あなたを守る傘になると決めて…⑱佐和山で待つ夢(7)
佐和山城の戦いで命を落とした多くの女性や子供たちに贈る物語になります。
心を込めて作りました。
どうか彼らの事を想っていただきながら、ご一読いただければ幸いにございます。
◇◇
佐和山城の戦いの顛末を聞き終えた俺、豊臣秀頼は、その戦の衝撃にまばたきすら忘れてしまっていた。
そのことはその他の面々も同じようで、うたのすすり泣く声だけが部屋の中をこだましていた。
そして、語り手である津田重氏は首を横に振って続けた。
「しかし…この戦さこそ、清幽の…石田佐吉の戦いの始まりでした」
その重氏の物言いに、俺は不思議そうに問いかけた。
「なぜだい?戦さが終わって命を落とす心配がなくなったんだから、それでよかったのではないか?」
「確かに、戦さで命を落とす心配はなくなりました。
しかし…」
「しかし…?」
重氏はそこで言いづらそうに言葉を切る。
それでも皆の視線が集まる中、彼は辛そうに言った。
「佐吉と…病との戦いが始まったのです…」
「病…」
うたが消え入りそうな声でつぶやくと、重氏はゆっくりと語り始めたのだった。
………
……
慶長6年(1601年)秋ーー
「わずか一年ではございましたが、お世話になりました」
石田清幽と名をあらためた佐吉は、高野山の寺の住職にそう言うと、深々とお辞儀をした。その傍らには、津田重氏。
この日、故あって佐吉はこの寺を出ることになったのだ。
その理由とは…
「京には、良い医者が集まり始めていると聞く。
くれぐれも無理をせずに、養生につとめるのだぞ」
そう寺の住職が言ったように、彼はこの時既に病に冒されていたのだ。
まだ生活が出来ないほどではないが、寺での生活をやめて、大事をとってこの日から京や堺にいる医者に診てもらいながら養生することとして、佐吉は寺から出ることになった。
「では、行きましょうか」
そのように佐吉に促した重氏は、浪人の身ではあったが、それでも亡き親友の石田朝成との約束を守るべく、佐吉の療養先を見つけて、病が良くなるように治療を受けさせることにしたのである。
「はい、よろしくお願いします」
重氏に頭を下げた佐吉は穏やかな顔のまま高野山をあとにしたのだった。
山を離れてから、ゆっくりと北上していく二人。
この日は穏やかな秋晴れだ。
そんな空に似合わぬ曇った表情で重氏は佐吉に問いかけた。
「本当によいのか?」
この問いかけの意味することは、彼が満足な治療を受けることが出来る堺や京には向かわないということであった。なんと彼は故郷である近江国佐和山に戻ることを希望したのだ。
そんな彼は重氏に対して、どこまでも穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
「ええ、自分の体のことは、自分がよく分かっております」
この答えは「病はさほど重くないので心配ない」ともとらえられるが、その一方で「もうよくなる見込みはないゆえ残りの人生を好きにさせて欲しい」ともとらえられる。
どちらを意味しているのかは、佐吉の表情から判断する事は出来ない。
しかしいずれにせよ、佐吉の瞳からは主張を曲げぬ強い芯が感じられ、重氏は従わざるを得ないのであった。
近江国佐和山に到着したのは、高野山を出立した翌日のことであった。
この日はあいにくの曇り空。それでも佐吉の表情は晴れやかであった。
「ああ…わずか一年しか経っていないのに、かように懐かしく感じるものなのか…」
しかし彼がそう感じるのも無理はないかもしれない。
一年前とは違い、その領主は彼の父ではないのだ。
そして慣れ親しんだ佐和山城も、理由は分からないが新たな城主である井伊直政には使われていないとのことで、どことなく寂しく見える。
しかし、佐吉は佐和山城の本丸には用はない。彼は真っ直ぐと彼の目的の場所へと向かっていった。
その目的の場所とは、もちろん…
左近の南天…
その大木の元までやって来ると、背後にいた重氏に対して声をかけた。
「母上とここで再会する約束をしているのです」
この時、うたの消息は不明。しかし屋敷で起こった悲劇は重氏の耳にも入っており、うたの生死は絶望的と言わざるを得ない状況だ。
それでも彼は「ここで待つ」と言う。
どれほどか知れない病をおして…
「まずは治療を先にすべきだ」
重氏が命令するように言ったのは、もちろん佐吉の体を思ってのことだ。
しかし佐吉は微笑を浮かべたまま、首を横に振って、それを彼の意志として答えにした。
佐吉の父、石田宗應も一度決めた事は絶対に曲げぬ鉄の意志を持った人と重氏は聞いており、恐らくそれは佐吉の中に流れる血にも脈々と受け継がれているに違いない。
重氏はもはや言える言葉を失って、静かに彼の側を離れたのだった。
それから毎日ーー
佐吉は朝から日暮れまで、その大木の側に立ち続けた。
雨の日も、風の日も…
穏やかな表情を浮かべて…
彼の佐和山にて待つ『夢』をかなえるために…
彼はどんなに絶望的だとしても、信じて疑わなかったのだ。
ーー母上は必ずや、お戻りになる
と…
しかし、病は確実に彼の体を蝕んでいく。
その大木がある清凉寺に寝泊まりをさせてもらっているようだが、恐らく満足のいく治療など受けていないのだろう。
日を追うにつれて、彼の体は痩せ細っていく。それでも彼のその瞳の輝きは失われることなく、再会を夢見る希望の色に満ちていた。
一方の、重氏は彦根で始まった城の普請の人足として日銭を稼いでは、佐吉の衣服や食料の足しにと、わずかではあるが銭を寺に預けていった。
そして…佐吉は、悲鳴を上げる体に鞭を打って、一年以上毎日朝から晩まで大木の元で立ち続けたのであった――
ところが…
それは慶長8年(1603年)2月のある日のことであった。
「清幽!!」
その日の仕事を終えて様子を見に来た重氏は、倒れている佐吉を見つけて慌てて彼のもとへと駆け寄った。
しかし佐吉は重氏の呼びかけに答えることができずに、口から血を吐きぐったりしていたのだ。
「とにかく寺の中に!」
そう声をかけても意識を失っていた佐吉の耳には届く事はなかったのだった。
………
……
「ううっ…ここは…」
ようやく佐吉が目を覚ましたのは、すでに深夜になってからであった。
「おお!目を覚ましたか」
「津田殿…それがしは…」
そう言って体を起こそうとする佐吉に対して、その肩を優しく支えた重氏は、言い聞かせるような口調で言った。
「清幽よ。無理をするでない。昼間に様子を見に来たら、お主が大木の側で倒れていたのだ」
「さようでしたか…」
そう漏らした佐吉は、大人しく横になる。
そんな彼を見て重氏は大きく息を吸うと、心を鬼にして佐吉に語りかけた。
「すでに先の大戦から二年半も経った。ここまで待ってもお主の母上はやってこないということは、もうこの世のお人ではないのではなかろうか。
これ以上、お主がわが父によって救われたその命を無駄に削っていくのを見てはいられぬ。
それにもし、お主が己の命を削ってまでも自分の事を待っていると知れたら、お主の母上はきっと悲しむに違いあるまい。
もうここらで諦めて、養生に専念いたせ」
真剣なまなざしを佐吉に向ける重氏。
そんな重氏の視線を感じながら佐吉は寝そべって天井を見つめて、ぽつりぽつりとつぶやくように話し始めた。
「母上は…必ず約束をお守りする強きお人でした…」
「ああ…それがしもよく存じておる」
いつの間にか降り出した雪…なごり雪であろうか…
いつも変わらぬ穏やかな表情の佐吉の目からは…
大粒の涙――
「だから母上は…母上は必ずや戻ってこられます。それがしは…それがしは…」
それ以上は佐吉は言葉にすることが出来なかった。
しかしそれでも、重氏には彼の強い想いが痛いほどよく理解できた。
なぜならそれは…
戦さに向かう時の武士の決意そのものであったからだ。
関ヶ原の戦いが終わってから既に二年半。
しかし戦さによって家族の行方が知れなくなってしまった人々にとっての戦いはまだ続いている。
それでも多くの人々は、「自分が生きる為」に生活を普段のものに戻し、戻らぬ家族への想いを胸にしまったまま、毎日を必死に生きていることであろう。
それでよいのだ。むしろそうでなくては、国は作れぬし、新たな世は成り立たないであろう。
しかし、佐吉は違っていた。
彼は、「再会を約束した地で待ち続ける」という最も不器用なやり方を貫きとおそうとしている。
それは「自分が生きる」という事を犠牲にしてまでも、愛する家族を真っ先にこの手で迎えたい…それだけの一心であろう。
それが佐吉にとっての「関ヶ原の戦い」なのだ。
それこそが、佐吉にとっての…
武士の一分――
なのだ…
翌朝――
佐吉はいつもの通り、そこにいた。
いつもと違うのは、立ってはおらず、大木に寄りかかるようにして座っているということだけ…
もはや重氏は「自分が何かを言う資格はない」そのように思えてならなかった。その為彼は暇を見つけては、彼の様子を見に来ることしかできなかったのだ。
佐吉の体はとうに限界を超えているに違いない。
激痛に顔が歪んでしまってもおかしくないことであろう。
それでも母を待つ佐吉の顔はどこか幸せそうで、それだけ見れば病の事など誰も気付くことがないはずだ。
そして、倒れた佐吉が再び南天の木の麓で母を待ち続けてからおよそ一カ月がたった。
慶長8年(1603年)3月22日――
それは空に分厚い雲がかかるそんな日。
佐吉はその日も大木の元で座っていた。
春の太陽が顔を隠してしまっているせいか、朝から花冷えの一日。
佐吉の横には、一つの「笠」がある。
それは雨になりそうな日は必ず彼が持ち合わせていたものだ。
――母上が笠をお持ちでなかったら、これをかぶっていただきたいのだ
と言っていたのを重氏は記憶していた。
そして、佐吉はゆっくりと目を閉じた。
彼はこの時夢を見ていたのかもしれない。
家族全員で笑って過ごした、あの幸せな日々を。
遠くから見つめる重氏にもそれが分かる。
そして佐吉は最期の、最期の力を振り絞って口を動かしたのであった。
「あ」「り」「が」「と」「う」
と…
そして、一筋の涙が佐吉の頬を濡らし、口元にはいつもの清らかな微笑みを携えたまま…
それは静かに…とても静かに…
彼は想いを大木に託して、天へと旅立っていったのだった――
………
……
津田重氏の語りに、俺も含めて全員が涙していた。
重氏自身も話しながら大粒の涙で床を濡らしている。
そして、彼は懐から一通の書状をおもむろに取り出すと、それを泣きじゃくる佐吉の母、うたの前に差し出した。
目の見えない彼女に代わって、それを甲斐姫が受け取る。
もちろん差出人は佐吉、宛先は彼の母であるうたであった。
「佐吉が亡くなったその日、寺の一室に置かれていたものにございます」
そう重氏が説明すると、甲斐姫はそれを俺に手渡した。
「秀頼殿。それを声に出して読んでいただけないか。うた殿にその内容が伝わるように」
俺はこくりと大きくうなずくと、すぅと息を吸い込んで、その書状を広げた。
消えてしまいそうな、繊細で細い字だ。
しかしそこには佐吉の魂が確かに込められているのが分かる。
俺も佐吉の想いを乗せるように、心を込めて読み始めた。
「母上。母上とのお約束を果たせずまま、どうやらあの世へと旅立たねばならぬようです。
どうか親不孝をお許しください。
まもなく朽ちるこの身なれど、この魂だけは南天の大木にて母を待っております。
願わくば、来世で再び母上の子として生まれとう存じます。
その時は、父上も、兄上も、姉上も、もちろん母上も、皆が笑って暮らせる世である事を願ってやみません。
どうか、御身体には十分にお気をつけくださいませ…佐吉」
――ウワァァァァ!!さきちぃぃぃぃぃ!!
うたの絶叫は部屋を突き抜け、天までこだます。
しかし、空は…
彼女の慟哭をなぐさめようと、春の暖かな陽射しをのぞかせ始めたのだ。
柔らかな光が部屋の中に入ってくると、そのぬくもりがうたを包んだ。
そして…
佐吉は部屋の中に立っていた――
「佐吉…」
うたの見えない目にもその姿は、はっきりと映っているようだ。
血色の良い赤みがかかった頬を見るに、もう病気はないのであろう。
元気に過ごしているのであろう。
何の苦しみもないのであろう。
穏やかで、静かな微笑みを浮かべて、母であるうたに優しい視線を向けている。
彼はゆっくりと口を開いた。
――泣かないで…母上。佐吉は幸せにございます。こうしてお約束通り、母上とお会いできたのですから。
その声は、彼の心を映すように、清らかな川のせせらぎのようであった。
「佐吉…!佐吉!すまぬ…母は…母は…」
うたは佐吉に向けて涙を流しながら、必死に謝っていた。それは彼が存命のうちに約束を果たせなかったことに対して頭を下げていたのであろう。
――母上。頭をお上げください。こうしてお会い出来たではありませんか。それに母上が生きておられただけで、佐吉は嬉しいのです。
そして、佐吉の全身が眩しく輝き始めた。
――どうやらもう時間のようです。これからは天より、母上と父上、それに兄上たちに姉上たちの事を見守り続けとうございます。
そう言った佐吉に向けて、うたが必死に声をかけた。
それは彼女の、子に対する願いそのものであった。
「佐吉!約束しておくれ!!
どうか!どうか、安らかに過ごしておくれ!!母のことよりも、自分のことを大切にしておくれ!」
そのうたの願いに佐吉はニコリと笑顔を見せると、その姿はまばゆい光となって消えていった。
そして…
――母上。それがしの幸せは、家族のみなが笑顔になることなのです。
という言葉だけを残して、彼の心もまた旅立っていった…
佐和山の空は、先ほどまでの雨が嘘のように綺麗に晴れ渡っている。
春の花の匂いが、爽やかな風に乗って辺りを包む。
その頃には、うたも含めた全員にもう涙はなかった。
――今日も、明日も、旅立っていった者たちの想いの為に必死に前を向いて生きていこう
そんな気持ちが、不思議と俺の胸の中に、暖かさを帯びて沸いてくる、そんな春のうららかな陽射しであった。
………
……
慶長11年(1606年)3月22日 昼過ぎ――
雨が上がったことで、出立が可能であると判断した俺たちは、急いで準備を整えた。
そしてその準備を終えると、屋敷の門の前で、見送りにきた井伊家の人々に対して、あらためて礼をしたのであった。
「今日は屋敷で過ごしていかれればよいと思うのだが、もう行ってしまうのかい?」
そう名残惜しそうに声をかけてきたのは、井伊直孝であった。
俺は珍しく少し元気のない直孝に対して、明るい声で答えた。
「ああ、予定通りに進まねばならぬからのう!だがまたいつか会おう!」
「ははは!約束だ!」
「おう!約束だ!ははは!!」
互いに笑顔となったところで、
「では、皆の者!大変世話になった!!また会う日まで、達者でな!!」
と、俺は大きな声で井伊家の家中の全員に声をかけると、直孝の表情がきりっと引き締まる。
そして…
「一同!!礼!!!」
という直孝の命によって、規律正しく一斉に人々が頭を下げたのであった。
なお、その中には、石田宗應の妻であり、佐吉の母のうたは含まれていない。
そして屋敷を出たすぐ後…
彼女の姿はそこにあった。
それは…
左近の南天――
彼女の横には津田重氏の姿があった。
俺たち一行を見つけた重氏が促すと、うたは優しい微笑みを浮かべて俺たちに頭を下げる。
ちなみに彼女は一時的に清凉寺に引き取られることとなった。
そして、今の豪徳庵の場所に近々大きな寺、後世で言う「龍潭寺」が作られることとなっており、それが完成したあかつきには、そのうちの一室を彼女の部屋としてあてるそうだ。
彼女の存在は井伊家ではまだ公にはされていないが、正式に徳川家から何らかの沙汰が下されれば、その際に当主である井伊直継の口から皆に説明するということらしい。
もちろん部屋からの外出は自由であるし、何名かの侍女が彼女の世話役としてあてられることになっているとのことで、彼女の穏やかな余生は井伊家によって保証されることになりそうで、俺も甲斐姫もほっと一安心であった。
そして彼女が新たな寺に移り、徳川家からの彼女の身の安全の保証が得られた後は、津田重氏は大坂城にて奉公することになったのだった。
頭を下げるうたを見て、俺と甲斐姫も彼女に向けて軽く頭を下げた。
そんな彼女の頭には、大きな笠。
そう、佐吉が「雨が降ったなら母に」と持ち歩いてものだ。
その様子に俺は、佐吉が天より母を守っているような気がしてならなかった。
佐和山城の戦い――
その激戦の面影は、この佐和山にはもうない。
それでも確かにそこで戦い続けた一人の武士の想いは、一人の女性の笑顔を守る笠となって残ったのであった。
戦さとは、当事者同士だけの戦いではなかったのではないでしょうか。
実際に戦っていた人々だけではなく、そこに巻き込まれた人々にも焦点を充てたお話しを作りたく、この佐和山城の戦いを取り上げさせていただきました。
みなさまにはどう映りましたでしょうか。
さて、今回のお話しには様々な彦根にあるスポットも登場したのにお気づきでしたでしょうか。
龍潭寺、佐和山城址、石田屋敷跡、清凉寺、左近の南天…
特に清凉寺については、「七不思議」をいくつか取り上げております。
・唸り門(大みそかになると唸り出すらしい…)
・ひとりでに鳴り出す太鼓
・木娘
・血の池
・左近の南天(大木というほど大きくはないようですが…)
その他にも「壁の月」や「洗濯井戸」といった伝承もあるそうです。
私は彦根城に訪れたことはないのですが、立ち寄ったその際には、その向かい側にある佐和山にも是非立ち寄りたいものでございます。
さて次回は、彦根を出立した一行が、途中で休憩をするシーンのお話しになります。
これからもよろしくお願いいたします。