第10話 不思議な女だ(アロイスくん視点)
我が領には何もないと言い切るエルヴィンを目の前にして、アロイスは唇の端を吊り上げる。
「ご冗談を。アールデルス伯爵領は人口より牛のほうが多いと閣下は先ほどおっしゃいました。言い換えれば乳製品は大量に作れるということだ。事実、アールデルス伯爵領産のバターは高級品。亡き母も大変好んでおりまして」
ここに来る前、アールデルス伯爵領のことを調べた。
大麦と芋など主食に関しては領民が食べる分しかない。エルヴィンの言う通りだ。彼は嘘をついていない。しかし、開示していない情報がある。
牛が人口より多いと言うことは、言い換えればそれだけ牛肉や乳製品を産出できるということ。
実際、アールデルス領は塩漬けの牛肉や乳製品を大量に作ることができる。それを各地に輸出して儲けている。
アールデルス伯はアロイス父子とハルトマン侯爵とのいざこざにどんな形であれ巻き込まれたくないだけなのだ。
若く父から地位を受け継いだばかりの青年だとアロイスを侮っていたのか、彼の言葉に虚を衝かれた表情をしたエルヴィンは、頬杖をついた。
「話だけは聞いておこう」
交渉が終わると、アロイスは廊下に出てホッと肩を落とした。隣に控えていた重臣のテオバルトに話しかける。
「死神みたいなお方だったな。何とかお話は聞いてくれそうだが」
テオバルトは答える。
「アールデルス伯爵領のバターは美味しいですよねぇ。すかさずそれを突きつけた坊っちゃまはさすがです。しかし、伯爵閣下が本当に慎重なご性格の方だというのがよくわかりました」
アロイスは交渉の前に作成させていた家臣からの報告書を見ながら呟いた。
「ただ、ハルトマン侯爵領と商業取引を停止して、うちがまるまるアールデルス伯爵領産の乳製品を引き取っても、アールデルス伯爵領の経済は冷え込むようだな」
「それは妹君の嫁ぎ先でしたから、その縁もあって、莫大にハルトマン侯爵領と商業取引があったんでしょうね」
テオバルトが肩を竦めて答える。
すると、ふわりと微かに花の香りめいた香りが漂う。アロイスはそちらに目を向けた。
自分の立っている場所とは少し遠い廊下の一角で、焦茶の髪を緩く後ろで束ねた女が、少女と共に花を飾っている。
(……あの女、さっきも見た……)
どうにも現実味の薄い女だ。儚げで淋しげでおっとりしていると言った方が正しいのだろうが。そのせいか、目を引く。
中背で、体は華奢だ。透き通るような雰囲気だが、優しげでしっかりした印象も受けるのは、自分より五歳くらい年上のようだからだろうか。
不意に彼女がこちらを振り向いたので、アロイスは顔を逸らした。
先ほども、花に顔を埋めていた彼女を見ていたら微笑まれて、急に羞恥心が湧き、動けなくなった。
(誰だろう……、不思議な女だ)
アロイスは顔を逸らしながらも、目だけで彼女を見る。
彼女のほっそりした白い指が、花を一輪一輪飾り付けていた。
「坊っちゃま」
後ろからテオバルトに声をかけられた。
「何ボケっとしてるんですか」
アロイスは急いでテオバルトのほうへ振り向く。何をしていたかと問われて、女を見ていたと正直に答えられる気がしない。テオバルトに揶揄われるに決まっている。
咳払いをすると、くるりと女へ背を向けた。
「なんでもない。あと何度も言っているが、『坊っちゃま』はやめろ」
今日は晩餐をアールデルス伯と共にして、一晩泊まって領地に帰る予定だ。あてがわれた部屋へと向かった。
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