第七十二話
どうして人は疑うのだろうか?たった一つの誤解が生まれると、炎のように被害者意識と強迫観念が身体中を蝕み、たった一つの自分の大切な信頼という想いも、怒りや拒絶という名の泥沼に投げ捨ててしまう。裏切られる前に裏切ろうとする。傷つけられる前に、傷つけようとする。
「今日はゴメンね~。ちょっとしか会えなくて…。」
「いえ、大丈夫です…。」
"今日も、だろうが…。"
久しぶりに会えたのに、いきなり居酒屋で二人で呑む事になった。なんだか、簡単に済まされているのだろうか?もっと静かで、二人っきりになれる場所で話したかった。居酒屋は昔から苦手で、周りのうるさく騒いでいる客が気になってしょうがない。自分達は大きな丸いテーブルに横一列で座らされ、周りには誰も座っている感じは無かった。しかし、向こうの四人席テーブルでは、自分より年下っぽい男女六人が騒いで飲んでる。
「ホッケ食べる?」
「あ、僕は昔から焼き魚が苦手なんで…。」
「ええ?!日本人なのに焼き魚駄目なんて、駄目だよね。好きになるまで私が食べさせてあげようか?」
好きになるまで…食べさせてあげる…っか。その時、二人で波寄せ合った、ベッドのシーツのシワを思い出した。指と指の間の感触からも、K美さんの毛細血管が感じられた。あんな時が、もう一度訪れるのだろうか?
「どうしたの?」
「いや、その、本当に二人っきりだけになったのって一回だけだったから、…。今度はいつかな?って…。」
K美さんは気付いた表情で微笑み、人差し指で僕の頬を軽く摘まんだ。
「エッチ~。それは今度ね。ゆっくり二人で過ごそうね?」
僕は軽く頷き、今夜も我慢する事にした。K美さんは器用にホッケをさばき、一つずつ箸の先でつまみながら、恋愛に関する話をし出した。
「ねぇ?友達以上、恋人未満ってあると思う?」
「え?友達以上、恋人未満…ですか?」
「うん。」
「性別を越えた、親友って事ですか?」
「うーん…。ちょっと違うかな?友達以上に仲が良いんだけど、恋人としては違うような感じ…。ほら、男女って今は付き合うか付き合わないかしか無いでしょ?でもその中でも色々な形があっても良いんじゃないかな?って思うの。もちろんアッシーやメッシーって話をしている訳じゃないの。もっと自由で、お互いを干渉し合わないような関係。でも単なる友達じゃ無くて、でも…恋人でもなくて…。分かるかな?」
"こいつは何を言い出してるんだ?"
K美さんは、何でそんな事を言い出したんだろう?今迄の自分の事かな?
「それって…。少し哀しい気がします。だって、もし片一方が相手を本気で思っていたら、凄く我慢しないといけないじゃないですか…。」
「そう…かな…?」
「干渉して欲しくない人は、他の誰かとは恋人なんですよね?」
「でも…お互いに束縛する必要がないんだよ?」
「そりゃ、束縛するのは良くないと思いますが…。」
「でしょ?良いと思わない?」
なんだか、あんまり良い気がしなかった。まるで自分の事を言われている気がして。一体、どんなつもりでK美さんは言っているんだろう?
「君は…どう思ってるの?」
「え?そんなの、K美さんの事は恋人として、愛してますよ。」
その時、K美さんの指先が止まった。箸を小皿の上に揃えて置き、急に険しい表情でこちらを向いた。
「愛してる…って何?」
「え、いや、愛してるって、そのままですけど…。」
「それじゃ、君にとって愛は何?」
「それは…。」
即答できなかった。昔なら、好きな人を守る事だって言えたのに、どうしてだろう?本当に僕が守るべき人が、K美さんという愛する人なのか、少しの疑いと不安を抱えているからかもしれない。
「お兄さんお姉さん達、さっきから仲良さそうでいいな~。」
気が付くと、僕らの座っているテーブルの対面に、今時のオシャレな格好をした青年が座っていた。彼は爪楊枝を折ったりして、つまらなそうにしていた。
「君、どうしたの?」
K美さんは、最近僕には見せてくれない笑みを浮かべて話しかけた。
「うん?あぁ、何か俺の友達が隣の席の女の子達に声掛けて、何だかコンパみたいになっちゃってさ。女の子達も満更じゃないみたいで、でも俺は何か気が乗らなくてさ。」
「そっか…。何か可哀想だね。」
"え?俺は…?"
「そしたら、お姉さんとお兄さんの三人で飲もうっか?こっちも退屈し始めたから…。」
"そんな…。いつから退屈になったんだ?"
「マジっすか?ありがとうございます!」
いつの間にか、三人で色々話しながら飲む事になった。最初は邪魔が入ったような気がして、あまり良い気分ではなかったけど、意外に彼が今時の格好をしている割には純粋で情熱家で、K美さんの意見に堂々と答えていた事が気持ち良かった。
「マジっすよ、お姉さん。だって、友達以上、恋人未満って結局いい訳じゃないっすか。お姉さんが我慢する立場になって考えてみてください。そんな事、相手の男から言われたら耐えられます?」
「あっははは。この人も同じ事さっき言ってたし。」
「マジっすか?やっぱり誠実な愛っすよね?年齢僕より二つ上なんすよね?何かこんな素敵なお姉さんと付き合ってて尊敬しちゃいます!先輩って呼ばせてください!」
「いきなり自分が先輩って呼ばれるの?」
「いいんじゃない?うちの会社じゃ君は一番下だけどさ、社会では彼にとって先輩なんだから。」
悪い気はしなかった。高校を卒業して以来ずっと社会では年下扱いだったからだ。
「あの~俺の友達連れてきてもイイっすか?」
「イイよ!」
即答だった。僕は何だか少しだけ不安になり、K美さんの手を優しく握った。しかしK美さんは、こちらを見てニッコリ笑って、スルリと自分の手を抜いた。同時にタイミング良く、青年が友人2人を連れてきた。
「どうも~!うちのバカボンがお姉さんとお兄さんにお世話になってます~~!」
「バッカボンボン!」
「なんで俺がバカボンなんだよ~。」
その後から、彼らと一緒に飲んでいた女の子達もやってきた。彼らはとても明るく清楚な三人組だった。
「初めまして…。」
「私達…お二人のお邪魔では無かったですか?」
「ううん、全然平気だよ~。私は同性と話したかったし。」
「お二人共、すっごくお似合いのカップルですね。」
僕は嬉しくて素直に感謝の言葉を返したが、K美さんは微笑んでいるだけで、話をそらして何も言わなかった。
続く




