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婚約破棄された書記官令嬢は、沈黙図書館で辺境を立て直す  作者: 小竹X


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021 保存庫に春を閉じ込める

 南坂の石蔵の貸出札には、干豆が誰の冬を越すかを書く欄が無かった。


 昼前、私は南坂の石段の上で、空になった石蔵の扉を押さえていた。中にはまだ魚醤樽の酸い匂いが薄く残っている。壁は乾いているのに、入口脇の貸出札はぞんざいだった。石蔵一庫、七日貸し。借り手名と蔵番印だけ。これでは河港の仮置札と同じだ。何を入れ、いつ見返し、どこへ出すのかが、紙の上に残らない。


「空いているのは本当です」

 北辺商人ギルド頭取が石壁へ手を当てた。

「ただし、うちの荷を慈善札へ変えられては困る」


「困るのは私たちも同じです」

 ミラが即座に返した。

「雑置きのまま借りれば、港で寝かせた荷が石蔵で眠るだけになる」


 私は貸出札の端へ触れた。荒い木目の下に、今の字より古い刻みが残っている。墨ではなく刃の跡だった。


 春待ち蔵。干豆は風抜き棚。根菜は北壁下段。十日ごと見返し、芽出しは当日払出し。


 指を離しても、文字の並びだけは頭に残った。ここは空き蔵ではなく、もともと春前の食い延ばしを預かる蔵だったのだ。品名だけでなく、置き場と見返し日まで決めて、腐り方を紙へ出すための場所。


「借り札を替えます」

 私は文書箱から新しい紙を抜いた。

「石蔵貸ではなく、春待ち保存札。保管日、蔵内段、見返し日、商人名、引当先、払出印。ここまで埋めて、初めて中へ入れる」


 頭取が眉を上げる。

「引当先まで先に決める?」


「全部ではありません」

 私は石蔵の奥を見た。西壁の棚は風が抜ける。床際は冷えるが、湿りは少ない。

「今日決めるのは、港で寝かせないぶんと、先に腹へ入れるぶんです。干豆二袋と根菜四籠は炊き出し小屋。赤蕪二籠は病室。残りは春待ち保存で日ごとに払出します」


「随分あっさり人の荷を割りますね」

 頭取の声は低いままだったが、目は私の紙を追っていた。


「割る前に払います」

 ミラが鉄筆で昨日の損控えを開く。

「港内一夜越し損は三日で銀貨一枚と銅貨七。ここの七日貸しは?」


「銀貨半枚」


「なら、港で二夜寝るより安い」

 彼女は即座に答え、保存札の右端へ借り賃欄を足した。

「しかも所在が残る」


 ローデリクが石蔵の敷居を跨いで、中を一周だけ見た。

「誰が見返す」


「十日ごとでは遅いです。今は五日」

 私は北壁の段差へ近づいた。根菜籠を置くならここがいい。

「蔵番ひとりではなく、炊き出し小屋番と病室番の受取札を先につなぎます。芽が出た分はその日の鍋へ落とす。売り物へ戻さない」


 ローデリクは短く頷き、扉の外へ控えていた荷役頭へ声を飛ばした。

「河港の干豆を二袋、根菜を六籠、ここへ上げろ。夜まで港へ戻すな」


 石段を上がってくる足音が、ほどなく三つ四つ重なった。麻袋が石床へ置かれるたび、蔵の匂いが魚醤から土へ変わっていく。私は一袋ずつ保存札を書いた。干豆、北壁上段、見返し五日後、引当先は炊き出し小屋。赤蕪、北壁下段、見返し三日後、引当先は病室。残りの根菜は春待ち保存、払出先未定。ただし日暮れまでに板へ出す。


 頭取は商人側控えへ同じ段を書き写し、最後に小さく息を吐いた。

「これなら、どこで減ったか追えますね」


「減らすために置くんです」

 私は袋口の縄を締め直した。

「石蔵は寝床ではなく、次の払出し先を待つ列にします」


 炊き出し小屋の番女が受取札を持って来たのは、まだ雪明かりの残る刻だった。頬を刺す風のなかで、彼女は札の一行目を声に出して読む。干豆半袋。赤蕪一籠。今日の鍋分。


「半袋で足りますか」

 私が訊くと、番女は鍋柄杓を抱えたまま首を振った。

「昨日の薄粥なら余りました。でも豆が入るなら、外門詰めにも回せます」


 私は二枚目の払出札を継ぎ、外門詰所の欄へ半籠と書き足した。病室番は赤蕪の受取印を押す前に、根を一本持ち上げて張りを確かめる。昨日まで港の石畳で冷えていた根菜が、今日は石蔵の壁を背にして、受取人の名を待っていた。


 ローデリクは私の横で、空いた保存札束を指先で揃えた。

「次はどこへ増やす」


「継馬所です」

 私は答えながら、残りの根菜籠へ新しい札を差した。

「馬の口へ入るものを港で凍らせるのが、いちばん高い」


 その時、石段の下から兵舎付きの書記が駆け上がってきた。胸に抱えた紙束の上には、北砦向け補給請求の紐が見える。


「継馬所経由の干豆を回してほしい、と」

 彼は息を切らし、請求書を差し出した。

「雪が深くて、砦便が二日延びています」


 私は受け取った紙の綴じ目へ触れた。補給請求の裏に、兵站契約の写しが一枚だけ添っている。継馬所受取、砦着後受領、干豆、車軸脂、手甲布。そこまではある。けれど、雪日が延びた時に替え馬へ回す飼葉と、人足の夜食を置く一行だけが、きれいに落ちていた。


 石蔵の入口から入る冷気より、その欠落のほうが細く喉へ刺さる。


「この契約」

 私は紙をミラへ向けた。

「砦へ着くまでの二日しか数えていません」


 ミラの鉄筆が、落ちた行の下で止まった。南坂の石蔵には、まだ半分以上の袋が残っている。けれど、北砦へ向かう道のほうが先に空きそうだった。

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