011 失効したはずの関税特権
廃止済みの帳簿なのに、冬の欄だけ新しい墨で埋まっていた。
翌朝の会計部保管庫は、図書館より冷えていた。窓が高く、机が低い。人が長く座る場所ではなく、箱を積んで数字を眠らせるための部屋だとすぐにわかる。鉄の留め具を外した係が、乙二「冬季入津税留保簿」と焼印の入った第九箱を順に卓へ置いた。ローデリクは立ったまま鍵札を返し、私は革手袋を外して最初の帳面を開く。
表紙裏には斜めの細字で、王都港湾整理令以後停止、とだけあった。
停止なら閉鎖印が要る。裁可番号も、精算先も、残額の移管先も要る。けれど紙の上に残っていたのは、乾いた黒インクの言い切りだけだった。
「ずいぶん急いで終わらせた顔です」
私が言うと、ローデリクが横から頁を覗いた。
「終わっている帳簿かどうかは、中を見てからだ」
ええ、と答えて頁を繰る。
古い年度の欄は整っていた。船名、入津税総額、留保二割、河港支弁、春季精算。外灯、火鉢、温食、人足手当へ分けて数字が落ち、春一番の便で残額が戻されている。乱暴な制度ではない。寒い夜に港を開けるための金が、最初から別口で確保されていた。
違和感が出たのは三年前の冬からだった。
留保二割の欄だけ罫線が薄く削られ、その上から別の見出しが被せられている。
整理口仮預。
筆跡は古い欄名より新しい。しかも消したのではなく、同じ幅の欄へ上から言い換えている。
数字は残っていた。第一便二銀四十、第二便二銀五十六、第三便一銀九十。
その右隣、河港支弁欄は空白。さらに右端には小さく、第九箱参照。
私は第九箱を開けた。中は会計部の現行綴りで、入津税受領票と振替票が麻紐で一組ずつ括られている。北便第二船、北便第三船、雪解け前最終便。票番は乙二と同じ並びだった。
一枚目。入津税受領票。
一二銀六十銅。
欄外に細字。留保相当二銀五十二銅。
二枚目。振替票。
同額二銀五十二銅。
摘要、港湾整理口へ仮預。
指先へ《契約読解》の糸が立つ。死んだ制度へは、この書き方をしない。廃したなら総額だけを納める。わざわざ「留保相当」と書き残す必要がない。残しているのは、その二割が本来どこに座る金か、書いた側が知っているからだ。
「生きています」
私は受領票と乙二の頁を並べた。
「少なくとも、計算の上では」
ローデリクの視線が票番を追う。
「留保をやめたなら、相当額という言い方は出ない」
「ええ。止めたのではなく、口だけ変えています」
私は振替票の末尾を指で押さえた。会計部副署。中央印なし。領主裁可なし。王都港湾整理令を根拠にしているのに、王都側の受領控えも添付されていない。
「移管でもありません。預りです」
「預り」
「預けたまま、河港へ返していない」
口にすると、自分の喉が少しだけ乾いた。昨夜の灯油一樽、燕麦一袋、病室の毛布。あれらは本来、誰かの好意ではなく、この二割から七日内に戻るはずの支弁だった。
私は別の組も開いた。北便第三船。北便第四船。どれも同じだ。受領票の欄外に「留保相当」。振替票には「港湾整理口へ仮預」。河港支弁欄は空白のまま。春季精算も無い。
「七日内に償還する約束だけを落として、徴税だけ続けたわけですか」
ローデリクの声が低くなる。
「河港には自腹で灯りを焚かせ、税は別口へ積む」
「積んだ先も曖昧です」
私は振替票を一枚持ち上げた。
「仮預には期限が要ります。戻す先も。どちらも無い。会計上は宙吊りです」
保管庫の奥で、帳面を運んできた係が気まずそうに咳払いした。私はそちらを見ず、乙二の最後の有効頁をめくる。そこには、昨冬の北便第一船まで記載があった。失効扱いの付箋よりずっと新しい墨で、二割の数字だけがきちんと残っている。
「昨冬も徴っています」
「なら次の船から留保できるか」
問いの形が変わった。昨日までのローデリクなら、誰が消したかを先に訊いたはずだ。今は、取り戻せるかを見ている。
「理屈ではできます。ただし」
私は第九箱の綴りを閉じずに言った。
「現行帳を握る人が、この票番と摘要で流している以上、私の読みだけでは止まりません。会計部の署名が要ります」
「誰だ」
その声が机の向こうから返ってきた。
「私です」
振り向くと、薄茶の髪を後ろで強く束ねた女が、箱札の控えを片手に立っていた。外套の袖はインクで黒ずみ、指先だけが妙に綺麗だ。帳簿を触る前に毎回拭く人の手だった。
「その摘要を書き換えるなら、留保簿と振替票だけでは足りません」
彼女は私ではなく、机の上の受領票へ視線を落とす。
「実船ごとの納付控え、王都側の受領不達、あと港湾整理口の残高照合。そこまで揃えて初めて、紙の嘘は剥がせます」
ローデリクが名を呼ぶより早く、私はわかった。
この人が、北辺の現行会計を握っている。
彼女は箱札を机へ置いた。短く、乾いた音がした。
「会計官ミラ・フェンです。いま見つけた二割を、今度は数字のまま逃がさないなら」
彼女は乙二の開いた頁へ、ためらいなく指を置いた。
「続きを見せてください」




