10話 邪魔
ミンジュと食堂から6階へ戻ると、ユナは自分のデスクについた。
「よし、じゃあ、午後からはこの日本企業に向けたメールの翻訳チェックをお願いできる?」
「はい。」
「それじゃお願いね。私ちょっと別件で離れるね。」
そういうとミンジュは、資料を抱えて、フロア奥へと駆け足で去っていった。
ユナはPCへと向き、資料を受け取ると、
スラスラと誤字脱字、表現の違和感などを相手にとってより的確に伝わるように確認していく。
先程暖かく迎えてくれたグローバル事業部は、先程よりもよっぽど慌ただしく見えた。
社員たちはPCを睨みつけて、凄まじい速さでキーボードを叩いている。
山積みの資料。
鳴り止まない電話。
駆け回る社員達。
日本語、韓国語、英語、中国語。
様々な言語が全方向から飛び交っていて、
まるで6階フロア全体が国際会議のようだった。
(……忙しそうだな。)
ユナはその喧騒をBGMに、黙々とタイピングを続けていた。
「ごめん!佐藤さん!ちょっとお願いがあるんだけど……」
先程まで走り回っていたミンジュが、ユナの元に戻り、息切れ混じりに声をかけてきた。
「?どうかしましたか」
「この資料、10階まで届けて欲しくて……!」
「あ……えっと。」
「エレベーター出たらすぐの総務までだから、多分すぐにわかると思う……ごめん、初日なのに……。ちょっと誰も手が回らなくて……」
「分かりました。エレベーター降りてすぐですよね?」
「うん!ごめんね!たすかる……」
そういうと相当慌ただしいのか、
また小走りで去っていってしまった。
10階か、総務……。
受け取った資料を抱えて、ユナはエレベーターへと向かった。
ユナはエレベーターの中で資料を抱えて、階数表示のランプをぼんやりと見つめていた。
6、7、8、とランプの光が移動していく。
11階以上は基本的に入れないんだよな……。
一般の社員が許可なく入ることが許されない”聖域”。
ユナはその奥に何があるのか、1番知りたくて、1番知りたくないような、そんな不思議な気持ちでいた。
——ポンッ
エレベーターの扉が開くと、10階の総務フロアにたどり着いた。
「……お疲れ様です。こちらの資料はどこに?」
「あ、そこに置いといて。」
「はい。失礼します。」
資料を指定された場所へと置き、振り返ったその瞬間。
————ドンッ
「あっ……すみませ……」
肩に衝撃が走った。
ユナが顔をあげようとした瞬間、視界の端に画面に穴が空くほど見た、あのブロンドの細い髪の毛が見えた気がした。
白い花のような、どこか懐かしさを感じさせる優しい香りが、ユナの鼻を掠めた。
まずい。このまま頭を上げて、それが誰かを分かってしまったら、間違いなく変な声が出る。
ユナは文字通り、心臓が口から出そうな程に跳ねているのがわかった。
オフィスの喧騒が音量を下げるように遠ざかっていく。
やばい……やばい……この人物は……
「……邪魔」
その言葉がユナの耳に突き刺さった瞬間。
心臓がドキリと、完全に動きを止めたような感覚があった。
ユナの耳には社員のタイピング音も、会議で話し合う声も。
全てが消え去り、その2文字だけが鼓膜の奥をかき乱した。
低く唸るような声。
酷く冷たく、何故か少しだけ震えているような気がした。
ユナは恐る恐る、ゆっくりと顔をあげた。
ファンミーティングで見たあの顔。
バラエティで、メンバー達と楽しそうに笑っている無邪気なあの顔。
音楽番組で見たあの微笑み。
9年間、画面上で食い入るように見てきた、どのジュニルとも違う。
厚手のグレーのパーカー、フードを顔が隠れるほどに被ったその奥に映る瞳は、あの天使のような光はどこにもなく、凍てついていた。
それでいてほんの少しだけ悲しそうな様子で、こちらをジッと見据えていた。
「…………ジュ……ニ……」
ユナはその瞬間。魂が半分別世界へと飛ばされていた。
「……?……すみません。これでお願いします。」
「はい。わかりました。」
総務の社員が書類を受け取ると、ジュニルはユナに一瞥した後、何事も無かったかのようにフロアを出て去っていった。
「…………っ……」
ユナは手で口を抑えて、思わず壁に手をついた。
ジュニルに…………遭遇してしまった……。
『ジュニルくんに会っても、びっくりしないでね?』
食堂でのミンジュの言葉を思い出す。
ユナは震える足を踏み出し、歩き出した。
心臓がうるさい。もはや周りの音も自分の足音も聞こえない。
とにかく……戻らねば。
『邪魔』
その2文字は、確かにあの天使の声で再生されていた。
だが、冷淡なトーンの裏に、なにかに怯えてるような声色だった。
あれはジュニルだったのか?
いや、間違いなくジュニルだ。
一万年に一度の奇跡は、さすがに二度も起こらない。
心拍数がさらに上がっていく。
動揺なのか。衝撃なのか。混乱なのか。
それとも————失望なのか。
私には判断できない。
色々な気持ちがぐちゃぐちゃに混じりあう中、
ユナはエレベーターに乗り、6階へと戻った。
「ごめんね!佐藤さん、届けてくれてありがとう!」
ミンジュが駆け寄って、にこやかに微笑んでくれた。
「……あ……はい……」
「顔色悪くない?大丈夫?」
ミンジュは首を傾げてユナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。すみません。」
仕事、仕事にちゃんと戻らないと。
「そっか、そしたら次はこれね。お願いします。」
ミンジュは追求せず、パサリ、と資料を置いた。
「初日なのに全然教えてあげられなくてごめんね。ちょっとバタバタしてて……」
ミンジュは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「ああ、全然大丈夫ですよ。気にしないで。」
ユナは愛想笑いでミンジュに向けて答えた。
その口元はいつもよりやけに引きつっている気がした。
「ごめんね。またちょくちょく様子見に来るから。終わったら教えてね。」
ミンジュはヒラヒラと手を振ると、またその場を去ってしまった。
「…………はあ」
ジュニルに邪魔。と言われたことが何度も何度も反芻してしまう。……余計なことを考えるな。
雑念を消すようにブンブンと頭を振ると、
ユナは積み上げられた書類から、1枚紙を取り出す。
「えーっと……今回の公演では主に繋がる星空をテーマにした…………」
ユナの資料を読む手がピタリと止まった。
視線は、資料の表紙に釘付けになった。
その先にあった文字は
—————— SYNK FIRST WORLD TOUR『STARLINK』
ユナはその文字を見た瞬間、瞬きも、呼吸をするのも忘れていた。
(……ワールド………ツアー……!?!?)




