再逢と不穏の赤
高速を降りて下道に出る。
時刻は18時を回っていた。
「疲れてませんか?」
綾子が心配そうに柊を見つめる、
「いえ」と短く答えると柊は続ける。
「俺、学生時代結構無茶な旅してたんですよ。関東一周とか。論文書いてて進まなくなると気晴らしにドライブしたり。あ、あとは長谷川先生にダメ出し食らったときもよく深夜の高速走ったりして…」
柊は慎重にハンドルを握りながら思い返す。
「柊。君の論文は核心をついてはいる。ただ、プロセスを飛ばしすぎだ。トンネルをくぐったと思ったらもう出口。そんな論文、誰が読むと思う?それと机の上を片付けなさい。君ぐらいだ、ちょっと触れたら崩れるまで文献を積み上げているのは。」
(長谷川先生、俺は⸺最初から最後まで駄目な弟子でしたね…)
胸に去来する思い。アカデミアでの思い出は厳しくも優しいあの人⸺長谷川の存在が大半を占めていた。
(でも俺⸺後悔したくないんです。ごめんなさい、先生。)
ナビの指示に従うこと数十分。
代橋駅が見えてきた。
駅、と言うにはあまりにも簡素な作り。
二人は車から降りて辺りを見渡す。
「綾子さん、本当にあなたはこんなところで育ったんですか?」と柊が尋ねると綾子は首を横に振り答える。
「いいえ…高校に通うために電車通学はしていたけど…こんな古びた駅、見た記憶がないわね…。」
その時ぽたり、と何かが足元に落ちてきた。綾子は反射的に「きゃ!」と小さな悲鳴をあげる。
柊はしゃがみこむと落ちてきたものを見つめ、そして拾い上げた。
「綾子さん。ヒメヤママユです。メスだ。」
綾子が恐る恐る柊の手の中を覗き込むとそこには比較的大型の蛾が、ふるふると翅を震わせていた。
思わず後ずさる綾子に柊は「こいつ、毒はないですよ。大丈夫です。」と言って再び掌の中の小さな生き物を愛でるような眼差しで見つめている。
「綾子さん、こいつら何食うと思います?」
綾子は皆目検討もつかない、という顔をする。
「こいつらはね、成虫になってからは何も食わないんですよ。ただただ子孫を残すために空を飛んで⸺そして卵を産んで、朽ちて土に戻る。それも羽化できたごく一割だけなんです。カラスに食われたり、或いは羽化すらできなかったり⸺それでも懸命に生きて、次の世代にバトンを渡す。それだけの可愛い奴らなんですよ。」
そこまで言うと柊は手を伸ばし「飛べるか?」とその小さな生き物に話しかける。ヒメヤママユは暫しの間翅を震わせると、はたはたと駅のホームの灯りに向かって飛んで行った。
綾子が口を開く。
「私、そんなこと何も知らなかった…。儚くて、そして強い生き物なのね…。」
と、その時だった。
線路沿いの道を1台のワゴン車がやってきた。
そして綾子たちの前に止まると、助手席のドアが開き修道服の女性が飛び出してくる。
「綾子おねえちゃん…ッ!!」
大分背が伸びて、体も女性らしくなっているが間違いない。
「叶恵ちゃん…」
綾子がそう呼びかけると叶恵は目に涙を溜め⸺みるみるうちに溢れ出し、綾子の腕の中に飛び込んできた。
「おねえちゃん、綾子おねえちゃん…!!会いたかった…!!ずっとずっと会いたかったの…!!」
綾子も涙ぐみ、うん、うんと頷く。
16年ぶりの再開。
柊は黙ってその姿を見つめていた。
先刻駅の灯火に飛んで行ったヒメヤママユはもう、姿を消していた。
同時刻。関越道。
隆弘は追い越し車線をフルスロットルで飛ばしていた。
150km/h。明らかな速度超過。
オービスがその姿を赤い光で捕える、が隆弘にはそんなことは瑣末なことであった。
その赤が以前自分が綾子の首に刻んだ所有の証と重なる。
「綾子…ああ、綾子…二度と離れないように、また俺の印を刻んであげようね…」
その口元はただ、いびつに歪んで嗤っていた。




