048 北辺特別保管領の反撃開始
南行穀袋板へ戻ってきた王太子宮の返答紙には、受取人名が二つ増えているのに、荷車留め銀を誰が払うかの欄だけが空いていた。
河港掲示板の脇で紙を広げると、粉挽所と共同釜の名はたしかに書き足されていた。南橋東二番粉挽所番頭オルド。王都外三宿共同釜掛サラ。けれどその下の路銀、荷車留め、挽き減り引受、糠戻し先、王太子宮副署は白いままだ。急送の朱だけが、そこへ斜めに押されている。
「急がせたいところだけ赤いわね」
ミラが鼻で息を鳴らした。
「払うところと戻すところは、まだ誰の名でもない」
頭取が紙を覗き込み、指で空欄を弾いた。
「これじゃ南へは出せません。粉挽き場の裏口で半刻待たされたら、そのぶんの荷車留めは誰持ちだ。広場の喇叭は腹を膨らませない」
私も同じ紙端へ触れた。急送の朱の下に、もう一度だけ筆を止めた跡がある。副署欄へ入るはずだった短い名を、誰かが途中でやめている。広場へ見せる紙だけ先に走らせ、あとで実務へ沈めるつもりだった。
そのとき、河港の石段を粉まみれの男が駆け上がってきた。袖口まで白い。南橋東二番粉挽所の番頭だと名乗ると、胸から折り畳んだ薄紙を出した。
「殿下の先触れが来る前に、うちへ一枚だけ回りました。倉の掃除をしろ、裏口を空けろと。けれど袋はまだ一つも来ない。釜場はもう昼を待てません」
差し出された薄紙の題は、施穀粉挽留保覚え。
新しい返答紙よりずっと古く、綴じ穴の縁が指に乾いている。表には、共同釜不足時、指定粉挽所裏入、袋数先記、挽き減り控え、糠戻し先記、日暮れ前量り返し。末尾に、路銀および荷車留めは留保相当または春季第一便精算より返す、とあった。
「こんな紙、どこから」
私が訊くと、番頭は喉の粉を払った。
「親方の古い帳箱です。三年前の凶作のとき、北から入れた袋で釜を繋いだときの控えだと」
ミラがすぐ裏を返した。
「見て。原本参照先がある」
紙裏の端へ、小さく押された控え印がある。
沈黙図書館 西第四閲覧室。
まだ開いていない部屋の名を、私はそこで初めて紙として見た。
「使えますか」
番頭が訊く。
「裏口は空けました。挽けば、昼の釜へ落とせる」
私は返答紙と古い覚えを並べ、救援荷仕分板を引き寄せた。もとは「今夜渡す」「乾かせば使う」「披露済み」と引いてあった板へ、ミラが濡れ布で炭文字を消していく。私は新しい列を三本引いた。
今朝挽く。
昼釜へ落とす。
返し待ち。
「広場は板に載せません」
私は頭取へ言った。
「袋を見せる先ではなく、粉と粥になる先だけを載せます」
頭取の目が細くなる。
「留め銀は」
「第六函目録の仮受条項で切ります。受取人名、袋数、日暮れ前量り返し、春季相殺先。四つ揃った荷は北辺が仮受けます」
ローデリクが私の横へ来て、古い覚えの末尾を読み切ると、自分の名を板の脇の紙へ書いた。領主印ではない。欠支弁仮受人。その一行だけで、頭取の肩が少し落ちる。
「北辺が払う線は引いた」
ローデリクが言う。
「その代わり、名無しの広場荷は一袋も出さない」
ミラは返答紙にあった二つの名を、仕分板へ写した。東二番粉挽所番頭オルド、小麦袋十二。王都外三宿共同釜掛サラ、挽割麦八。さらに献立表の控え番号を横へ足し、北辺側へ残す病室五、外門三、継馬所二、南厩一を別列へ残す。今朝の鍋を減らさないまま、南へ出せる数だけが板に残った。
頭取は荷車番を振り返った。
「聞いたな。東二番裏口へ十二、三宿共同釜へ八。戻り票が日暮れ前に返る荷だけ出す」
そこへ、さっきの王太子宮の走りが顔をしかめた。
「殿下は南橋広場で」
「書いてありません」
私は返答紙を持ち上げた。
「ここにあるのは粉挽所と共同釜の名だけです。広場へ立つなら、副署と路銀と糠戻し先を埋めてからにしてください」
走りは何か言い返しかけたが、ローデリクが先に南行穀袋板を叩いた。
「北辺の道と荷車は、この板にある名へ貸す。広場のためには貸さない」
荷車の柄木が一斉に持ち上がる。袋の口へ、ミラが切った札が次々と結ばれた。東二番裏入札一から十二。三宿共同釜札一から八。広場の札だけは、最後まで一枚も出来なかった。
昼過ぎ、最初に戻ってきたのは喇叭ではなく、粉の匂いだった。東二番粉挽所の若い者が量り返し板を抱えて走り込み、小麦袋十二から白粉八、糠二、挽き減り控え二と息を切らして読み上げる。共同釜掛の女は、湯気のついた木札を出した。三宿の昼椀、四十七。夕刻分の豆合わせ、支度済み。
私は返り票の端へ触れた。紙の下の繊維は、新しい控えの下に古い定型を抱えている。施穀粉挽留保覚えの文言が、そのまま写されていた。
裏へ返すと、東二番粉挽所の控え印の脇に、古い参照印がもう一つだけ残っていた。
原本綴所在 沈黙図書館西第四閲覧室 施穀粉挽留保本紙。
私はその一行の横へ、今日の日付と控え番号を書き足した。河港掲示板の前では、次の荷車がもう板の前へ寄っている。
夕刻までに終える仕事の一番上へ、私は西第四閲覧室と書いた。




