表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された書記官令嬢は、沈黙図書館で辺境を立て直す  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/54

044 令嬢は燃える書庫から一行だけ守る

 沈黙図書館西裏書庫二段の灯り番札には、昨夜替えた油芯の数はあるのに、灰受桶を戻した者の名が無かった。


 朝の冷えた回廊でその札へ触れた瞬間、紙より先に鼻へ来たのは、古糊ではなく灯油の重さだった。戻し名が抜けた札は、だいたい手間を隠すためにある。けれど今日は違う。誰が桶を持ち出したか消したというより、桶そのものを置かなかった匂いがした。


「ミラ」

 私が札を渡すと、彼女は一目で眉を寄せた。

「灰受桶なしで西裏書庫を開けたの。馬鹿じゃない。燃やす気よ」


 ローデリクは返事の代わりに歩幅を広げた。西裏書庫の戸前には、夜番用の小灯だけがぶら下がっている。火は見えない。だが錠前へ古鍵を差し込む前から、板戸の隙間が薄く温かかった。


「開けます」

 私が言うと、ローデリクは一度だけ頷いた。

「開ける。下がるな」


 黒鉄の歯が鳴った。戸が指一本ぶん開いた途端、奥の空気がこちらへ吐き出される。乾いた紙の匂いに、遅れて油の筋が混じった。


 西裏書庫二段の棚は、扉の真裏だった。札差しの下に、細い布紐が床へ落ちている。紐は先で黒く焦げ、その先に伏せた小灯の皿が転がっていた。油は棚板の継ぎ目へ細く流し込まれ、返納鍵留の束の下まで回っている。


「最初から逃げ道付き」

 ミラが舌打ちした。

「火を見つけた時には、もう帳面の腹だけ焼けるようにしてある」


 私は二段目の束へ手を伸ばした。表題は、返納鍵留。西裏二段。綴じ紐は半分焼け、端から紙が褐色に巻いている。契約読解で拾えるのは、全部ではない。熱が回り切れば、字はただの煤になる。


 最初の一葉に、貸付日。返納刻限。主鍵所在。欠支弁仮受人。古い書式が整って並ぶ。次の葉では、その欄の半分が途中で切られていた。そこへ火が走った。


「水は」

 私が言うより早く、ミラが戸口へ叫ぶ。

「桶じゃなく濡れ布。砂も持ってきて。紙へ水を打つな、字が剥げる」


 ローデリクは棚ごと引き出そうとして、すぐ手を止めた。油が板裏へ回っている。無理に動かせば、火が奥の束へ移る。


「どれだ」

 彼の声だけが短い。


 私は焼けかけた二束目を掴んだ。指先に熱が刺さる。けれど、その中にひとつだけ、まだ今夜を持った行があった。返納済みの字ではない。次へ送るために書き足した、硬い筆圧だった。


「右から二束目、三葉目」

 私は言った。

「そこだけください」


 ローデリクはためらわず袖で火を払い、束を半分だけ抜き出した。焼けた紐が切れ、紙片が床へ散る。私はその三葉目を膝で押さえ、焦げ縁へ触れた。


 副鍵返納猶予。

 灰綴十七添。

 次渡先 北砦外壁三番灯櫃。

 丑刻前返。


 喉の奥が、火とは別の熱でひりついた。北砦外壁三番灯。前に油を抜かれて落ちた、あの灯だ。今夜またそこへ副鍵線を通す気でいる。


「書きます」

 私は床へ紙を広げた。

「ミラ、灰綴十七の名を控えへ。ローデリク、北砦へ走りを」


 ミラはもう焼け残りを足で踏み、濡れ布を被せている。

「断片で十分?」


「この一行で足ります」

 私は書き写した。

「外壁三番灯櫃、副鍵早鍵差止。灰綴十七添持込禁止。受取は前蔵番、夜見台火守、走り頭の三署。丑刻前まで開扉停止」


 ローデリクが私の控えをひったくるように受け取り、末尾へ自分の名を書いた。領主印ではない。欠支弁仮受人。その肩書きが紙へ落ちた瞬間、ただの警戒札ではなくなった。


「第一継馬所から替え馬を切る」

 彼は戸口の兵へ振り向く。

「北砦へ二本。外壁三番灯櫃へは、俺の控え無しで誰も触るなと伝えろ」


 砂が届き、ミラが火元へ叩き込んだ。油を吸った布紐が縮み、ようやく棚裏の赤みが鈍くなる。けれど返納鍵留の束は半分以上、指で持てば崩れる色になっていた。


「二葉、先に抜かれてる」

 ミラが焼け残りを数えながら言った。

「火をつける前に、名前のあるところだけ持っていった」


 私は書き写し控えを畳んだ。救えたのは一冊ではない。一行だ。それでも、北砦外壁三番灯櫃と丑刻前返が残った以上、向こうは今夜、名無しのまま開けられない。


 戸口を出ると、冷気が焦げた袖へ食いついた。回廊の先では、もう走りが石床を鳴らしている。丑刻まで、まだ半日あった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ