第八十三話
《記憶の狭間 改悛の玉座室》
「なぜだぁ!!?ふざけるなぁ!!」
『吾』は全身を込めて取り乱した。手当たり次第、辺りの物に八つ当たりをしたが、全てそれらはカタカタと震えながら、巻き戻しをされたように、元あるべき場所へ戻ってしまう。
「?!」
「もう諦めろ。奴は、『現実』を決断したんだ…。」
「『現実』だと?!このマゾヒスト共が!!なぜだぁ!!なぜそれ程まで、傷付いた過去を引きずりたがる?!傷付くだけの現実に、一体何の価値があるんだ?!過去の傷を治癒し、痛みから解放される事が、なぜいけないんだ?!なぜ許されないんだ?!」
全身の毛細血管が、『吾』の顔に集中するかのように、怒りはとどまる事知らず吐き出されていた。だが俺は、どんな怒りに対しても、決して挑発に乗らず、優しく当たり前の事を呟いた。
「"理想は僕には優しすぎる…。一度も『貴方』と呼ばれた事は無い。"…と。」
「?!」
「不思議だな、人間って生き物は…。理想を追い求めているくせに、現実味を失うと、途端に拒否反応を示してくる。特に傷付いた者であれば、尚更そういった傾向が顕著に現れる。まるでお前が穢れたくないと叫んでいる様に…。」
『吾』は鋭い眼光を放ちつつも、荒い呼吸をしながら俺の話を聞いている。
「結局、自分で作り上げた理想像でさえも、幼い頃の記憶を総動員して、やっと作り上げた理想像でさえも、自殺に追い込まれた自分を、止められる要因にはならなかった…。なぜだ?」
「…。」
「生きている感覚が欲しいから?違う。乗り越えられない傷が欲しかったから?違う。手首を切る者の理解をしたかったから?違う。愛されたかったから?違う。愛したかったから?違う。答えが欲しかったから?違う。本当に死にたかったから?違う。」
肉に噛み付いて引きちぎる様に、『吾』は俺の意見に食らい付く。
「それじゃぁ!何だっていうんだ?!一体何でだ?!」
「死にたくない…それだけだ。」
「そんな…ふざけた答え…、納得出来るかぁ!!」
『吾』は自らの黒色ローブを脱ぎ捨てると同時に自らの肉体も捨て、絨毯に植え付けられた眼球を全て吸い込み、巨大な漆黒のアメーバに豹変し、本能エネルギーのみだけの正体を現した。
「痛イノハ…イヤダ…!」
「餓鬼に戻りやがって…。」
漆黒のアメーバは、内部分離を何度も繰り返している。防衛本能と左手首の傷が、さながら格闘している様だった。俺は左手首の傷を摩りながら、握り拳を作り、こいつらをあの大欲槽へ放り込む決断をした。
「どうやら俺は、僕との約束を破るしかなさそうだ…。」
ドロドロに溶け出したマグマの様に、何度も内部分離を繰り返しながら、ようやく傷を抑え込んだ漆黒のアメーバは、俺に向かって牙を剥き出して戦う意思を示した。
「『吾』…。お前の考えは確かに素晴らしい。全くもってマトモな考えなんだ。身体の傷を治し、心の傷は無かった事にする。だがな…、それだけでは救われないんだ。少なくとも、俺達の主人は…。」
常に形を変えている漆黒のアメーバに向かって、俺は勢いを掛けて左手の拳を放った。
「?!」
「!?」
だが、彼ら達は、それを避ける様に玉座の後ろに怯えて隠れてしまった。背中には、あいつの気配を感じた。『自神』だ…。自分は傷だらけのK美を抱きかかえ、記憶の巡礼から帰還していた。
「すまんが…。彼女を助けてやってくれないか?」
自分に抱かれている全身傷だらけの女性は、『荊の女王』K美の姿に変化した『私』だった。
「そこで隠れてる『吾』、お前に言ってるんだ!」
アメーバは、その野太い声に怯えながらも、恐る恐る近づいては、まじまじと女王の傷を観察していた。
「…で、結局、記憶を彷徨って何が分かった?」
「記憶は結局、記憶でしかないって事さ…。」
続く




