プロローグ
これは作者自身が十数年前に見た夢を元ネタにして創作した、ある意味、私小説です。夢を見た当時の感想は、「なんてSFな夢を見るんだ、自分、だいじょうぶか?」でした。夢が元ネタなので、大きな波もなく、とても淡々と話が展開していきます。何も考えずに読んでいただけると幸いです。
ある日、組織の上層部から私にひとつのメッセージが届いた。
最近、日本が隠密裏に動いているようだ。どうやら、日本の首相小柳氏が、約七十年前にタイムトラベルを行おうとしているらしい。その狙いは一九四五年八月に起きた、米軍による原子爆弾投下を回避すること。最新の調査報告では、あの二つの原子爆弾投下により、日本列島を構成しているプレートが壊滅的な打撃を受けており、数年後に日本列島は沈没するらしい。
小柳氏は歴代の首相のなかで類を見ない、いわゆるやり手の人物だ。外交能力も優れているし、また内容を問わず、すべての駆け引きにおいて巧者である。周囲の人間も彼を推し、また彼自身もこの役を買って出たそうだ。
歴史を変えることは許されない。しかし、ここで変えられた歴史も、この事を知らない者から見れば、それ以前の歴史と同じように、単なる一繋がりの歴史として認識されるであろう。タイムトラベルによって歴史を大幅に変えようとする試みは今回が初めてだ。
当局も、ここで変えられた歴史が将来どのような事態を引き起こすのか、明確に想定できないでいる。
よって君には、彼を追って六十年前の日本にタイムトラベルし、彼の動向、またそれによって変わっていく歴史を調査、報告してもらいたい。指令内容は以上だ。直ちに本部に来たまえ。
さて、困ったことになったと私は思った。私の仕事の領分は、一言で表現すれば諜報活動だ。もちろん、人間一人にできることには限界がある。一国家の中枢を探るには、動員される人員は一人や二人ではない。得られた情報が精確なものかどうか、多角的にアプローチして検証するため、多様な部門に諜報員を潜り込ませ情報収集にあたるのである。そうやって、あくまでも歯車の一つとして期待されているのが、私をはじめとする諜報員である。
なのに、今回の指令はどう控えめに見てもSFだ。私は諜報員となって長いわけではないから、私以外のエージェントに下される指令内容について詳細に知っているわけではないが、私はどうやら自らが所属する組織について誤解していたらしい。
いや、困ったことはそういう事ではない。眠りから覚めてまだ五分しか経っていない。私は未だにベッドの中だ。思考が行きつ戻りつする。完全に目が覚めていない証拠だ。いや、最近の私は覚醒していても同じか。
夢を見るように、手軽に過去や未来に行けるものなのか。
そういえば物質のタイムトラベルは、もうほとんど実用段階に達していると聞いたことがあるような気がする。物質の存在の位相を時間軸に沿ってずらす方法が発見されたとか。興味のない内容だったために記憶がおぼろげだ。
では、人間のタイムトラベルも理論的には可能だということか。
しかし、物質を過去に移動させることができても、記憶や思考のすべてがそのままであるという保証はないのではないか。ここにあるものが一度消えて、離れた場所に出現する。それだけでも、既に違うものとなっているのではないか、同じものとは言えないのではないかと考えずにはいられない。ましてやそれが動物や人間であるならば、余計にそう考えてしまう。
だが、組織上層部が掴んだ情報が確かなもので、また上層部から届いた私に対する指令も確かなものであるならば、タイムトラベルは裏の世界ではすでに確立されていたテクノロジーだということか。
その真偽を確かめるだけでも面白い。私は今回の仕事に少なからず興味を抱き始めた。
といっても、私には指令を断る権利は与えられていない。私にあるのは義務だけだ。ならば、どんな指令であれ、楽しむしかないと最近の私は考えている。
人間は如何なる事にも慣れる生き物だ。殺人や、戦争にすら慣れてしまう。だから、ただ従うだけの日々にも、いつかは慣れるだろう。
そう考えること自体、この現実に慣れ始めている証拠なのではないか。
寝起きの靄の立ち込める頭のなかで思考が飛躍していく。そう、私に許された自由は、思考の自由だけだ。
自由を奪われた身体は、すでに準備を終えようとしていた。
私は研究施設の入口に立っていた。
一度、本部に向かい、本部からこちらに行くように指示を受けた。本部から研究施設まで、そんなに時間はかからず到着した。
施設はかなりの大きさだ。入口は見る限り正面にしかなく、採光窓も点々としか見当たらない。白く大きな平たい箱という印象を受けた。
研究施設に入ると、研究員であろう男が出迎えてくれた。研究員だと思ったのは、彼が白衣を着て、眼鏡をかけていたからだ。その男に案内され、広い部屋に通される。私を案内した男は、この部屋を実験室と呼んでいた。五メートル立方くらいの大きさの機械が部屋の中央に二つと、何が表示されているかわからないモニターが十台くらい、そして無数のケーブルが部屋中を縦横無尽に走っていた。
今、私の傍らに立っている眼鏡をかけ、無精髭を生やし、白衣を着た男性は、先ほど私をこの部屋まで案内してくれた研究員とは別の者だ。
この部屋のなかには、私とその男性の二人しかいない。
部屋の中央にある大きな機械のうち一つは、SF映画に出てくる、宇宙船内の睡眠装置のようだ。その睡眠装置は土台に固定され斜めに立っている。前面には、縦に細長い半楕円型のガラスがはめ込まれており、ちょうど中に入った人間の上半身が見える位置にある。また、その装置には様々な色のチューブや機械類が取り付けられている。これがタイムトラベルを可能にする装置なのだろうか。
「この装置がタイムマシンなのか?」
私は隣に立っている男性にきいた。
白衣の男が無表情に答える。
「そうです。メインユニットは壁の後ろにあります。その装置だけで平均的な一戸建てを占領するぐらいの規模がありますよ」
私は別の質問をする。
「本部から聞いた話では、タイムトラベルできる時間はちょうど五日間だそうだが、それを越すとどうなる? やはり戻って来られなくなるのか?」
白衣の男が答える。
「その通り、一九四五年の日本に取り残されます。非常に単純なことですね」
「取り残されるかもしれない私としては、複雑な心境だ。簡単に言ってほしくない。…現在に戻りたいときはどうすればいい?」
私の質問を聞いて、彼はくすっと笑った。
「現在という言葉の定義は面白いものですね。数分後のあなたにとって、一九四五年の日本が紛れもない現在になっている」
「質問に答えてくれ」
「いいでしょう。戻りたいときはこのボタンを押してください」
そう言って、白衣の男はキャラメルの箱のようなものを手渡してきた。小さな赤いランプとボタンが前面に付いている。
「過去に戻ってやり直したい。そういう甘えた考えを皮肉ったつもりかい?」
「何をおっしゃっているのか理解しかねますね」
白衣の男は澄ましてそう答えた。
しかし、彼のいやらしく笑った口元が、私の考えを肯定していた。
「それでは始めましょうか。装置に入ってください」
白衣の男が、装置を操作し、蓋を開きながらそう言った。
「私のタイムトラベル先は一九四五年の八月五日だったな」
私は装置に入りながら私はきいた。
「そう。ヒロシマの前日です」
彼は無表情にそう答えた後、装置の蓋を閉じた。周囲の音が何も聞こえなくなった。ガラス越しに白衣の男が見える。男は早足で部屋を出て行く。
しばらくして、耳元からさっきの声が聞こえた。
「それではタイムトラベルを開始します。準備はいいですか?」
「何も準備するものなどないよ」
私は素っ気なく答える。
「心の準備です。では始めます。いってらっしゃい」
一瞬の暗転。次の瞬間、私は畑の真ん中に立っていた。何の刺激もなかった。何の衝撃もなかった。最後に聞いた白衣の男の声が耳に残ったままだ。
ここは一体どこなのだろう。
To be continued…




