終 上弦よ……
神獣は刀に戻って、身体が宙へ投げ出された。冥界へ続く結界を目前にして先に帰っていた一同の手前で僕は転がり、丁度結界のほうを向く。僕の背中側、つまり一同のいる側では、同じように放られたうり姫が容易に着地する軽い音がした。
僕らが飛び出してきた結界は初めから空洞など無かったかのように、単なる岩の壁となって、空洞と同じ形をした窪みが岩に現れている程度だった。周りで声を出す者はこの瞬間までにも出ては来ず。それは虚無のような、呆然とした空気が漂って、僕もまたなんの状況も掴めずにいた。伽藍堂な頭を起こしたのは、背後で寧丸が膝から崩れ落ちたらしい音だった。真っ白な脳内まで響くように流れ込んだ音が思考をようやく覚醒させてくれ、ようやくして今起こったことを知った。
冥界は壊れて入口は抹消し、僕らを残して万は遂に見つからなかった。探す為の道すら断たれ、僕らは現世へ戻された。
そう理解して僕は殆ど感情的に岩壁へ斬りかかり、刀が激しくぶつかった。
「——万」
彼の名を呼びながら傷ひとつ付かない岩を何度も、何度も斬ろうとする。やっと付いた岩壁の傷もひどく些細だった。
「おい、万。開けろ」
刀を振るう腕もやがて荒々しくなり、遂に刀は岩を叩きつける棍棒に成り果てた。最終的に突き刺した先端は、僕が崩れるのに従って岩肌を削りつつ下方へくだる。
「万……」
岩壁に残された白く細い無数の切り傷は、どうしようもない無意味を知らせてくるだけだった。俯いて、また呆然とした思考回路へ戻ったように動けないでいる中、耳にうり姫の声が届いた。
「冥界の神は黄泉。月の神は夜空。神もまた人の運命の如く定められた役目に付する」
万は冥界の神になったから、現世にはもう戻れないと言いたいのだろう。「もうどうすることもできないの?」入佳の声もようやく聞こえた。入佳の言葉にうり姫は何も答えられず、背後から目を瞑っている様子が浮かんだ。
——神は定められた役目に付する。僕は唯一の手がかりとしてうり姫の言葉を反芻した。寧丸が僕を蘇らせる為に、その昔世界に穴を開けられたのなら、今だって何か摂理の裏をかく方法があるはずだった。
「ゆきんこは将来、福の神になるのか」
俯いたままゆきんこに訊ねた。声は淡々としてうまく出せなかったけれど、ゆきんこは聞き取って頷いた。「そうだよ」その声は僕の泣いているだろうという予想に反して、ずっと冷静で落ち着いた声をしていた。ゆきんこはとっくに僕と同じ考えに至っていたのかもしれない。
「ゆきんこが福の神になるのは、誰かがそう望んでいるからだったか」僕は続ける。ゆきんこは「うん」とだけ頷いた。
「成。なにすんの」寧丸が静かに訊く。少し不安がっているように聞こえた——。
☽
月のない夜道は暗く、短い裳の腰部分に深々と刺した提灯だけが頼りになった。山道のわきには結界へ続く獣道がいつも通り敷かれ、万を探しに冥界へ行ったあの日を除いて、ここへ連続して訪れるのも今夜で三日だ。目の前には先日作ったばかりの簡易的な、僕が祠として立てた積み石が今も崩れずに置かれてあった。絶対に崩れないよう、積んだ石は二つまでに留め、適当な枝を四隅に立てかけてある。手前には寄木細工と、その中にはあの日黄泉の国で拾った帯締めが眠っている。両手には蓋をした味噌汁と酒の入った徳利を持って、それを毎日祠へ置きに行った。昨晩置いた椀はいつも帰る際に回収するようにしている。
今宵も新しく作った味噌汁を祠の前に置き、正座して長く祈った。家では僕が食べるご飯の代わりに、万が好きらしい味噌汁と酒を準備して、祠の前では一日中祈りに費やして、遂には一睡もできない日々が続いた。腹も減ったし、何より眠い。それでも僕は祠へ縋るように祈り続けた。
「万。お前は月の神だ。お前が自分をどう定義しようと、僕にとってお前はずっと夜道を照らす月の神だ。だから……」
三日目を超え、四日、五日と変わらず祈り続ける。遂に一週間が過ぎ去っても、空く日はなかった。
「戻ってこい。万」
☽
成の様子を影から覗けば、またあの子は自分で作った祠を前に手を合わせ続けていた。目には隈ができて、一週間が経てば頬も少しこけてきたように思う。ウチはしてはいけないと分かっていながら、その姿と親友の面影を重ね、祈りを十日続けた果てに死んだ彼女を思い出さずにはいられなかった。突然倒れたりしないだろうか。怪奇に襲われたりしないだろうか。成は無意識に、自分の母親と同じことをしているのに、成はきっと気づいていない。誰かに怪しまれないだろうか……。
「寧丸」
うり姫の声がして、背後からやってきた彼女がウチの片手を優しく握った。うり姫の顔がウチの顔を覗いた。
「成は大丈夫」そう言って、ほんのり微笑まれた。
うり姫が口角をあげたことなんてあっただろうか。だけどウチは、その微笑みにちょっと救われた。
「うり姫だって、心配して見に来たんじゃないの?」ウチは悪戯っぽく笑い返してみせた。震えて力んでいた手も少し緩んだ。
——十日目の五月五日。この日は成の誕生日。つまりは、成がウチの開けた穴から降ってきた日だ。今晩も祠の前で祈る成を、ウチはうり姫と一緒に少し遠くから見守る。うり姫の顔は心做しか疲れているように見え、ウチも心配から寝不足気味だったから、なんとなく共感を覚えた。まだしばらく見守っていようか。そんなことを思っていた矢先、不意に誰かが袖を掴む。
「寧丸!」
「うり姫さん!」
ウチの袖を掴んだのはゆきんこ。そしてゆきんこと走ってきたらしい入佳は、うり姫の袖を捕まえていた。慌てていたのか、息を切らしている。
「なに?別に成を止めようなんて——」
ウチが不思議がったところに、入佳が遮って頭を振るう。
「違うの。月が……!」
うり姫は空を見上げる。月はとっくに消えているはずだけどと、ウチも皆につられて夜空を見上げた。
万が居なくなってから永遠に真っ黒だった夜闇の頂上には、細くて折れてしまいそうな月が確かに青く浮かんでいる。しかし月はその形に留まらず、みるみる広がっていく月は周りを青藍に染めて満ちゆく。
そしてウチらは満月の瞬間を見た。
「成」
桜色の少女を呼ぶ久しぶりの声に、その子は驚いて振り返った。月光に照らされながら瓶覗の瞳は成の目と再会し、成は言葉を失った。そして思いきれば、成自ら飛びついて男の服に顔を埋めた。服はみるみる濡れて、嗚咽が静かな夜に漏れた。
「なんじゃ。随分子供らしく泣きおって」
しゃくりあげて必死にしがみつく実の娘に、万は心底愛おしそうな顔して目を細めた。
「ばか……!…………ばか親父っ」
☽
年月が経って、あの日少女が立てた祠の場所には小さな神社が建てられていた。入口にある真新しい朱の鳥居を潜ってみると、落ち葉は全て箒で集められ、更に奥では手入れの行き届いた社が窺えた。
その襖には見事に彫られた瓶覗の満月が、朝日に照らされて輝いている。




