1話 STARZへの辞令
社会人3年目。25歳。
大学卒業後、新卒で入社した翻訳・通訳会社で、海外書籍の翻訳を中心に仕事をしている。
東京都港区にあるオフィスへ通い、締切に追われながら原稿と向き合う毎日。
昔から語学が好きで、母が韓国人である私にとって、それはごく自然な進路だった。
この先もきっと同じだろう。
翻訳者として経験を積み、少しずつキャリアを重ねていく。
そんな未来を疑ったことはなかった。
———ある日突然、会社から衝撃の辞令が下るまでは。
「来月から、STARZ Entertainmentに海外派遣ね。期間は一応3ヶ月。」
STARZ。その五文字が耳を劈いた瞬間、上げていた口角がピクピクと痙攣しているのが自分でもよくわかった。
「す、スターズ?……って、あのSTARZ?」
上司は顔色ひとつ変えず、淡々とユナに説明した。
「そう。STARZ。聞いたことない?あのSYNKがいる韓国の大手芸能プロダクション。」
SYNKという言葉が出た瞬間、ユナの口元の痙攣がさらに強まった。
知らないわけがないだろう。
SYNKはK-POPファンの間だけでなく、世界的にも爆発的な人気を誇るスーパーアイドルグループだ。
そして————
「1万年に1度の奇跡」と称される中性的な王子様フェイスに、肩幅の広い男性的な骨格。
そして SYNKのメインボーカルとして甘く伸びやかな歌声まで持ち、性格も穏やかで、ファンへの対応も神。非の打ち所を探す方が無理な存在。
”ハン・ジュニル ”がいる。
そう。ここまで饒舌に脳内で語っているが、何を隠そう、アイドルオタクの沼に叩き落とした愛しい愛しい推しである。
「で、でも、私の担当って海外書籍じゃ…。」
「STARZが日本市場向けの事業を強化したいらしくてね。人手が圧倒的に足りてないんだと。」
上司はメガネをクイッと押上げ、
資料をユナへと手渡した。ユナが書類に目を通すと、
そこにはSTARZ Entertainment 翻訳スタッフ 募集要項との記載。
「向こうのグローバル事業本部、日本事業チームへの配属になる。主な業務は日本語字幕の監修、SNS投稿の翻訳、日本向けコンテンツのローカライズ、日本メディア対応のサポート。そして、たまに通訳。」
上司は書類をめくりながら続ける。
「最近はアーティスト活動も海外比率が高いからね。書籍翻訳だけじゃなく、エンタメ分野の経験も積んでおいた方がいい。」
つまり、書籍翻訳とは全くの別物。
シンプルな仕事への不安と、それ以上に渦巻く複雑な感情が、ユナの口を簡単にはい。行きます。とは答えさせてくれなかった。
「いや、待ってください。私エンタメ翻訳なんてほとんど……」
「まあこれもキャリアアップの一環でしょ。君は韓国語も日本語もネイティブレベル。英語だって申し分ない。君以外に適任がいないと思っての判断だけど。」
ぐうの音も出ない合理的な判断だ。
うちは確かに韓国語ができるスタッフは限られている。
だが———
「ちなみに、断ってもいいけど。その場合は君の今後に直接響かないとは言いきれないよ。上からの直々のご指名なんだから。ていうか断る理由あるの?」
上司はあくまで淡々と。むしろ即答で行きますと答えないのが不思議そうにユナに問いかけた。
「それ、脅してませんか……?」
「ははは、何言ってんの。好きなんでしょ?SYNK。折角だから行ってきなよ。部署は違うけどチラッとぐらいなら拝めるんじゃない?」
上司は呆れたように笑っている。
好きとかそういうレベルの話じゃない。
こっちの気持ちも知らずに淡々と話す上司に若干の苛立ちを覚えたが、ひっこめた。
「えっ……なんで知ってるんですか。」
「スマホにカード挟んどいて何言ってんの。それSYNKの人でしょ?まあ、分かってると思うけど変な接触はやめなさいね。うちにも先方にもデメリットしかない。」
上司はユナのスマホを指さした。
(やべっ…)
ユナは咄嗟に首から下げていたスマホを咄嗟に隠したがもう遅い。
「そんなの分かってますよ。SYNKに迷惑をかけるような真似するわけ……」
ユナは上司から視線を逸らし、軽く拳を握った。
当たり前だ。自分のせいでSYNKに何かあれば
全てを終わらせる覚悟だと言うのに。
「はいはい。君のことは信頼してるから大丈夫。で、行くのね?行くんだったら明日までに書類全部提出しといて。」
そう言って上司は扉を開けて去っていった。
静かに扉を閉める音がやけに響いた。
テーブルの上に残るのは研修の書類と飲みかけのコーヒー。
別のスタッフ達が画面を睨みながら、カタカタとタイピング音を響かせているオフィスは、さっきよりも余計に落ち着いているように見えた。
ユナは唇を噛み締め、残された書類の束を睨みつけた。
確かにオタク的にはこれ以上の激アツイベントはない。
仕事として合法的にSTARZの内部に潜入できる。
部署も階もおそらく違うが、
もしかしたら挨拶ぐらいは直接できるかもしれない。
エレベーターでたまたま鉢合わせて、ニコッと微笑まれるという、オタク大発狂イベントが発生する可能性すらある。
ライブで推しと同じ空気を吸う以上の美味しい空気が吸えそうな環境だ。他のオタクからすれば泣いて喜ぶ所ではないほどの。
自分のキャリアにだって箔が付く案件だ。
————でも。
ユナは小さくため息をつき、自分のデスクに腰を下ろして、スマホに挟んでいたジュニルのトレカをふと見た。
天使のような微笑みで手に白いバラを持っている。
バラよりも美しい、1万年に1度の奇跡の顔面。
(やばい……ッ……この天使の顔面が至近距離にいる状況とか絶っ対やばい……ッ!)
ユナは声を殺して悶えたあと、ひとつ咳払いを落としてコーヒーを飲み干し、仕事モードへと切り替えた。
PCのブルーライトがユナの瞳を照らす。
灰色のデスクに、散らばった案件の原稿書類。そして、STARZの出張資料。
(まずは今の仕事。考えるのは後だ。)
ユナは韓国語の案件、英語の案件、両方を捌きながら、STARZ出張のことは一旦考えないようにした。
そんなユナの気持ちは他所に、左耳から聞き慣れすぎた音楽が鳴り響いた。
SYNK の新曲、『Make it』 だ。
ふと気づいて隣のデスクに目をやると、後輩がまるで恋人を見るようなうっとりとした様子で、タブレット画面を見つめていた。
(また見てるのか……この子は。)
「……はあ……リョウ……尊い……」
「橋本さん、仕事中なんだけど?」
ユナは先輩らしく、冷たいトーンで注意したが、そんなことは今の彼女の耳には入らないらしい。
橋本のタブレットに目をやると、韓国の音楽番組で、
汗を振り乱して、力強く踊る黒髪の男が画面に映っていた。
踊っている最中に、ウインクをかましながらニヤリと不敵に笑う姿が、どうやらまたSNSでバズっているらしい。
その顔を不意に見てしまい、ユナの胃がキリッと傷んだ。
「死ぬッ……そんな顔されたら無理なんだけどッ……」
ユナの忠告は他所に、橋本は画面を見ながら顔を赤くして手で口を抑えて悶えている。
完全にオタクモードに入り切った人間の目だった。
(……本当に見る目ないな。この子。)
ユナは心の中で呆れたあと、オタクモードの橋本を我に返らせるように、パンッと手を叩いた。
「はあ、ほら、締切もうすぐでしょ。」
「え〜いいじゃないですかちょっとくらい。先輩はジュニルペンでしょ?見ます?」
橋本は一瞬だけ驚いた顔をしたが、悪びれもせずにタブレットをユナに向けて、ジュニルの動画を既に流していた。
「……ッ。仕事して。仕事。」
死ぬほど美しい顔面と洗練されたダンスを前に一瞬だけたじろいだユナだったが、平静を装って目線を外して、机の上の原稿に手をつけた。
「ていうか先輩聞きましたよ!STARZに出張でしょ!?いいなあ……私も韓国語が出来たらなあ……」
橋本はタブレットを閉じ、タイピングをしようとキーボードに手をかけるが、さっきの会話を聞いていたらしく、ズカズカと詰め寄ってきた。
「……はあ。まだ行くか決めてない。」
「は!?行く以外の選択肢ないでしょ! SYNKですよSYNK!私なら食い気味に『行く』って答えますよ!先輩が行かないなら私が変わりに行きますから!」
先程の静かだったオフィス内が一瞬ビクッと跳ねてしまうような大声が響いた。
橋本は信じられないという顔をしながらユナに向かった。
「声大きい。あんたの専門はフランス語でしょうが。」
「簡単な韓国語ならイケますよ!」
橋本はドヤ顔でサムズアップをした。
「簡単な韓国語で働けるわけがないでしょ。」
ユナはタイピングしながら、
じとっとした目線を橋本に送ると、橋本は不思議そうにユナを覗いた。
「ていうか本当になんでそんな渋ってるんですか?
ほら、お給料もめちゃくちゃいいし!宿舎完備、家賃負担なし、社食まで無料!?うわー手厚……。」
橋本はユナのデスクに置いてあった書類に手をかけて、パラパラと募集要項をながめた。
確かに労働環境自体はめちゃくちゃ良い。
あのSTARZの内部に翻訳スタッフとして携われるということは、翻訳者としての自分にとっても素晴らしいことだ。
それは分かっている……分かってはいるんだけども。
「……別に。絶対行かないとは思ってない。」
「ふーん。3ヶ月間毎日リョウ君と同じ事務所で働くなんて、夢みたいじゃないですか〜!!あ、先輩はジュニルが好きなんだった。」
橋本は悪気なくその名前を口にする。
リョウ、という名前も、ジュニルという名前も、ユナの心臓と胃を交互に攻撃して来るようだった。
「……リョウがいるから嫌なんだよ……。」
ボソッと聞こえないように呟く。
「え?なんか言いました?」
「はあ、もう、いいから!早く仕事!」
ユナが吐き捨てるように言うと、
橋本は口を尖らせながらタイピングを続けた。
夕方、退勤したユナは自宅のマンションで
いつもよりひどく疲れた顔をして、再びSTARZ出張の書類をクシャリと握りしめていた。
その時、スマホの通知がポンッと鳴った。
『なにしてんの』
今まさに韓国出張の判断を鈍らせている張本人、
SYNKのメインダンサーで、唯一の日本人メンバー。高身長で、クールな切れ長の目に都会的でシャープな洗練された雰囲気。黒髪のセンターパートが無駄に色気を放っているあの男。
そして、死ぬほどしつこくて強引な、ユナの3歳からの幼なじみ。
————リョウからだった。
「はあ……」
ユナは返信する前に、リョウはユナがSTARZに潜入することを知った時、どんな反応をするのかを考えていた。
絶対にめんどくさいことになる。
返信を渋っていると、連続でメッセージが飛んでくる。
『おい』『死んだ?』『既読つけろ』
ちょっと返事を返さないとこれだ。トップアイドルは暇なのかよ。
『今忙しい』
それだけ返したあと、追いメッセージが来ていたが、華麗に無視を決め込んだ。
スマホを閉じると、ユナは再び書類を凝視した。
どうにかして行かない選択肢を探すが、どうも難しい。
推しと同じ屋根の下で過ごす幸福と、
あの面倒な男との、
実に9年ぶりの再会を免れないであろう事実。
「余計なことを考えるな。ただの仕事だ。」
そんなことを自分に言い聞かせて、書類に渋々ペンを走らせ、もう一度深くため息をついた。




