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婚約破棄された書記官令嬢は、沈黙図書館で辺境を立て直す  作者: 小竹X


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008 最初の倉庫は空腹を隠さない

 中央倉の扉が開いたのに、穀袋の匂いが薄かった。


 鉄の長鍵を抜いたローデリクが、半歩だけ先に入る。灯りは高窓から細く落ちていた。棚札はきれいに並んでいる。けれど、冬越し用の倉なら最初に鼻へ来るはずの乾いた麦や豆の粉っぽさが、ここには残っていない。冷えた木箱と古い油の匂いばかりだった。


「どこから見る」


 彼は扉を押さえたまま訊いた。


「鍋に入るものから」


 私が答えると、倉番の老人が眉を上げた。


「帳面なら合っております。燕麦三十二袋、干豆十八箱、灯油九樽。今朝の補給船分も受領帳へ載せました」


「では、受領帳と出庫札を」


 老人は渋々、作業台の上から革綴じの帳面を持ってきた。中央倉正式受領帳。昨夜仮受領した灯油と毛布の記載も、今朝の日付で整っている。数字だけ見れば、河港で鍋の湯を薄める理由はなかった。


 私は最初に燕麦の棚へ向かった。札には三十二とある。けれど並んでいた袋は前列に十一、奥は板壁が見えていた。袋の口を縛る麻紐も、長く積んだ形ではなく、今朝慌てて寄せた短い山だった。


「残りはどこへ」


 老人は棚脇の木釘から札を束で外した。


 臨時仮出庫。

 河港寒波対策。

 返納見込。


 同じ紙が六枚、八枚。干豆にも灯油にも付いている。行き先欄はあるのに、どの札も空白だった。受取人欄もない。返納日だけが、あとから思い出したように三日後、五日後と書き足されている。


 指を当てると、《契約読解》の糸が紙の繊維に絡んだ。出す側の印だけが強く、受ける側の輪郭が無い。責任を渡したふりをして、誰にも渡していない書き方だった。


「燕麦は返せません」


 私は札を一枚持ち上げた。


「煮れば終わりです。倉へ戻るのは空いた鍋だけでしょう」


 老人の喉が動いた。


「炊き出し小屋や河港番所へ回した分です。寒波のあいだだけ仮で動かし、あとで予備費が下りれば帳面を起こし直すと」


「誰がそう言った」


 ローデリクの声が、倉の梁へ低く当たった。


「……総務棟では、そういう扱いだと」


 主語がなかった。私は干豆の箱を開けた。木箱の底に豆は薄くしか残っていない。代わりに底板へこびりついた白い粉が指につく。何度もすくって、何度も空にした跡だった。


 灯油樽も同じだった。帳面上は九樽。実際に封の生きている樽は五つ、昨夜船から下ろした新しい一樽を足しても六つしかない。残り三樽分は、仮出庫札だけが油染みのついた釘へぶら下がっていた。


「荷役の外灯も、炊き出しの鍋も、兵の火鉢も」


 私は受領帳の余白を指で押さえた。


「食べて、燃やした時点で費用です。戻るものとして置けば、帳面の上だけ在庫が残る」


 ローデリクが私の横へ来て、燕麦の棚板を拳で軽く叩いた。乾いた音が短く返る。奥まで袋が詰まっていれば、こんな軽い音にはならない。


「隠したかったのは不足そのものじゃないな」


 彼は棚札ではなく、仮出庫札の束を見た。


「不足を認めた奴の名だ」


 私は頷いた。河港で見た命令紙と同じだ。削る時だけ具体的で、受け持つ者の欄だけが曖昧になる。


「空腹を仮出庫にしています。鍋へ入った燕麦を、まだ倉のものだと帳面に寝かせている」


 言いながら、自分の喉が少し乾くのを感じた。昨日の薄い煮込みの味が、急に数字へ変わる。六十食。十一袋。返せない豆。戻らない灯油。


 ローデリクは作業台へ戻り、受領帳を開いたまま老人を見た。


「今日から、食える物と燃える物の臨時仮出庫を止める」


 老人が息を呑む。


「止めれば、炊き出し小屋は」


「止めるのは鍋じゃない。誤魔化し方だ」


 彼は私のほうへ顔を向けた。


「ヴェイル嬢。今ある燕麦、干豆、灯油、毛布、薪炭。河港、炊き出し小屋、兵舎、中央倉で分けて数え直せるか」


「できます。出した先の札も回収します」


「回収じゃ足りん」


 ローデリクは帳面の末尾へ自分で一行を書き加えた。筆圧が強く、羊皮紙が少しだけ鳴る。


 本日以降、消費物資は用途先記名の正式出庫とし、返納見込による繰延計上を禁ず。


「俺の名で通す。足りない分は足りないと書け」


 老人はなお何か言いたげだったが、ローデリクが鍵輪を台へ置くと黙った。鉄の音は小さいのに、差戻し票の朱線みたいに迷いがなかった。


 私は受領帳の空き頁へ、新しい見出しを書いた。


 冬季在庫暫定表。


 中央倉。河港。炊き出し小屋。兵舎。

 戻るものと戻らないものを、まず分ける。


 棚の前で数を読み上げるたび、倉の冷えた空気が少しずつ違う重さになっていく。隠されていたのは盗難の跡だけではない。空腹を費用として認めなかった手つきそのものだ。


「まず河港へ戻ります」


 私は文書箱へ仮出庫札の束を収めた。


「鍋に入った分から消します。そうしないと、次の夜も同じ顔で倉が埋まります」


 ローデリクは短く頷き、長鍵を取り上げた。


「暮四つ前までに表を持ってこい。足りないなら、足りない数で町を回す」


 倉の扉が再び開く。外の冷気のほうが、今はまだ正直だった。

 私は空欄の多い暫定表を抱え、河港へ向かう段取りを頭の中で組み直した。次は、戻らないものを戻る顔で置いている場所から消していく。

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