声は、左右田の物に間違いなかったからだ。

 バンという音とともに、勇士の背後から突風が吹いた。それに煽られて四体の敵はバランスを崩してよろけ、勇士と距離を取った。

「これを使え」

 空間全体から響いてくる声とともに、勇士の正面に何かが現れた。

 幾重にも重ねた漆を研ぎあげたことで、黒から緋色への見事なグラデーションを見せる鮫鞘に納められた小太刀。

 目の前にいる咲弥っぽい黒褐色が握っている棒なんかでなく、本物だけが持つ殺気のような雰囲気でわかる。

 何にも支えられていないのに宙に浮かんでいたそれを、勇士は鷲掴みにした。

 キンという澄んだ音で鯉口が切れる。

 スラリと抜き放つと、蛙子丁子波紋が浮かび上がった白い刀身が大気にさらされて、凛となった。

 勇士が武器を手にしたことにより、黒褐色たちがあからさまに動揺する仕草を見せた。

「やれい!」

 黒褐色どもの後ろから老人が声を上げた。

「やってしまえい!」

 その声に押されたかのように、修也っぽい黒褐色が手にしたドリルを回転させながら突きを繰り出してきた。

 勇士は何も考えなかった。

 腕が、いや小太刀が勝手に動くと、突き出されたドリルを避けながら修也っぽい黒褐色を袈裟切りに一刀両断した。

 二つの塊になった黒褐色は、じゅぶじゅぶという汚水が泡立つような音をさせて、地面へと崩れ落ちた。そして、まるで最初から液体だったかの様にその場所に広がると、黒いシミを残して消えてしまった。

「同時にかからんか。バカもの!」

 老人の叱咤に、三体が左右から打ちかかってくる。それに対して勇士は一歩踏み出すと、まず右から来た恭子っぽい黒褐色の胴を払い、返す刀で左から振り下ろされた黒褐色のオタマをくぐって、明日菜っぽい黒褐色を下から逆袈裟切りにした。

 正面から振り下ろされた黒い棒状の物と切り結ぶ。

「が」

 うつろな表情をしている咲弥っぽい黒褐色と鍔迫り合いとなった。その間に、左右の二体は、修也っぽい黒褐色と同じように地面のシミと化した。

 黒い眼孔しかないようなモノと睨みあってから、勇士は前蹴りを繰り出した。腹を蹴られて身を折る咲弥っぽい黒褐色に、大上段からの一撃を喰らわせる。

 途中、ノロノロと差し上げられた小太刀っぽい武器ごと、一刀両断にした。

 さすが妖刀『白露』。切れ味に迷いなし。

 勇士は、切っ先を老人へ向けた。

「さて、あとはあんただけだ」

「ふむ」

 残念そうに老人は口を開いた。

「ここまで来てなんだが。その剣で、わしを斬ることはできるのかの?」

「やってみればわかるさ」

 勇士は気合を入れて、小太刀で切りかかった。すれ違いざまの一閃。

「?」

 しかし老人は倒れるどころか、ダメージを受けた気配すらなかった。

「ふむ。妖刀とはいえ、この程度か」

 振り返ると、確かに老人の右腕は上腕部で切断されていた。しかし、そのような切断面が存在しないかのように、右腕は胴体の横に位置していた。

 宙に浮いている右腕を曲げ、掌を見るという芸当までしてみせる。

「対して恐ろしくはないな」

 しゅっと短く息を吐くような音がすると、もうどこにも切断面は存在せず、最初から攻撃を受けていないかのように右腕は肩に繋がっていた。

「そんな…」

 絶望が波のように押し寄せて来る。それに対し、いまさら気が付いたように老人は勇士に顔を向けた。

「わしゃ言ったはずじゃ」

 血の気が引いた勇士に噛んで含めるように老人は言った。

「一週間の間に、死なないように努力するのじゃぞ、と。わしに逆らうなぞ、もっての他」

「いつまでもオモチャにされてたまるか!」

 一度でダメなら二度。二度でもダメなら三度。それでもダメならメッタ斬り。その覚悟を決めた勇士の前で、再び老人は手を下から上へ差し上げた。

 地面から黒褐色の塊が起き上がる。今度は四体で済まない。次から次へと湧いた人影が、まるでローマの戦列(ファランクス)のごとく、密集陣形を作った。

 そいつらは四種類に分類できた。それぞれが、今まで倒した四体と同じ顔をしているのだ。

「ちくしょう」

 戦いは数である。こんなに差があれば、一体の強さがそれほどでもなくても、勝てる気はしなかった。

 だが、勇士は諦められなかった。ここで引いたら、またオモチャにされる運命。殺されたら、そのまま死ぬ運命。生き残るには戦うしかないのだ。

「うおおおお」

 勇士は雄たけびを上げると、その集団へ突撃しようとした。

「それまで」

 空間全体が震えるような大声に、双方の動きが止まった。

「左右田?」

 再び聞こえたクラスメイトの声色が、それまでと違って聞こえたので、勇士は雲が幾重にも重なる上空を見上げた。

「そのぐらいにしてもらおうか」

「ほほー」

 老人も上空を見上げていた。勇士とは違い楽しそうであった。

「わしの楽しみの邪魔をするとは、オヌシもクラインで転がしてやろうかのう」

「さて、そうできるかな?」

 相変わらずどこから声がするのか分からない。そのため、勇士と老人が見上げている方向すら一致していなかった。

「オヌシには、わしが何者かすら分からぬであろう?」

「いいや、知っている」

 風が起きると、急激に雲が渦を巻き始めた。

「なに?」

「ボクはキミが何者か知っている」

 空全体が大きな雲の渦となった。地面付近の霧すら吹き飛ばされ、老人の手下たる黒褐色たちは、風にちぎれて飛んで行った。

 霧が晴れると、どこまでも続く荒野が視界に入った。

 目に入るのは、渦巻く雲と、大きな岩。そして老人と自分だけ。

「キミの名は…」

 その後に響いてきた音節は、勇士にはただの高周波の塊に聞こえた。

「ZOOOOUUUU、KAAALLlLLLAAaaAARRrrrrr」

「う、うわあっ」

 勇士は悲鳴を上げた。上空の雲の渦が固まると、それが人間の瞳となったからだ。空を覆う一つの眼。それは瞬きし睫毛を数えることもできそうだった。

「き、きさまは、なにものだ!」

 今度は老人が声を張り上げた。もう先程までの余裕は無くなっており、口角から泡が飛び散った。

「我はヒヤデスより来たりし羊飼いを讃える者。服従せよ、泣いている者どもよ。そこに笛を吹かれ踊る者はいない」

「なんだと! だがあのお方は、わしに、眷属を貸し与えたもう…」

「彼にそのような者はいない。そこにあるのは、ただ嘲笑のみ」

 その時、のんびりとした猫の鳴き声がした。

 上空の眼に恐怖を感じていた勇士は、声が聞こえてきた方に振り返った。あの大岩の上に、大きな黒ヒョウが寝そべっている。いや、サイズが大きいがアレはヒョウではなく猫だろう。爪をしまった前足をゆったりと嘗めている仕草は、どこかの居間でくつろいでいるようだ。

「さあ、諦めるのは、キミだ」

 左右田の声が聞こえてくると、老人の身長がどんどんと縮んでいった。

「なんと!」

 老人は自分の縮みゆく体を見回して、驚きの声を上げるとともに、もがき始めた。身に纏う白いクロースだけはサイズが変わらないので、まるで布地へ沈んで溺れていくように見えた。

 そして老人の体はすっかり布地の中に消え、霧の晴れた荒野には、黒猫が寝そべる大岩と、上空の眼だけとなった。

 猫が退屈そうにアクビをすると、どこからか甲高い犬の鳴き声がした。

「?」

 見ていると、老人が消えた布地の山をかき分けて、見慣れた一頭の雑種犬が這い出してきた。

「まさか…、おまえなのか? キララ」

 呼びかけられた犬は、勇士を恐れるように背を向けて逃げようとした。そこへ上空から影が襲い掛かった。

 大岩から飛び掛かった黒猫は、ただの一撃で雑種犬の息の根を止めた。そして、まるで戦利品のネズミのように咥えると、もう勇士には目もくれずに歩き出した。

「さあ」

 先程とは違い、優しい響きになった左右田の声が聞こえてきた。

「もう悪夢から覚める時間だ」

 上空を圧していた目の形は崩れ、再び渦を巻く雲となっていた。いつの間にか霧も戻ってきており、勇士の視界は奪われていった。


 勇士の体は浮遊感に包まれた。暖かく、そして安心する柔らかさ。どこかで朝の気配がする。

(そうだ、もう朝が来る。起きなきゃ)

 そうして勇士は覚醒に向かっていった。



 おしまい



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