第21話:心臓破りの計算
「……追いつけるものなら、追いついてみろ」
群馬サイクルスポーツセンターの後半ステージ。カジの大人たちに解き放たれた駆は、下ハンドルを死に物狂いで握りしめ、ダラダラとした上り基調の坂へと突入していた。
メーターの数値は「時速四十二キロメートル」。上り坂であるにもかかわらず、駆は平地のタイムトライアルのような、上半身を極限まで低く伏せたフォームを崩さない。
背後とのタイム差は、下りの奇襲で作った「二十秒」。
ゴールまでは残り約三キロメートル。ここからのカウントダウンは、追うメイン集団の焦燥と、逃げる駆の心肺機能との、一秒を削り合う数字の戦いだった。
(後ろの集団が、下りのアコーディオン現象から体勢を立て直すのに、最低でも十五秒はかかる。その後、追撃のトレインが組まれて、一キロあたり三秒ずつ縮められたとしても……)
駆は頭の中で、自分の残された体力と、集団の追撃スピードの反比例のグラフを冷静に描き続けていた。
一年目のあの重いクロモリバイクで、霞ヶ浦の吹き晒しの強風を相手に、肺から血の味がするまで踏み倒してきた時間が、今、駆のペダリングに圧倒的な「巡航のスタミナ」を与えていた。
しかし、群サイの坂はルーラーの駆の脚を容赦なく破壊しにくる。
じわじわと斜度が上がるにつれ、駆の太ももは乳酸で膨れ上がり、肺の奥は焼けるように熱くなった。
「ハァーッ、フゥーッ、ハァーッ……!」
呼吸の音が、ヘルメットの風切り音に混ざって嫌に大きく響く。
残り一・五キロメートル。ついに、最後の難所である最大斜度十パーセント超の「心臓破りの坂」が、駆の目の前に立ちはだかった。
それと同時に、はるか後方のブラインドコーナーの向こうから、ガシャガシャと何十台ものロードバイクが猛烈な勢いで迫る駆動音が聞こえてきた。
「見えたぞ! 前に一人逃げてる! 追え! 捕まえろ!!」
E3の上位レーサーたちが、E2への昇格の切符をかけて、死に物狂いでダンシング(立ち漕ぎ)をして追い上げてくる。二十秒あった差が、一気に十五秒、十秒、五秒と縮まっていく。
すぐ後ろに、ライバルたちの荒い息遣いと、ギヤを無理やり変速する金属音が肉薄していた。
(……まだだ。ここで焦ってアタック(急加速)を打ったら、俺の足は一瞬で終わる)
駆は、後ろから迫る怪物の気配に背中を凍らせながらも、メーターのワット数を一ワットたりとも乱さなかった。
クライマーのようにヒラヒラと登るのではない。体重をサドルに預け、重いギヤを、鉄のしなりを使うようにじわじわと踏みしめる。機械のように正確なハイペース。それが、追撃に狂奔して脚を使い切った後ろの大人たちの勢いを、坂の頂上付近でガチッと受け止めた。
「クソッ……! 届かない……っ!」
駆のすぐ後ろまで迫った他チームの選手が、あまりのキツさに顔を真っ白にして失速していく。
心臓破りの坂の頂上。駆と、後ろの集団との差は、わずか「三秒」。
残りはゴールまでのわずかな平坦ストレート。
「うおおおぉぉぉッ!!」
駆は喉の奥から血の混じった咆哮を上げ、千切れかける太ももの全出力をクランクへと叩き込んだ。最高速のスプリント(瞬発力)では勝てない。だが、この限界の状態から、長い距離を時速五十キロメートルオーバーで維持し続ける「ルーラーのスプリント」なら、今のお前たちには絶対に破れない。
ゴールラインが、目の前に迫る。
右側から、スプリンターの影が猛烈な勢いで並びかけてくるのが見えた。
――フィニッシュ。
ゴールラインを駆け抜けた瞬間、駆は力尽きたが何とかペダルを回し退避エリアへ向かう。
激しく喘ぎながら、かすむ視線で周囲を見回す。
一着は最後の最後に駆をかわした他チームのスプリンター。
自分の前を流しているのは一人、二人・・・八人。
『着順:九位』
九位。十位以内の、一発昇格枠の一番端っこ。
二ポイントのどん底から始まった計算式が、チームの絆と、霞ヶ浦の風が育てた独走力によって、完璧に証明された瞬間だった。




