壱ノ壱夜 明けない国
「小娘。」と頭上から声がして、積み上げた石が金棒で崩されてしまった。慌てて頭を上げると、怖い顔をした鬼が僕を見下ろしている。「罪人の意識はあるのか」と鬼が聞く。
「ここは水子が親不孝の罪を償う場所だ。なのに貴様ときたら親を思いもせず、呑気に遊んでいるだけだ」
そう言われても、僕は僕が死んだ理由も親の顔も知らない。なのにどう親を思えばいいのだろう。
「まあ、貴様は無理もない。腹に宿った途端に親と共に殺されたのだからな」
思いもよらない告白に、反射的な声を漏らす。とても小さく消え入りそうな声だった。
「チャンスをやろう。親の死の真相を突き止め、仇を討て。そうすれば罪を許してやる」
「……何がしたい?」
「たかが鬼の気まぐれだ」
そう言って伸びをしながら鬼は去っていく。そして振り返りもせずに、たった一言——。
「また会えるといいな。小娘よ」
☽
この国の名は烏夜国。元々は別の名前があったらしいが、今はそう呼ばれている。日の出がない暗闇の国だから烏夜国、だそうだ。
対して僕は日ノ出成という、この夜の国とは正反対の名前を付けられ、この国に生まれ変わった。気がついた時には齢十三の姿だった。古い家屋で育てられ、見も知らぬ他人がさも当たり前のように僕の家族として振る舞っていた。
「成様。本日もお出かけですか」
血色の悪い女中が聞く。丁度身支度を終わらせた頃だった。
「本日は成様の誕生日でございます。お早めに帰られますよう」
「わかってる」
刀一つを手に取って、足早に家を出る。僕はあまりこの家が好きではない。彼らは僕を家族というが、僕からすれば赤の他人だし、なにしろあの不気味な女中だ。石のような顔にまるで生気のない瞳は、目を合わせただけで背筋が凍りそうだ。
勿論、毎日家を出る理由はそれ一つではない。ただ僕は、復讐の仕方もどこに行けばいいかすら分からない。情けなくも、毎日途方に暮れるばかりだった。
ふと、以前にあの家屋の人から聞いた話を思い出す。
「その昔ね、お天道様がお月様に怒って、岩の隙間に隠れてしまったの。だからこの国は夜明けが来ないのよ」
見上げた空はカラスの羽のように黒く、その中に上弦の月が寂しく浮かび上がっているのみ。
——夜明けとはどんなものだろうか。
烏夜国に朝があったのはもう何百年も前だというのだから、僕ら子供は当然、そこらの老人でさえ朝を知る者はいない。みな、伝説に残された言葉を借りて語っているだけ。
ただ僕は、賽の河原で一度だけ雲の隙間から漏れ出る光を見た事がある。その黄金色の空がそうだとするならば、確かに、もう一度見てみたいものだ。
無数に続く千本鳥居をくぐる。周りに人の気配はなく、暗闇の中で鳥居はほのかに光る。足首まで浸った水面を、水の音を立てつつ歩いていた頃。背後から突然声をかけられた。
「おやおや。殺伐としたご時世、こんな夜道を女ひとりで出歩くとはのう」
帽子を被った男が怪しく笑う。喋り方にしては随分若く見える。
つばを指で抑え、目元を影で覆い隠す仕草は人攫いとかその類を想起せざるを得ない。僕は迷わず刀を構えた。
「名を名乗れ。」
「——万じゃ。『マン』と書いて『ヨロズ』と申す」
つばが軽く持ち上げられ、隠されていた瞳が僕を見下ろす。瓶覗という名の淡い青の瞳が、水面に反射された光でうっすら輝く。
この瞳を斬って逃げるべきか——そう思った直後。男はすっと僕の背後へ目を移した。まるで何か別の気配を感じ取った様子で。
「おぬし、ついてきとる」
「何が——」
「『怪奇』じゃ」
男の目が鋭くなったのを薄気味悪いと感じた刹那――背後から何かが降ってくる音がした。鳥居は木っ端微塵に砕け、地面が壊れ、衝撃で弾けた水溜まりが雨となって降り注ぐ。振り返って僕が見たものは、水面に八本の脚を立てた巨大な蜘蛛だった。顎の牙をカチカチと鳴らし、複眼がじっと僕だけを捉えている。
「あやつ、おぬしの事を知っているようじゃな。ずっと機会をうかがっていたようにみえる」
「知ってるって——?」
「そうじゃのう……あやつは上手く人に化けよる。
おぬしの身の回りの誰かを演じて、お守り役か何かを装っておったんじゃろ」
人——。その言葉に僕はもう一度蜘蛛の目を見た。獲物を狙うその目が、偶然、背筋が冷えていくような誰かの目線と重なった。
「まさか、女中か?」
言っておきながら、自分でもそんなまさかと思っていた。けれどそんな事を呑気に考えている暇などなく、蜘蛛の背中に生えた人骨が一斉に動き始めた。ガパッと頭蓋骨の口が大きく開き、そこから無数の糸が吐き出される。
捕まったら死ぬ。
その気持ちが焦って、自分でも驚く程の反射神経で糸を避けた。しかし、糸は懲りず僕へ襲いかかろうとしている。
「み、見てないで助けろ!」
「ワシはもう腰が弱くてのう……」
「どう見ても若者だろお前!」
糸は構わず一直線に伸びてくる。なんとか糸を切れないものかと慌てて刀を振り回すが、その刀と糸が接触した途端、糸は切れもせずに刀を捕らえた。それはグルグルと巻きつき、僕の腕ごと呑み込む。一秒もかからなかったと思う。
抵抗する間もなくグンッと上へ引っ張られ、その真下では蜘蛛が牙を大きく開けて待ち構えている。
食べられる——それは今まで味わったこともない恐怖だった。手に汗が滲み、薄ら笑みを浮かべるばかりの男を横目に見た。何かを望んだ訳ではない。何をするでもなく面白がって見物しているこの男に苛立っただけだ。
しかし、男は僕の方を見てニヤけた口を開いた。正確に言えば、僕を見ていた訳ではない。蜘蛛でもない。何か違うものを見ていた気がした。
「——さて。そろそろ目を覚ましたらどうじゃ」
また意味不明なことを……そう思った直後、刀を縛っていた糸がなんの前触れもなく、突然散り散りに切り裂かれた。
「わっ」
理解が追いつかないまま、身体は蜘蛛へと落下していく。しかし刀は僕の手に握られたまま自我を持ったようにその身を振り上げ、——蜘蛛を斬った。
「…………ふえ?」




