70話 現実1
眠れぬまま朝を迎えたレティシアは、白い顔で支度をする。大丈夫だと思いながらも、こんなに不安になっているのは、「連絡鳥が戻ってきた」という親父の言葉のせいだ。だから大丈夫だといえる理由を必死に己に言い聞かせる。
(私がメモを奪ったのが二十日前で、攻撃があったのが十七日前。スファンが私の様子を見に市井に来ていたなら、少なくとも十七日よりも前にメモを受け取っていたことになる)
それなら短くとも逃げる時間はあったはずだ。
ーーもしスファンが市井に来たのが、攻撃を受ける直前だったら?
そんな声が脳裏を掠め、レティシアは表情を強張らせる。
(いや、まさかそんなこと……)
しかし「ない」とは言い切れなかった。世の中「絶対」というものは存在しない。それはレティシア自身がよく知っていた。
ーーあのときすぐにメモを確認していれば、ヴァッセは半日早く動けていたのに。
「……っ!!」
レティシアは頭を振った。嫌な声をかき消すように。重く圧し掛かっている後悔を振り払うように。
(しっかりしろ! 冷静になれ!)
一階層は他の階層とは比べ物にならないほど監視も警備も強い。そもそもメモを奪われてからたった三日で、四家を全滅させれるほどの人員や武器を配備できるはずがないじゃないか。
(こんなんじゃヴァスバード侯爵に知られてしまう。それは絶対に避けないと)
レティシアは頬を叩いて喝を入れる。そしていつも通りの表情に切り替えるたところでノックがして、気難しそうな顔をさらに気難しくしたヴァスバード侯爵が入ってきた。
「……何? 人の顔をじろじろ見て」
「顔色が悪い。寝ていないのなら仮眠でも取ってから」
「必要はないわ。だいたい監視の気配が邪魔で寝られないし」
もう一秒たりともムダにできないのだ。宿でグズグズしていられるか。
「……わかった。ならば出発するが、その前に伝えておく。阻塞が築かれていたということは、北と西は二階層より上は既に制圧されたと考えていいだろう。だから上へ進むのではなく、まずはモンテアーノ家の本拠地がある南へ向かう。そしてもし、南の方でも同様に三下が蔓延っていた場合、その時点で即座に引き返し、王都へ戻る」
「はあ?! 何言ってんの?」
レティシアは目を吊り上げる。
「情報屋でさえ情報を得られていない状況だというのなら、最悪の事態を想定するべきだ。そのくらい、君ならわかるだろう? まだ街が制圧されていなくても三下が蔓延っている時点で、そこを治める一家の力がなくなったということ。制圧されるのも時間の問題だ」
腹立たしいことに司令官をしているだけあって、現状を的確に分析していた。
「だからまずはこの階層の南側へ行き、街の状況で判断をする」
「直接私に危険が差し迫ったわけではないのに諦めろって? イヤね。それに情報屋に情報が入るまでに時差がある。情報がないから危険とは言い切れないわ」
親父が売っている商品の情報源は、情報を買いに来る凶賊たちだ。だから彼らが潜伏している場合、情報がないことだってある。
「レティシア嬢。君の命は君だけのものではない。君がこちらの家族を想うように、市井にいる家族も君の無事を願っているんだ」
「ご高説ね。でもそういうことは育ちも性格もいい人間にしか通じないわよ」
育ちも性格も悪いレティシアは手早く髪の毛を纏めると、帽子を被った。
◆◆◆
休むことなく歩き続け、日が傾く頃には南の入り口あたりだろう街に辿り着いた。今日は日中が長かったうえ、途中の町に三下がいなかったので順調に進めたのだ。ただ順調だったのはここまでだった。
昨日と同じ規模の街に入った途端、やはり三下どもがいたのだ。阻塞はないし、距離は多少あっても常に二人一組で動いている様子から、見張りというよりも巡回に近いかもしれない。
(……たぶんこの街の支配者はまだ生きてて、隠れているな)
こんなわかりやすい野郎を巡回させていれば市民が怯えて街に影響が出かねない。なのにやっているということは、誰かを探している、あるいは追い詰めるために人数を動員しているということだ。ならば南はまだ見込みがある。
あの話は北側の話で、他の場所が攻撃があったのかはわからないんだ。レティシアが無意識に握った拳に力を入れたとき、彼に軽く服を引っ張られた。そして促されるまま脇道に逸れた。
「ここで引き返す」
「何を勝手なことを」
レティシアは目の前の男を睨みつけた。
「これだけ手下が動いているのなら、ここには確実に司令官がいる。それに命令を聞いているのなら、三下でも侮らない方がいい」
「それが何? そのくらいで」
「ーー静かに」
レティシアは腕を掴まれてさらに建物の影に引っ張られた。その直後、男たちの話し声が聞こえてきて、レティシアは息を押し殺した。
「……も人使いが荒いぜ」
「逃したのは自分のせいだってのに」
ところどころ聞き取れた単語からすると凶賊のようだ。声と足音から敵は二人。恐らく巡回中の三下だろう。ひとまず奴らが消えるまでは隠れてやり過ごすことにする。
(……一応顔を確認しておくか)
もしかしたら見覚えがある野郎かもしれないし、知らない奴でも覚えておいて損はない。男たちの気配が遠ざかったところでレティシアは物陰から顔を出し、我が目を疑った。男の一人が手持無沙汰に、クルリと回している細身の短剣。独特な意匠の鍔に柄、そして鞘の装飾と大きな一筋の傷ーー。
「どうした?」
「……あの短剣、見覚えがある……」
「!!」
ヴァスバード侯爵は通り過ぎた男たちを見て、「男たちを追う」と耳打ちした。レティシアは小さく頷くとフワフワする足取りのまま、彼の後ろについて進んだ。
なぜあの男はヴァッセの短剣とよく似たものを持っているのか。いや、ただの似た剣かもしれない。
そんな言葉がひたすら頭の中をグルグルと駆け巡り、気づけばヴァスバード侯爵に建物の陰に押し込まれていた。
「いいか、私が戻ってくるまで君は動くな。ここで大人しくしていなさい」
ヴァスバード侯爵の念押しする声がどこか遠くに聞こえる。路地に消えていく男たちの後をついていく彼の姿を目で追いながら、目の前の景色が自分が見ているものではないように感じていた。ーーゆえにレティシアの体は勝手に動いていた。




