己呂武反而
降出した小雨も生暖な灯ともし頃、息も吐かずに駆上ってきた足と腰に、暫くのあいだ、休息を与えた。雨傘を忘れた帰道の高低差は、元町公園の、長い石段。半分ほど登った所でだった。タクシーを待たなかったのは間違だった。
駅のタクシー乗場には、十五人ほどの列が出来ていた。並ぶのは煩しかった。
それに、電車から降りたときに、トロリとした空気を、頬の回、首の回に感じて、季節は春なのだと、今更のように知られた。何ということもなく、その辺を寄道したくなった。歩くことに決めた。
何年振かしら、石川町で降りたのは。朝は、山手から乗る。帰も、最近では、もっぱら山手駅。学生時代には、石川町から歩いて帰る習慣になっていたのに。今では、山手から、タクシーに乗って帰る。良い按配に、バスが来ていれば、バスにすることもあるけれども。
今日は、電車の中で、ぼーっとしていて、つい、昔の習で、ひとつ手前で下車してしまった。タクシーの列には加らずに、駅前の商店街を、元町の方に歩出した。
すぐに、右に曲った。
向うの角には、郵便局。何処の町内にでもあるような郵便局だけれど、私にとっては目印。左に曲る。
此処から裏通り。
石川町の「駅前商店街」は、大通りと交差して、そのさきからは、「元町商店街」に、名が変る。「駅前商店街」と「元町商店街」に、ずーっと平行している通りが、この裏通り。石川町の駅を使っていた時代には、人混を避けて、大抵、此処を歩いたものね。様子は、ちっとも変らない。
軽トラックが通る。白塗に横文字のバンが通る。ワゴンが通る。近所のお父さんが、自転車を走らせる。籠を提げたお母さんが、八百屋の店先で話込む。一本隔てた商店街では、日々、新に、店店が入れかわり、生れかわるのに、陰になった、この道は、昔と変らない匂。使古されたゴムチューブの臭。魚を焼く匂。花びらが腐掛けている匂。熱した食用油の臭。線香の匂。色々な匂が懐しい。
大通りを、「本牧通り」といったかな。裏通りづたいに歩いてきて、「本牧通り」を渡るときに、賑な方を見やったら、雑踏する交差点。元町側には、マクドナルドが出来ていた。石川町側には、タワーレコードの看板なんかが見えた。
「本牧通り」を横切ると、私の細道は、元町に入ってゆく。此処からは、「元町商店街」の裏通りになって、元町の街を縦断する。
小さい神社がある。裏通りからも、更にひっこんだ場所にたっている。昔、何年も、毎日毎日、前を通ったけれども、一遍も、立寄ることがなかった境内に、今日は入ってみた。小学生が、六人で、メンコをしている。「厳島神社」というのね。知らなかった。
周辺を、暫くのあいだ、散策。坂道があるので、登始めたら、全然見覚のない坂は、何処に出るのかも分らない。だいぶ暗くなっている。帰宅の道につくべく引返す。
又、裏通りをゆく。駅から、「厳島神社」まで歩いた距離を、もう一行程歩く。
右に曲る。
じきに、元町公園の森が見えてくる。
ウィンドーショッピングかしら。ぶらぶらあるきかしら。楽しむ群衆の声。彼らと彼女らの靴底に踏まれてゆく路面の響。
何処へ、そう急ぐのか、何を、そう急ぐのか、苛立たしげに鳴らし鳴らされるクラクションの音。
さっきまで聞えていた、そんな、諸々の音が、急速に遠ざかってゆく。私は、歩く方向を、右に変えてから、まだ数十歩しか来ていないのに。別空間に入ったような静さに包まれる。
左にゆくと、長い石段が現れる。長い石段が、森の中を登っている。元町公園の森の中を。上は山手。外人が、「ザ・ブラフ」と呼んでいる丘。私は、力を蓄えて立止った。
呼吸を調えているときだった。
ぱらぱら降ってきた。
前触なく来た。暖い雨が。
勢良く踏出した。
憚る人目もない。大股で、一気に駆上る。
今の今まで、そんな気配もなかったのに。タクシー乗場の行列はこれだったのね。
額に、雨が、汗のようにヌルリ。息が苦しい。このまま登れそうにない。そう思うと、脚に、力が入らない。やっぱり駄目。ちょっと太りすぎかしら。運動不足で、私も、これじゃ英文法。
見上げると、風が起って、頭上の枝枝を掻乱す。目を閉じる。葉伝う雨音しきりに落ちる粒を、顔の面に受ける。遠く、ひとつ、発車音。11番バスのエンジンの唸。この時刻になると、丘の上は、人影も疎。一日賑った山手通りは静まりかえっているに違ない。雙葉の子達が、笑いながら帰っていったのは、だいぶ前らしい。彼女達の、高らかに谺する笑声が聞えない。今、もしも、通りを歩いている人がいるとしたら、傘をさして、食後の散歩をするブラザーとシスターだけ。
広くもない公園は、人家が、すぐ其処まで迫っている。だのに、バスが走りさったあとでは、人事の音が、はたと絶える。風の音が聞える。聞えるのは風だけ。風が、頬を掠める。耳朶を掠める。心を痛くする何かがある。花の匂だ。風に運ばれてきて、人を愁殺する。瑞香の香に、仄な玉蘭。入交じって、春の思を誘う。玉蘭は恨の色。瑞香は傷む色。妖精らよ、顧みよ。私が行く先々に、天上の香を漂わせてよ。滋子は、深く、深く吸う。そのとき、胸に、新しい力が動出す。ヒュペリオンが、冬籠っていた磐戸を押開いて、再び、恵を降らせば、緑の新芽が、一斉に、脈を打始めるように、私の胸にも、新しい力が動出す。いやしを与えられる。
ぴしゃりと、瞼を、太く、重たく、生暖い滴に打たれる。目を開けると、あたりは、一段と暗くなっている。普段、恋人達がむつがたりする、あちこちのベンチに、人影はない。闇の黒い目が、しげみの中の活動を始めない前に、木木を潜り、雨粒を払い、路を急ぐ。
山手通りに出る。横断して、セント・ジョセフ脇の急坂に差掛る。礼拝堂の十字架に、一瞥を遣って、そして、坂下を見たときに、坊の姿が、目に入った。丁度、坂が、右に折れて、其処からさきは、下が見通せなくなる付近で、電柱に、半ば隠れて蹲り、側溝の中を覗込むようにしている。
「大丈夫?」
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
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