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第八十六話

《1993年 記憶の闇穴》


何故か…この日だけは相手が来る事を確信していた。左手首には生々しく包帯が巻きついて、抜糸前なので歩く度に肉体の痛みが伴う。そう、俺が今いるこの世界は、拒絶や拒否、消極的や閉塞感、別離や嫌悪感が確信できる世界なんだ。


周りは普通の雑踏。これが日常なんだ。なんて事ない。だが、いつだって死ねる。それだけが足取りを浮つかせ、現実から重苦しい世界へと叩きつける。


鶴見駅の京急ストア鶴見西p店。この街特有のゴミゴミした店舗の中にある、コーヒーショップに呼び出された。


なんて狭い店内なんだ。昼間だっていうのに、新聞を広げてるサラリーマンと、店内の空調を清掃している作業員がいた。レジのそばの椅子に座った。ソファー側は必ずK美が無言で座るはずだ。灰皿も置いてある。ああ、必ずタバコを一服吸うだろ…。


店員の客を迎える声と共に、K美が入ってくる。ふん、こんな時だけは遅刻もしないで…。ふてぶてしい表情と苛つき。前回のようには睨みはしないが、心配する表情は一切ない。むしろ迷惑だと思っている。女とはこんなにも冷酷になれるのだろうか?愛情の醒めた女は平気で人の心を握り潰す。身勝手で気ままで他人の痛みなど知らん顔だ。しっかり化粧もして、口紅まで塗りやがって。コーヒーを頼んだK美は、いつものようにパーラメントを取り出して吸う。


「うん、あのさ…。単刀直入に言うね。」


いつの間に主導権を握っているよ。お前が言ったプレゼントはどこなんだよ?始めから無いなら、期待させるような事を言うなよ。


「私もした事があるから、偉そうな事は言えないけど…。」


はぁ?何を言い出すつもりなんだ?この牝豚は。


「やっぱり手首切るのは良くないよ。」


何だそれ?今更説教しにきたのか?長い沈黙の中で俺は狂いそうになっていた。自分がどうしてここまで言われなきゃいけないのか?それなら俺達は一体なんだったんだ。これからどうなるんだ?


「それじゃ…僕らの関係は?」

「うん…、友達以上恋人未満かな…。」


何故なんだよ。なぁ?俺はあんたに自分の気持ちが分かって欲しかったんだ。あんたの気持ちが分かりたかったんだ。なのに…、こんな仕打ちだなんて。


「友達以上恋人未満…。」

「うん、Yにも今はそれがいいと思う。」


ここまでこさせておいて、一言の謝りも無いのかよ?お前が全部言ったんじゃないか…。自分の気持ちは同じ様な体験をしなければ分からないって。なのに、同じ様な体験をしたら、今度はボロ雑巾の様に捨てるのかよ?


「以上、話はそれだけだから。」

「?!」

「うん、それだけだから…。」


そうしてパーラメントの吸殻を無造作に灰皿へ握り潰した。今までこんなにも汚くタバコ握り潰した事など見せなかったのに。コーヒーを飲み干す前に話が終わった。吸殻も残りのコーヒーも、まるっきり俺の心じゃないか…。


二人でストア内をブラブラと歩いていると、おもちゃ売り場を通りかかった。ジグソーパズルのコーナーには、あの『グラン・ブルー』の完成パズルが飾ってある。感傷的な想いで見つめていると、口を開いてきた。


「映画は…観た?」

「まだ観てないです…。」

「そう、今度観たら感想聞かせて。」

「今度って…いつなんですか?」

「うん?」


聞いてないふりをされた。もう…怒りなんか込み上げてこないほど、飽きれてしまった。それでも身体の何処かでは、今でも一緒にいられるという喜びを感じてる。最悪だ、愛情なんて。


「そう言えば…誕生日もうすぐだよね?おめでとう…。」


何なんだよ…。おめでとうと言われたら、嬉しくて涙が出ちゃうよ。もう、辛いのに。自分への愛情が無くなっている人なのに。


「それじゃ…。」


僕を見送ってくるあの人は本当に酷い人です。どうしようも無く酷い人です。優しさの欠片も無い人なのに、どうしようも無く好きです。もう、狂っています。だって、寂しくて淋しく悲しくて哀しくて、辛くて恨めしくて、それでいても、心はあの人の牢屋に閉じ込められたままなんです。せめて、もう会えないなら、僕の心だけは返して欲しかった。借りっぱなしのまま、僕をこのまま見捨てないで欲しい…。


次の日、K美は会社を辞めていた。

課長も結局、婚約者に何も云わず行方不明になっていた。社長は部下の失態を部長に叱責し、部長は、穏健派というイメージを覆して、信頼を取り戻すかのように、鬼へと変わった。だが、今回の不祥事で、川崎エリアの信頼は取り戻せず、川崎支社は完全に閉鎖された。


僕はただ、奴隷となって仕事をし、自分の私生活はめちゃくちゃに荒れていた。それが楽だから…。毎晩、いつもと違う天井を眺め、いつもと違う喘ぎ声を聴き、いつもと違う肉体を貪った。付き合いを求められた時には、部屋の電気を消すだけ。愛情を求められた時には、心の電気を消すだけ。簡単な事だ。そして余りにも寒い時には、時々あの牝豚を憎んで生きていた。

女は獣だ、信用するな。

女は愚かだ、騙されるな。

女はしたたかだ、陥れろ。

女は腐った死体だ、蹴散らせ。

誰も信用しないまま、身体を適当に動かしながら、死ねる場所を探している。


そして、その年の冬…。


K美から一通の手紙が届いた。


「Yに、今すぐ会いたい…。」


続く

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