あなたを守る傘になると決めて…⑲菊ごぼう
◇◇
清凉寺の七不思議の一つに、「左近の南天」にまつわる言い伝えがある。
それは「その木に触れた者は、腹を痛める」というものなのだが…
そんな事は俺、豊臣秀頼も含めて、江戸を目指している一行の中には、誰一人として知っている者などいなかったのであった。
………
……
慶長11年(1606年)3月22日――
昼過ぎに近江国佐和山を出立した俺たち豊臣秀頼一行は、その日のうちに隣の美濃国に入った。
そしてその美濃国の加納城が今日の目的地ではあったのだが、それはその道中に俺の身を襲ったのだった…
「痛い…腹が強烈に痛い…」
ぐいっと腹を押されるような鈍い痛みに顔がみるみるうちに青くなっていくのが自分でも分かる。
あまりの痛さに全身から変な汗が吹き出し、馬の上にまたがっていることすらきつい。
そんな俺の異変にいち早く気付いたのは、明石全登であった。
「秀頼様…大丈夫でございますか…?」
「いや、全くもって大丈夫ではない…」
俺が即答をすると、全登はきゅっと表情を引き締めて、先導役の板倉重宗に冷静に声をかけた。
「板倉殿。申し訳ないが、秀頼殿のご調子が優れぬゆえ、どこか休める場所にご案内いただきたい」
「それは一大事にございますな。かしこまりました。付近で休める茶屋などを探しましょう」
重宗も冷静に対処すると、先導役を弟の板倉重昌に譲り、自身は先の道へと馬を飛ばしていったのだった。
――こういう不測の事態においても冷静に対処が出来る人間は信頼できるのう…
などと、どうでもよい事に気を紛らわせていないと、気がおかしくなってしまいそうだ。
そして伊吹山の麓にある茶屋なら一休み出来そうだという重宗の提案を受けた全登は、俺の代わりとなって皆に指示を送り、そこで一休みすることになったのであった。
………
……
「秀頼さまぁぁ!!大丈夫でございますか!?」
目的の茶屋に到着し、奥の静かな部屋に寝かされた俺であったが、これでしばらく安静にできると思ったのも束の間、金切り声を上げた千姫が部屋に飛び込んできた。
そのキンキンした声が、俺の腹の何かをかき混ぜると、俺は思わず腹をおさえて「うぅ…」と唸り声を上げてしまった。
そんな俺の様子を見て、千姫がますます取り乱して目にいっぱい涙を浮かべると…
「秀頼さまぁ!しっかりしてくだされ!!秀頼さまぁ!!」
なんと千姫は俺の肩をつかんで、必死に揺らしてきたのだ。
それはさながら船酔いしている最中に、頭を強く揺らされたように気分の悪さが最高潮に達した。
――ああ…俺はここで死ぬのか…
俺はどこか遠い目をして彼女の成すがままにされながら、ぐったりしていたのだった。
…とその時であった。
「千姫様!おやめください!!そんなに体を揺らされては、余計に秀頼様の気分が悪くなってしまいます!!」
と、まさに俺にとっての救世主とも言えるような言葉が聞こえてきた。
その声を発したのは、千姫の侍女で、大蔵卿の姪にあたる青柳であった。
普段はおっとりしている彼女であったが、千姫と俺の様子を見て、普段の彼女からは考えられないような大きな声で千姫を諌めたのであった。
その声に千姫は俺の肩から手を放す。一方の俺は気が遠くなるのを感じながら、そのまま仰向けに寝そべると、半目を開けながら天井を見つめていた。
そんな俺の様子をじっと見つめている千姫が消え入りそうな声で尋ねる。
「青柳…でもどうしたらよいのじゃ…千は秀頼さまが心配でならないのじゃ…」
「千姫様。まずはお医者様を探しましょう。今、甲斐殿らも辺りに名医がいないかと探しておられるようです」
「では、千も共に探します!!」
そう言うやいなや、千姫は一目散に部屋から出ていってしまった。
――なんだろうか…この胸騒ぎは…
正直何だか嫌な予感しかしないのは、なぜなのだろうか…
しかし、今は何も考えたくないし、考える余裕すらない。
俺は薄れゆく意識に抵抗することもないまま、そのまま目をつむったのだった…
………
……
「この辺りに良い医者ですって?それは聞いたことありませんな…」
眉をしかめながらそう答えたのは、茶屋の主人であった。
「そうか…やはり大きな街でないと、良い医者はおらぬか…」
そう漏らしたのは甲斐姫であった。
その横には、心配そうな顔をした千姫と、なぜかどことなく楽しそうな内記の娘がいる。彼女ら三人は、一緒になって秀頼を診てもらう為の医者を探し始めたのだ。
なお秀頼の側には、青柳と明石全登の二人が看病にあたっている。どうやら全登は西洋で身に付けた簡易な治療を秀頼に試みているようだ。
「あのぉ…折角ですから少し茶屋の外に出て聞きこみしてみませんか?」
と、内記の娘が恐る恐る聞く。
「うむ…そうするより他なさそうだな」
甲斐姫が腕を組んでその意見に同意すると、その瞬間に内記の娘の顔がどことなく明くなったことに、千姫は眉をしかめて質した。
「お主はなぜそのように嬉しそうなのじゃ?」
「いえ!嬉しいなんてとんでもございません!秀頼様が大変な時に!
まさか、外に出て知らぬ土地を散歩することに胸が高鳴っているなんてことはございません!」
「うむ…おかしいのう…?なぜか千には、お主が楽しんでいるようにしか見えんのだが…」
千姫は首をかしげながら、前を行く甲斐姫の背中についていったのだった。
………
……
茶屋がある場所は小さな村のようで、数件の家屋の間を、民たちが行きかいしていた。
それでも京や堺などとは比べ物にならないほどに小さな村だ。
茶屋を出た甲斐姫らが、村の中を一回りし終えたのは、わずか四半刻(約30分)にも満たなかったのである。
「なんだか期待外れですね…」
そう内記の娘がため息まじりに言ったのは、「村が小さすぎて全く楽しい場所ではなかった」という意味であったのは間違いない。
しかし、
「はぁ…全くじゃ…名医などどこにもおらぬではないか…」
と、千姫は内記の娘の心情など推し測ることもなく、同じく大きなため息をついたのだった。
こうしている間にも、秀頼は耐えがたい腹痛に苦しんでいるかもしれない。
それに、まだ日が傾くには時間があるが、これ以上ここで足止めを食らうと、日没までに目的地である加納城に到着するのが難しくなるだろう。
何が起きても滅多に動じることがない甲斐姫であっても、この状況にはさすがにお手上げであり、その顔を難しくするより他なかったのだった。
その時であった…
そんな彼女たちに対して、一人の見知らぬ老婆がふいに声をかけてきたのだ。
「なんだい?お前様たちは医者様を探しておられるのかね?」
急に話しかけられたことに、顔を見合わせる三人。
そして甲斐姫が代表して、その老婆に答えたのであった。
「はい、そうなのだが…この村には医者らしい医者はおらぬようだな…」
すると老婆は、二カッと笑って一つの事を教えてくれたのだった。
「カカカ!それならお主らは幸運な方々じゃ!」
そう笑う老婆に、三人は怪訝そうな表情になる。
「もし、お主何か医者のあてでもおありなのか?」
「いや、お医者様はこの村にはいねえ。医者を探しているなら、加納の街までいかねば見つからないさ」
「では、なぜわらわたちが幸運なのであろうか?」
「カカカ!それは今日がその日だからじゃ!」
「その日?」
そして、相変わらず状況が飲み込めず、眉をひそめていた三人に対して、老婆は近くの寺の本堂の方を指差して言ったのだった。
「今日は『施しの日』なのじゃ!山からあざみ様が下りて来られて、あの寺で薬草をお配りになられておられるのさ!」
………
……
「いやじゃ!絶対にいやじゃ!!あざみというおなごだけは、絶対に秀頼さまに会わせてはならぬ!!」
千姫は「あざみ」という名を聞いたその時から、手足をばたつかせながら、彼女に協力を求めに寺へ行く事を懸命に拒んでいた。
「しかし、お千…もうあざみという人に頼るより他はないのではないか?」
「だめじゃ!!千が許しませぬ!!」
「どうしてそのように強情なのだ…?」
その千姫の様子がどうにも納得いかずに、甲斐姫が質すと、千姫はとても言いづらそうに口ごもる。
「それは…その…秀頼さまとあざみはじゃな…その昔…」
そんな風に顔を真っ赤にさせてもじもじとしている千姫を見て、内記の娘がニヤリと笑う。
どうやら彼女は何かに勘付いたらしい。
「ははあん…もしや、秀頼様とそのあざみというおなごは、どこかで顔を合わせた事がおありなのでは?」
「し…知らぬ!かようなこと、せ、千は聞いたこともない!」
そのかまをかけた言葉に、明らかに動揺を隠せない千姫に対して、ますます楽しそうな表情になった内記の娘はさらに突っ込んで言い放った。
「へえ…そうでございますか。てっきり秀頼様とあざみというお方が、『恋仲』だったのでは?と思ってしまいました」
「ゲホッ!ゲホッ!!な、な、な、なにを突然言うのじゃ!!そ、そ、そ、そんな事ある訳なかろう!!」
この千姫の突然足元から煙が上がって慌てふためくような焦った様子に、内記の娘は確信した――
――これは面白くなりそう!
と…
そして彼女は、千姫の様子に困ったような表情を浮かべていた甲斐姫に対して、いつになく真剣な顔つきで進言したのであった。
「甲斐様!!ここはあざみというお方に頼るより他ありません!!
直接秀頼様の事を診ていただきましょう!!
なんならお部屋に二人きりにしてしまいましょう!
ささ!!こうしている間にも秀頼様は苦しんでおられるに違いありません!!早く行きましょう!!」
「あ…ああ。では行くとしようか」
そんな彼女の剣幕に、甲斐姫も思わずうなずいてしまった。
すると彼女は甲斐姫の背中を押しながら、嬉々として言った。
「では!早速行きましょう!ささっ!」
…と、そこに…
「なりませぬ!!千がここは通しませぬ!!
お医者様を引き続き探しましょう!!」
と、千姫が二人の前に立ちはだかり、両手をいっぱいに広げたのであった。
千姫の尋常ならざる様子に、
「どうしたと言うのじゃ…お千…先ほどから変であるぞ?
あざみという人と秀頼殿を会わせたくないのなら、はっきりとその理由を言うてみよ」
と、甲斐姫はとうとう苦言を呈した。
千姫は甲斐姫の視線に追い詰められたように、ふるふると震え出す。
そして…
顔を真っ赤にして、瞳を涙でいっぱいにしながら叫んだのだった。
「あざみというおなごに、秀頼さまが取られてしまうからじゃ!!!」
と…
そのあまりに大きな声に、甲斐姫と内記の娘はおろか、村人たちも皆一斉に目を丸くして千姫の方を見つめた。
気まずい沈黙が続く中、千姫の荒い鼻息と、どこか間延びした鶏の「コケーッ!!」という鳴き声だけが、あたりにこだましている。
そんな時であった。
「あざみは秀頼様のことを取ったりなんかしねえ」
と、澄んだ少女の声が辺りに響いた。
今度はその声の持ち主の方へと皆の視線が集まった。
肩まで伸びた艶やかな黒髪、張りのある健康そうな色の肌、くりっとした愛らしい瞳に、少し高い鼻、それにきゅっと締まった唇。そして、地味な服に身を包む細身の体だが、すらりと伸びた長い脚が美しい。
秀頼と同じくらいの年齢の、明らかな美少女が、凛とした佇まいでそこに立っていたのだった。
「お主があざみか?」
と甲斐姫が尋ねると、少女はコクリとうなずいて、はきはきした声で答えた。
「その通りだ。あんたらが秀頼様のお連れの方々かね?」
「ああ、いかにも。わらわは成田甲斐。
そしてこちらにおられるのが、豊臣秀頼殿の正室、豊臣千殿である」
そう甲斐姫が、自分と千姫のことを紹介すると、あざみはペコリと頭を下げた。そして顔を上げると、じっと千姫を見つめた。
「あなた様が千様かね…」
「そ、そ、そ、そうじゃ!それがどうかしたか!?」
いかにも噛みつきそうな千姫の様子に、
「まあまあ、千姫様。落ち着いて、落ち着いて」
と、内記の娘が心底楽しそうに彼女をなだめている。
そして、あざみは千姫の事を頭から足先まで、じっくりと見ると、最後に千姫の瞳を見つめながら優しい声で言ったのだった。
「秀頼様にお似合いな、可愛らしいお人でねえか。
秀頼様、よかったなぁ。こんなお人と夫婦になられて」
その意外な褒め言葉に、千姫の警戒心はすぅっと空の彼方に飛んでいくと、違った意味でその顔を赤らめたのであった。
「そ、そ、そうか?そう思ってくれるのか?」
「ああ、本当にそう思う。千姫様は心も優しいお方とお見受けするからのう。
秀頼様は幸せ者だぁ」
「ま、まぁ…それは間違いないのう。
あざみとやら…なかなかよいおなごではないか」
「ははは!やめてくだせえ!あざみは見ての通りの田舎の百姓の出にございます。
千姫様のような方に褒められるのは、もったいねえ」
そう笑うあざみの顔は、春の日差しに眩しく輝いている。
そんな彼女の様子に、
ーーなかなかの器量の持ち主ではないか…
ーーなかなかやるわね!ますます面白くなりそう!
ーーなかなか良いお方じゃ!警戒して損したのう…
と、三者三様の印象を抱いていたのだった。
三人がそんな事を考えているうちに、あざみは一つの小さな包みを千姫の前に差出した。
目を丸くしてそれを受け取る千姫。
「これは?」
「うけら(現在のオケラのこと)の根を乾燥させて煎じたものだあ。
これを秀頼様にお湯に溶かして飲ませてあげておくれ」
「うけら?」
「さっきそこのお婆様から秀頼様が腹を痛めておられる事は聞いとる。
それなら、このうけらの薬が良く効くから」
そう言うとあざみはくるりと振り返って寺の方へ戻ろうとした。その様子に内記の娘が慌てて声をかける。
「お待ち下さい!秀頼様に会っていかれないのですか?」
その問いかけにあざみは顔だけを三人に向けて言ったのだった。
「この村にはあざみの薬草を待っている人々がまだたくさんいる。
明日は別の村に行かなくちゃなんねえし、明後日はまた別の村に行く。
みんなあざみの薬草を待ってる人たちばかり。
その人たちを助けずに、秀頼様のところに行ったなら、秀頼様はあざみの事をお叱りになるに違いねえ。
秀頼様があざみたち百姓の為に頑張っているなら、あざみも少しでもその手伝いをしなくちゃなんねえのさ」
そこまで言うとあざみは、心の底から愛おしいものを胸にしまうように、手を合わせて優しい瞳で続けた。
「それが秀頼様から受けた恩を返すということだから」
そう言って彼女は寺の方に向き直った。
甲斐姫と内記の娘はそんなあざみの様子を見て、各々心にきするところがあったようだ。
――強いおなごだ…かような者がこんな所におったとは…
――心より秀頼殿の事を慕っておられるのね…
すると…
そんな彼女の前に…
千姫が転げるように飛び出してきたのだ。
突然のことに驚いた表情を浮かべるあざみ。
「ど、どうしたあ?」
そう尋ねる彼女に対して、口をきゅっと真一文字に結んだ千姫は…
ーーガバァッ!
と、深々とお辞儀をしたのだった。
「ありがとうございます!このご恩は必ずや千がお返しいたします!」
そう大きな透き通った声でお礼を言うと、千姫は顔を上げた。
その顔は…
満面の笑みーー
あざみは、その顔を見てニコリと笑うと、何かを思い出してもう一つの包みを千姫に渡した。
「これ…秀頼様が元気になったら、千様と一緒に食べておくれ」
「これは…?」
「菊ごぼうの香の物さあ」
「ごぼう?」
「切り口が菊の花に似とるから、菊ごぼうって名前だ。きっと美味しいから」
「うん!ありがとう!」
「じゃあ、達者でな」
そう言い残した彼女は、辺りに爽やかな春の風のような香りを残して、その場を後にしたのだった。
………
……
「不思議だ…もうなんともない!」
千姫らが茶屋の一室に戻ってきた後、彼女らが持ってきた薬を飲んだ俺、豊臣秀頼。なんと、わずかな時間のうちに腹痛がおさまったことに、えらく感動してしまい、思わず起き上り、体をぶんぶんと動かした。
「おお!なんともない!素晴らしい効き目であるな!」
そんな俺の様子に、パアッと顔を明るくさせた千姫は、
「秀頼さまぁ!!良かった!!千は嬉しいです!」
と、自分のことのように喜んでいる。
布団から出た俺は、瞳を輝かせている千姫の頭を優しくなでた。
「ありがとうな、お千!
ところでかような効く薬を分けてくれる医者は、よほどな名医なのであろう。
是非、学府に招きたいものだ!
一度顔を合わせてはくれないものかのう?」
良い人材がいたら自分のところに抱え込みたいという性分は、父の太閤秀吉譲りなのだろうか。俺は薬を処方した医者との面会を求めた。
しかしその俺の言葉に、どこか気まずそうに顔を見合わせている千姫と内記の娘。
そんな中。甲斐姫が俺に諭すように言った。
「その方は今日はここの村人たちの為に働いておられる。
その方は、村人たちを放っておいて、自分が秀頼殿のところへ駆けつけたなら、それこそ秀頼様にお叱りになられるといって、秀頼殿に会われるのを固辞しておった」
「そうか…残念だな…」
俺は何だか体良く断られた気がして心が沈んで顔を暗くしてうつむくと、そんな俺の前に千姫が先ほどとは異なる包みを開けて差し出してきた。
それは塩漬けとなった茎の漬物のようだ。漬物独特の食欲をそそる良い香りがする。
「これはなんだい?村で売られていたものか?」
「いえ、これはお薬をくれた方より頂戴した『菊ごぼう』にございます!
秀頼さまが元気になられたら、一緒に食べてくだされ、と」
「ふむ、そうであったか!では一ついただくとするかのう」
と俺はその漬物に手を伸ばして、一口放りこんだ。
――シャリッ!
心地よい歯ごたえに、程よく沁み込んだ塩の味が口いっぱいに広がる。
俺はその味付けに思わず、大きな声を上げてしまった。
「うまい!うまいのう!!みなも一つ食べてみるがよい!うまいぞ!」
――シャリッ!
――シャリッ!
その場にいた全員が、菊ごぼうを口にすると、それぞれに美味しそうな顔を浮かべている。
俺は良く噛んでそれを味わっていると、この漬物を作った人の心が沁み渡ってくる感覚がした。
「優しい…だが、芯はしっかりとしておって強き人が作ったのだろう…」
そう思わず口から洩れると、不思議と胸の鼓動が高鳴ってきて、顔が紅潮していくのが分かった。
その様子を見た千姫は、なぜか面白くないようなものを顔に浮かべている。
「どうしたのだ?お千?」
「なんでもございませぬ!」
と言いながらも、彼女はプイっとそっぽを向いてしまった。
「しかし…薬のことといい、この漬物のことといい、ますますそのお方の事が気になるのう…
出来ればこれからも、われの側に置いておきたいところだ。
何かあればすぐに力になってくれそうだからのう…」
その俺の言葉にそっぽを向いていた千姫がすごい剣幕で俺に詰め寄った。
「だめです!!秀頼さま!!千がおりますゆえ、それはだめにございます!!
それにそのお方はすっごくお忙しい方ゆえ、秀頼さまのお側にずっとおられるのは無理にございます!!」
「そ…そうか…うむ、お千がそこまで言うのなら、まあ仕方ないかのう…」
あまりの彼女の剣幕に押されてしまった俺は、訳も分からないまま思わずそう答えてしまったのであった。
そして…
「よし!では、もう時間もない!早速出立するとしよう!
皆の者、心配をかけてすまなかった!!さあ、加納を目指してもうひと頑張りじゃ!!」
と俺はその場の全員に声をかけると、皆一様に気持ちを新たにして出立の支度にとりかかろうとしたのであった。
しかし…
一件落着しかかったこの場に、一つの波紋を呼ぶ男が、ひょいっと部屋に入ってきたのである。
それは…
板倉勝重の次男、板倉重昌であった…
「ややっ!それは菊ごぼうではありませんか!どれどれ一つ…
うん!うまい!!うまいのう!!
これを作られた方は、たいそう心が美しいお方なのであろうな!
いや、心だけではない、きっと見た目も美しいおなごなのではなかろうか!
繊細さと優しさが心に沁み渡るようじゃ!ははは!」
相変わらずぺらぺらとよくしゃべる彼は、いらぬ事まで言ってしまったようで、千姫の顔がみるみるうちに歪んでいるのが分かる。
しかし、彼はそんな千姫のことなど気にも留めずに、俺に向けてしゃべり続けたのであった。
「秀頼殿!御存じでしたか?実はこの『菊ごぼう』、ごぼうと言う名がついておりますが、実はごぼうから作られていないのですよ!」
「う、うむ…そうなのか…では、何から…?」
そして、その答えを聞いた瞬間…
俺、千姫、甲斐姫、そして内記の娘の四人の顔がそれぞれ驚きに変わるのであった。
その答えとは…
「薊…!薊にございます!!」
であったのだった――
………
……
その日の夕刻――
伊吹山の中にある大きな薬草畑の側にある小さな屋敷の中で、老人が麓の村から帰ってきた少女の様子を見て、目を丸くして問いかけた。
「どうした?あざみ?今日はやけに嬉しそうじゃねえか?」
「そ、そうか…?何も変わったことなんてねえ。も、もう夕げの支度をしてくるからな」
そう答えた少女の頬は赤く染まっている。
そして、その顔を隠す様に、二人がいた居間から台所の方へと移っていった少女は、窓から夕闇に輝く星を見つめて、老人に聞こえないように小さな声で呟いたのだった。
「秀頼様…いつかお会いしたいのう…その時は…」
すぅと窓から涼やかな春の風が、台所の中に入ってくる。
それを顔に浴びた少女であったが、胸の内に秘めた熱い想いは冷めることはなかったのであった。
菊ごぼうは、美濃・飛騨の特産品とのことです。
本格的に製造が始まったのは江戸期後半からとのことでございますが、原型となる漬物は当時もあったのではないかと思い、登場させました。
この地方を訪れた際は、是非このお話しを思い出してお土産に買いたいものです。
さて、次回は美濃国加納城のお話しになります。
なおこの秀頼の江戸訪問記は、後々の出来事に重要な役割がありますので、出来る限り丁寧に書きたいと思っております。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
加えまして、第二部では主人公の秀頼が、大坂城からある程度自由に出歩き出来るようになっております。
つきましては、「秀頼にわが町に来てほしい!」というリクエストがございましたら、是非お気軽にメッセージ・感想にいただければと存じます。
ストーリー上無理のない場所でございましたら、是非秀頼が訪問させていただき、その土地の歴史や名産、史跡についてのお話しを綴りたいと存じます。
日本の美しい歴史や自然、文化の再発見が拙作の一つのテーマでもございますので、何卒よろしくお願いいたします。




