001 黒字を嫌う婚約者
「エリノア・ヴェイル。君との婚約は、本日この場をもって解消する」
冬の予算評議会の席で、その一言はよく磨かれた黒床よりも冷たく響いた。
私は羽根ペンを置いた。
インク壺の縁で、黒い雫がひとつ、ことりと揺れる。
玉座の下に並ぶ貴族たちは、誰もが私の顔を見ていた。泣くのか、縋るのか、取り乱すのか。そんな期待が、広間の空気に混じっている。
けれど私は、泣かなかった。
泣くより先に、見えてしまったからだ。
王太子ユリウス殿下の手にある婚約解消宣言書。
厚手の羊皮紙に押された王家の印章。その赤い封蝋の下を、私にだけ見える淡い金糸が這っている。
文言は正しい。
けれど、署名の意志が噛み合っていない。
私の魔法《契約読解》は、紙に残る“約束の歪み”を見る。
戦場では役に立たない、地味な魔法。だからこそ王宮では便利な道具としてだけ重宝され、私はずっと「数字しか見ない冷たい女」と呼ばれてきた。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
できるだけ平らな声で訊ねると、殿下の隣に立つカルミナ・レイフェル嬢が小さく息を呑んだ。
彼女はいつも光の中心にいる人だ。困窮者へ毛布を配り、孤児院に寄付し、笑えば周囲が拍手する。
対して私は、帳簿の数字が合わないと夜会を止める女。
たしかに、並べれば、好かれるのはあちらだろう。
「君は冷たすぎる」
ユリウス殿下は言った。
「民を救うための緊急支出に、いちいち根拠だの署名だのと水を差した。カルミナの善意を、君は数字で辱めた」
何人かが頷いた。
何も知らない頷きだった。
あの支出願いに足りなかったのは、たった一つ。
使途の最終責任者の署名。
それがないまま金庫を開けば、次に生まれるのは善意ではない。行方不明の毛布と、帳面の上だけで埋められる不足分だ。
でも、その説明はもうしなかった。
今さら正しさを並べても、今日この場で勝つのは理屈ではない。
物語だ。
冷たい婚約者を退け、心優しい姫を選ぶ王太子。
その筋書きは、あまりにも見栄えがいい。
「……承知いたしました」
広間がざわつく。
あまりにあっさりした返答が意外だったのだろう。
私は立ち上がり、スカートの皺を整えた。
そして解消宣言書の金糸をもう一度見る。
この書面、末尾に続きがある。
そんなはずはない。羊皮紙に書かれているのはここまでだ。
けれど、金糸は確かに、見えない文のかたちを結んでいた。
北辺特別保管領、沈黙図書館。
王命によりそこへ赴任した記録官は、国境に眠る旧誓約の閲覧権を得る。
旧誓約。
私は初めて、心臓が強く脈打つのを感じた。
王宮の誰も知らない古い契約群。
もしそれを読めるなら、この国の赤字も、辺境の放置も、誰が何を隠してきたかも、全部辿れる。
婚約破棄の痛みより先に、仕事の匂いがした。
どうやら私は、捨てられたのではない。
一番おもしろい場所へ飛ばされるらしい。
「最後に一つ、お願いがございます」
私が頭を下げると、殿下は勝者の余裕を浮かべた。
きっと慰謝料か、名誉の保全でも望むと思ったのだろう。
私は微笑んだ。
「北辺特別保管領、沈黙図書館への赴任を希望します」
その瞬間、古参の大臣が一人、はっと顔色を変えた。
ああ、やはり。
あそこには何かある。
それも、王宮の人間が触れられたくない何かが。
婚約者を失ったはずなのに、不思議と足元は軽かった。
だって私は知ってしまったから。
この国でいちばん高価なのは、宝石でも爵位でもない。
破られた約束の、次の持ち主だ。




