第四十六話
真の純粋な想いは、苦い経験や打算的な価値が存在しない代わりに、迷いが無いからこそ人を苦しめて痛みを与える。その対極に存在する物が、不純な動機から生まれた口当たりの良い期待。両者は常に争い、傷つけあっている。
やばい!
自分は約束の時間を、思いっきり遅れていた。
横浜ポルタの入り口階段を駆け足で降りる頃には、そごうの時計の人形達が"it's a small world"をすでに奏で始めていた。やばい!
ようやく入り口に辿り着くと、人集りはからくり人形達の演奏に耳を傾けていた。自分は人を掻き分けて、時計下で一生懸命ここで待ってるはずのK美さんを探した。殆どの人は、時計下にはおらず、自分だけがウロウロしていて、そんな姿を不思議そうに見ていた。何処にもK美さんの姿は見当たらない。一体何処にいるんだろう?人形達が最後の鐘を鳴らし終えて、時計の中へ姿を戻し始めると、見物人も徐々にその場から姿を消していった。
いない…。辺りを見回してもいなかった。K美さんはやっぱり今日は来てくれなかったのだろうか?俯いて自分の靴を眺めていると、前からパンプスの足音が近づいて来る気がした。顔を上げると、こちらに近づきながら、笑みをこぼしている美しい女性がいた。目を疑うと、とても素敵で美しい女性。そうK美さん、その人だ…。
「こんばんわ。」
「ども、こんばんわ。」
「六時ってここの時計鳴るんだったね。みんな集まって時計見てる所に、一人で下にいるのはさすがに恥ずかしかったから。」
「すみません。」
「何謝ってんの?!もう~。せっかくのスーツが台無しだよ~。さぁ、行こう行こう!」
この間の親睦会と同じ様に、K美さんに手を引っ張られて、入り口へと連れて行かれた。その時にK美さんは自分の手を、まるで恋人の様にしっかり握ってくれた。このまま時間が止まって欲しかった。世界中できっと輝いているのは自分達だけなんだって、錯覚を思いっきりしたくなるような気分だった。左手の痛々しい包帯を除けば…。
「横浜駅が綺麗に見えるね~。」
「本当だ。綺麗に見えますね。」
まるで自分達は子供の頃のように、レストラン街へ続くエレベーターから目を輝かせて外を覗いてた。二人の手はしっかり握ったまま、互いの存在を確かめていた。10階のレストラン街へ着くと、まずビックリしたのが、老舗の高級店舗の間を、優雅に人工的な川が流れていた事だった。次にビックリしたのが、歩いている客層はやたらとお金持ちそうな、普段から着物を着慣れている様な人ばかり。自分は何とか必死に平静を装うのが精一杯。そこらのデパートのレストラン街とは全然違っていた。これが社会人になるという事なのだろうか?しばらくK美さんの左手に導かれたその先は、焦げ茶色の看板に蛍光灯のライトでRistorante
Italiano "SABATIN"と描かれた店だった。
「リ…ストーランテ… イタライア…ノ サバチン??」
「あははは~!! 違う違う!サバティーニ!君、面白い読み方するね?」
「サ、サバティーニ…ですね?」
「うん。最近流行りのイタメシ本格レストランだよ。本店が青山にあるやつ。知らない?」
「ああぁ!!」
「……本当に知ってるの?」
「すみません…、やっぱり知りません。」
「やっぱり~。」
「はい…。」
「でも…、そんな所が君の可愛い所なんだね。」
するとK美さんは再び優しく手を握ってくれた。その優しい衝撃が、全身をゆっくり波をたてながら伝わっていくと、穏やかさと清らかさが心の全てを満たしてくれそうだった。
「さあぁて、ここまで来たけど、満員だったらどうしようか?」
「え?!そんな事あるんですか?」
「知らないの~?今は一週間前から予約しないと、土曜日なんか絶対に無理なんだから。」
「げぇ!!」
「どうする?」
K美さんは自分の顔を覗き込んできた。戸惑う自分を、まるでその優しい瞳は明らかにからかっている様子だった。
「K美さん…ひょっとして…自分の事をからかってます?」
「…うん。」
「もう~。」
「あはは、正解!!バレたか。」
「いくら年下でも、その位分かります!」
「お姉さんがイタメシ行こうって誘ったんだもんね?君の為に予約しておいたよ。『ちゃんと感謝しろよ~後輩~。』」
「はい!ありがとうございます~…。あァ!‼それ課長の真似だ!」
「正解~。」
社会人としての大人のデートは、人生初のイタリアン・レストランから始まった。
続く




