第9話 我が領に何も期待しないで欲しい(アロイスくん視点)
アールデルス伯エルヴィンはまるで死神のようだ、とアロイスは思った。
気圧されるわけにはいかない。
こちらもただ黙って小麦を奪われて泣き寝入りしたくはない。
必死になって小麦を作った民がいるのだから。
被害に遭ってすぐ父と共に見舞いへ赴いたが、全てを奪われた民が絶望して泣き叫び、ひどく苦しんでいた。怪我をした人間どころか殺された人間さえいた。
すぐに食糧と薬を届けさせたが、次年度用の種籾も奪われていることがわかった。来年収穫する予定の麦さえ無くなったということだ。
父はぽっつり、「まずい」と言った。公爵家が総力を挙げて支援しなければ、間違いなく村に凄惨な飢餓が襲いかかる。
村を治めている家臣は何とか支援を続けているが、すでに飢えで体が弱っている人間が多くいると聞く。
それを聞いて胸が張り裂けない領主はいないだろう。
だから、アロイスは口を開いた。
「お初にお目にかかります。アールデルス伯爵閣下。お話は聞いておいでですか?」
エルヴィンは溜め息をついた。
「聞いている。こちらとしてはどんな形であれハルトマン侯爵領に関わる気はない。以上だ」
にべもなく一刀両断された。
しかし、密議の機会を設けてくれたということは、エルヴィンもヴァールストレーム領に用があるということだ、と思い直す。
エルヴィンは「ハルトマン侯爵領に関わる気はない」と言った。では。
「……そうでしょうね。ハルトマン侯爵領との商業的な取引を一切停止されたとか。それ以降、何かお困りのことなどありますか? アールデルス伯爵閣下」
ハルトマン侯爵領と直接対決しない形でこちらが何か便宜を図れば、エルヴィンも何らかの便宜を図ってくれるはずだ。
アロイスがエルヴィンを見つめると、その瞬間、死神のような伯爵の口からぼやきが漏れた。
「最悪だ……。最悪すぎる……」
「……」
何が最悪なのだろう。アロイスは身構えた。
エルヴィンは頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪を掻いた。どうしたというのだろう。
はあ、と深い溜め息をエルヴィンがまた吐いた。本当にどうしたのだろう。
「エルヴィン閣下、何かお助けできることはありますか?」
「……うちは大麦と芋を主に育てている。だが、これは領民が食う分で手一杯だ。名産と言えるモノがない。人口より牛のほうが多い。君に便宜を図ろうにも何も図れない」
「……あの」
「父親は先帝陛下の側近だったが、俺自身は今の皇帝陛下とほとんど関わりはない。やはり君に便宜を図ることは出来ない。君は恐らく、皇帝陛下が何故ハルトマン侯爵ディートハルトにばかり肩入れするのかと思っているだろう?」
「は、はい」
「ディートハルトはそういう男だ。あいつを相手にするだけ時間と精神の無駄だ。あいつが絡むと、道理どころか物理法則すらも狂い出す」
「……は!?」
アロイスは思わず素の声を上げて固まった。元義兄である伯爵にここまで言わしめるハルトマン侯爵とは、いったいどのような怪物なのか。
「以上が私からの忠告だ。新ヴァールストレーム公爵殿下。アールデルスは何もない。我が領に何も期待しないで欲しい。どんな形であれ手を組んで利点はない」
「……」
アロイスはうつむいた。拳を握り締め、息を吸う。
ここに来る時に見た美しい谷間の花畑を見た。ちょうど春の芽生えの時期で、美しい色とりどりの花が咲き誇っていた。
「何もない」わけがない。
「何も無いなんておっしゃらないでください。アールデルス伯爵領には素晴らしい景色がおありではありませんか。お城の裏の花畑を見ました。僕は目を奪われました」
エルヴィンが微かに笑ったように見えた。
「あの花畑は我が伯爵家の人間も心を和ませている。お目が高い」
アロイスは今が好機とばかりに笑みを浮かべて言った。
「ハルトマン侯爵領と取引できなくなった分だけ、うちと取引しませんか? 我がヴァールストレーム公爵領はご存知の通り海に面しており、大きな港が複数あります。各地へつながる大きな道も何本も通っている。帝国全土の品、いや、世界全土の人、品、金がアールデルス伯爵領に流れることをお約束します」
ヴァールストレーム公爵領は貿易に強い。
「ほう?」
エルヴィンは首を傾げる。
「今ヴァールストレーム公爵領と手を組めば、芋と大麦だけの生活は終わらせてくれるというわけか?」
「はい」
「我がアールデルス領を買い叩くということでもあるな」
エルヴィンは言った。ほとんど輸出できるモノがない中で輸入ばかりすると貿易の均衡が崩れる。
だが、アロイスは自信に満ちた笑みを浮かべ、緩やかに首を横に振った。
まだ隠し球はある。
人口より牛の方が多い。つまり——。




