14話 華やかな舞踏会3
「わるつ?」
聞き慣れぬ言葉に首を傾げるレティシアに、あの人は踊りのことだとざっくり答えた。
「まァお前は何も考えず、オレの動きに合わせて、なんとなく体を揺らしていればいい」
よくわからないまま始まった、ワルツの練習。といっても踊る場所は、机やソファーを退かして作った即席の舞台だ。ぎこちないステップだったせいか、不意にかかった遠心力でつま先が床から離れ、小さな体が浮いた。
ほんの一瞬。けれど確かに空を飛んだように感じて、レティシアは声をあげて笑った。
「だー、遊ぶなチビ! オレはこういうのは得意じゃねェんだ!」
そう言われても楽しいものは楽しい。踊りなんて好きでも得意でもなかったけれど、あの人と二人っきりでいられるこの特別な時間が、レティシアは好きだった。
◆◆◆
(久しぶりに良い夢を見た……)
舞踏会という非現実的な舞台に、自分でも気づかぬうちに浮かれていたのだろうか。目を覚ましたレティシアは、枕を抱きしめて再び横になると、夢の余韻に浸った。
今日一日を生きられるかどうかという、レティシアの世界が変わったのはレティシアが五、六歳の頃だ。すでに自分たちの置かれた環境や、理不尽な世界を理解していたレティシアは、金を稼ぐことだけではなく、良からぬ男たちから母を守ることも日課にしていた。頼れる身内も知り合いもいない母は、下衆な男たちにとって格好の獲物だったからだ。
幼いレティシアにそういう知識はなくとも、子どもながらに母を見る男たちの視線が悪いものだということは認識していた。悪い環境で生まれ育ったから、そういう勘が鍛えられていたのだろう。けれどまだ幼いレティシアには、そんな男たちに対抗する術はなかった。
だから母を守る方法として、危ないと判断した男の情報ーー住んでいる場所や家族構成や持ち物、日頃の行動パターンなどを調べたものーーをスリ仲間に教えた。男たちをどうして欲しいとは頼まなかった。そんなことをしなくても、スリ以外の悪事にも積極的だった彼らが何かをしてくれることは明確だったから。
毒を以て毒を制す。これが幼いレティシアにできる最大の防衛手段だった。
こうして母に降りかかるだろう危険を回避して、表面上の平穏を保って暮らしていたのだが、あの日は訪れた。
ただ一人、レティシアの勘では見抜けぬ暴漢がいたのだ。スリ仲間よりもさらに上位の、裏で人を操る立場の男にとって、牙を隠すことなど容易かっただろう。レティシアの知らぬところで母に近づき、そして母を騙したらしい。
『もうすぐお父様が迎えに来るから』という母の口癖が、『もうすぐお父様に会えるわ』と変わったことに違和感を覚えなかったら。
レティシアがナイフを持って母の跡を付けていなかったら。そしてあの建物に窓がなかったら。考えるだけで肝が冷える。
暴漢の目的は母だったのだ。抵抗する母を組み敷いている暴漢を、窓から飛び込んだレティシアが無我夢中で男を刺した。母を助けるために。
気付けば男は動かなくなっていて、母は女として最悪なことになるのだけは避けられた。けれどそれでは遅かったのだ。例え最悪なことは免れても、男に襲われかけた時点で、繊細な母の心はズタズタに壊されてしまっていた。
呼びかけても反応のない母を前に、レティシアは狼狽するしかなかった。
どうしてこの男の存在に気づかなかったのか。もっと早くに気づいて消しておけば、こんなことにはならなかったのに。そんなどうにもならない後悔が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
あのときほど無力さを感じたことはないだろう。母を医者に診せたいけれど、金がない。せめて母を安全な場所に運びたくとも、子どもの力では母を運ぶどころか、体を起こすことすらできないのだから。
どうしていいのかわからない。そんな絶望的な状況の中、あの人は現れた。獣を彷彿とさせる赤茶色の鋭い眼光。ただそこにいるだけで相手を萎縮させる圧倒的な威圧感。あの人を見た瞬間、これまでの男たちとは格が違うことを理解した。そして悟った。
きっと私は今、ここで死ぬんだ。
レティシアは本能的に己の死を認識していた。その場から逃げたい衝動に駆られたけれど、後ろには母がいる。逃げたらダメだ。その一心でナイフを握りしめ、どうにかその場に踏み留まった。
一瞬で死を覚悟するほど圧倒的な強さを放っていた彼は、けれど予想外の行動に出た。動かない母を抱えると、レティシア共々医者の元へ連れて行ってくれたのだ。
「父親はどうした」という問いに、「いない」と答えたレティシアに同情したのかも知れないし、ただの気まぐれだったのかも知れない。確かなのは、あの人がレティシアと母を助けてくれたということだ。ーー残念ながら意識を取り戻した母は、極度の恐怖とショックから正気を失い、レティシアのことを忘れてしまっていたが。
「今日を生きるための飯も家も安全も全てお前に与える。だからお前は明日を生きる力をつけろ」
「あすを生きる力?」
「無知のまま生かしてくれるほど、世界も人間も優しくはない。だから俺はこれからお前に知識を与える。身を守るには武だけでなく、知識が必要だからだ。良いも悪いも全てを知れ。そして自分で見極める目と判断する力を養うんだ。この理不尽な世界を生き抜くために」
子どもにとっては理解するに非常に難しい言葉。けれどその言葉は幼いレティシアの心に深く響いた。他人は信用できなくても、この人なら信用できる。この人はレティシアと母に手を差し伸べてくれた、唯一の大人なのだから。
そしてレティシアは母と共に、あの人の保護下に入った。
あの人に助けられた日から、レティシアの生活は大きく変わった。言われた通り、覚えることも仕事もたくさんあって、決してラクだったわけではない。けれど今日一日をギリギリで生きる生活から、明日を、明後日を考えられる生活になった。それに何より、ずっと独りだったレティシアに、苦労を共にし、悩みを共有できる家族ができたことが嬉しかった。
だけどめでたしめでたしの物語は、しょせん夢でしかなかった。
ずっと続くと思っていたあの幸せな日々は、二年半前、突然終わりを迎えた。何の前触れもなく。理由もわからぬまま家から追放されたレティシアは、二度と家族に会えなくなってしまった。今にして思うと、ファンルドー卿が母を探していることを知って、面倒になる前に厄介払いされたのだろう。あの人は貴族と関わることを敬遠していたから。
「あれからもう二年半か……」
『もう』なのか、『まだ』なのか。あのときの絶望はようやく薄らいできたものの、それでも、あの日の悪夢は今でも頭から離れはしない。
レティシアはため息を吐いてのっそりと起き上がる。まだグダグダとしていたいが、朝食を食べたらラインベール領の邸に向けて出立するので、そんなことは言っていられない。レティシアはだらだらと着替え始めた。




