第14話 オリビエの介入
パトリシアの懐妊という慶事を受け、ロイド侯爵家本邸には、一人の男が頻繁に出入りするようになっていた。
ラヴァル伯爵家の次期当主であり、ウィリアムの実兄、オリビエ・ラヴァルである。
「ああ、兄上。本日も来てくださったのですね」
本邸の豪奢なサロンで、ウィリアムはどこか緊張した表情で兄を迎えた。
婿養子という立場の弱さに加え、バレリー親子の一件で屋敷の使用人全員から蛇蝎のごとく嫌悪されているウィリアムにとって、実家の兄の訪問は本来であれば嬉しいもののはずだった。
だが、ウィリアムにとって、次兄オリビエは、劣等感を刺激する、苦手な相手だった。
幼い頃から、何事も完璧にこなすオリビエは、常に周囲の注目と称賛を浴びてきた。それに比べて、自分は、何をしても平凡で、兄の影に隠れてばかり。オリビエに勝てるものといえば甘く整った容姿くらいだ。
そんな次兄から向けられる視線は、いつの頃からだろうか、自分を蔑むような、あるいは、憐れむような、冷ややかなものへと変わっていった。
それは、亡くなった長兄の専属侍女だったバレリーが、ウィリアムの閨係となった頃から、さらに、如実になったように感じる。そのバレリーを離れに迎えたことで、兄に対する後ろめたさは増していた。
「体調を崩しがちなパトリシア様の様子が心配でね。それに、我がラヴァル家の血を引く子供が生まれるのだ。伯爵家としても、できる限りの協力をしたいと思って、つい足が向いてしまうのだよ」
オリビエは低く力強い声で、至極もっともらしい言葉を口にする。その顔には、弟を思いやる兄としての冷たい微笑が浮かんでいた。
「兄上はお優しいですね……。みんなが僕を冷たい目で見る中で、兄上だけが変わらずに接してくれる。本当に感謝しています」
ウィリアムは何度も頷いた。彼は夢にも思っていなかった。オリビエが頻繁にこの屋敷を訪れる本当の理由を。
パトリシアが、最近の自分には決して見せない親しげな声で兄の名を呼んでいたことも。そして、そのパトリシアのお腹の内にいるのが、自分ではなく、目の前で冷たく微笑む「兄の子供」であるという、あまりにも残酷な真実を。
オリビエの黒い瞳は、サロンのソファにゆったりと腰掛けるパトリシアへと向けられていた。
「気分はいかがですか、パトリシア様。……少し顔色が優れないように見えるが、私の気のせいだといいのだが」
「ええ、オリビエ伯爵。ご心配ありがとうございます。医師からは順調だと言われておりますわ。……いつもお気遣いいただき、ありがとうございます」
パトリシアは感情を抑えた静かな声で応じる。
だが、その緑の瞳がオリビエと交わった一瞬、そこには生涯消えない背徳の罪悪感と、それを共有する者同士の、ひどく濃密で歪んだ空気感が通い合っていた。ウィリアムの知らないところで、二人の絆はもう、誰にも引き裂けない血の鎖で結ばれているのだ。
そんな歪な幸福の空間に、場違いな足音が近づいてきた。
「ウィリアム様……あ、あの……」
サロンの扉の隙間から、怯えたように顔を出したのは、離れにいるはずのバレリーだった。手には、シリルが庭で摘んだという不恰好な野花の小さな花束を握りしめている。
「奥様のご懐妊のお祝いに、シリルがこれをお渡ししたいと……っ」
パトリシアに拒絶され、力を持つ彼女に怯えきっているバレリーは、少しでも正妻の機嫌を損ねまいと、彼女なりの必死の無力な努力でここへやってきたのだろう。
「バレリー、わざわざありがとう!」
ウィリアムが嬉しそうに立ち上がった、その瞬間。サロンの空気が、一瞬で凍りついた。
オリビエの視線が、扉の側に立つバレリーへと向けられたからだ。
その黒い瞳に宿っていたのは、人間を見るものではない、徹底的なまでの「嫌悪」と「憎悪」だった。
元より、実家であるラヴァル伯爵家において、亡き長兄の歪んだ慰み者にされ、その後は三男であるウィリアムの閨係としてあてがわれたバレリー。オリビエにとって、彼女は自分の実家が犯した「倫理の欠如」そのものであり、弟の愚かさを象徴する汚点のような存在でしかなかった。
自らの意志を持たず、ただ運命に流されるままに弟に縋り、挙句の果てにロイド侯爵家の離れというぬるま湯に浸かって「家族の真似事」をしている無力な女。その浅ましさと哀れさに、オリビエの唇は冷酷な弧を刻む。
「……随分と、品性のないお祝いもあったものだね、ウィリアム」
オリビエの声から、先ほどまでの見せかけの優しさが完全に消え失せていた。
「え、兄上……?」
「パトリシア様はロイド侯爵家を統べる高貴なお方だ。市井の野良花など、万が一にも虫でもついていたらどうする。身の程を弁えぬ無礼は、いくら離れに棲まう身とはいえ見過ごせるものではないな」
冷徹極まりない兄の言葉に、バレリーはびくりと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔でその場に跪いた。力を持つ者たちの前で、彼女はただ怯えることしかできない。
「あ、兄上、そんなに言わなくても……バレリーには悪気はなくて……」
ウィリアムが慌てて庇おうとするが、オリビエの放つ圧倒的な強者の威圧感に、それ以上言葉を続けることができなかった。
「悪気がないからと言って、許されるわけではない。弟よ、お前がその無力な女を甘やかすから、こうして本邸の調和が乱れるのだ」
オリビエは一歩歩み寄り、床に伏せるバレリーを見下ろしたまま、吐き捨てるように呟いた。
「……哀れなものだな。自分がどれほど底なしの沼に沈んでいるかも分からずに、まだ温もりを求めているのか」
その言葉は、バレリーの無力さを残酷に抉り出すと同時に、実の兄にすべてを奪われていることにすら気づかない、ウィリアムの「決定的な無知」への、極上の皮肉でもあった。
「ウィリアム様、もうおよしなさい。オリビエ様の仰る通りですわ」
ソファから、パトリシアが冷ややかに二人を制した。
「バレリー、その花は侍女に渡して、すぐに離れへ戻りなさい」
「は、はい……っ。申し訳ございませんでした……!」
バレリーは涙を流しながら、逃げるようにサロンを飛び出していった。ウィリアムは声をかけることすらできなかった。
「すまない、パトリシア様。不愉快な思いをさせた」
オリビエは再び、完璧な貴族の微笑みを顔に貼り付け、パトリシアへと向き直る。
「いいえ。いつも我が家のために『適切な処置』をありがとうございます、オリビエ伯爵」
パトリシアは静かにお腹を撫でながら、微笑を返した。
兄上は優しい。兄上は僕たちの味方だ――そうに違いない。言いようのない不安が湧き上がってくる。そう自己暗示をかけながら、ウィリアムは傷ついたバレリーを慰めるために離れへと急いだ。




