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己 呂 武 反 而   作者: youtube.com/watch?v=acpBYGp97zk
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美 人 説                                   


挿絵(By みてみん)


折しも生あたたかな小雨が降りだした火ともし頃、元町公園の木木をくぐってセント・ジョセフの急坂に差し掛かった。由加里は登ってこぬ

   2006年3月12日、横浜市中区山手、外人墓地は目と鼻、歌に歌われた港の見える丘は歩いて5分という所にわたくしはいる。この小高い丘の上を、明治期ここに移り住んだ外国人は、ブラフと呼んだ。断崖絶壁を意味する。こんにちの山手は、建物が視界を塞ぐいっぽうで、何を指し「断崖絶壁」と云うのか、ぴんと来ない呼び名ながら、例えば百、いや、百二十年百三十年前のこの日この時刻、雨が降らなかったと仮想する。うそ寒い春の一日が終わろうとして西の空の雲間より入り日がさす。桜はまだつぼみの、わずかに散りのこった白梅がさかりの過ぎた香を漂わす夕暮時、たまたまこの場所にたたずむ者があったとしよう。ちょっぴりうら悲しくて花やいだ気分にひたっていた佇立者は、かっと照らし出される東の方角へ目を転じる事をしたかもしれない。眼前に東京湾を見、20キロばかり水を隔てた対岸、姉崎(あねさき)・袖ヶ浦・木更津・君津(きみつ)富津(ふっつ)と、房総半島沿岸にあって、現在ではそんな地名で知られる嘗ての漁村やら、宿場やら、港町やらが、恰も暮靄に浮かぶかに眺められる

   或いはそうで無かったか。目の前は岩が転がり地がうねり、その上、松の疎林が邪魔して、やはりこの位置では見通しが利かなかったろうか。それならそれで結構、どっちにしたって話は同じだ。幾らか動けばよい。歩数にして五百か六百、そんなものだろう、岸壁がたへ近づいてみよ、必ずその者は今思い描いたとさまで変わらぬ映像を目にした。というのは、もともとこのへんは東京湾へ突き出る高台だったので、「断崖絶壁」としたのは正にその通りなのだった。時代が新しくなってもブラフの名称は外国人居住者の間で用いられる。Bluff No.85、と書けば、わたくしが足をとめた地面を指す。日本式には、山手町85番地

   言うように最近では物が建って、指摘されないと海を控えている事実さえ忘れるくらいだ。ヨーロッパ風の邸宅が集まる住宅街のそこここに、喫茶室とレストランの類が店を構え、アクセサリーだのおもちゃだの小銭入れだの、ちょっとした何かを売る店屋が看板を掲げ、教会が建ち、マンションが建ち、マンションが建ち、お堂の尖塔が聳えたち、見上げればアラベスクに張った電線が頭上を覆い、マリンタワーの赤が目に染み、歩を移すにつれタワーはビル隠れし、公園があり、庭園があり、マンションがあり、墓地があり、十字架が立ち、塔婆が立ち、マンションが建ち、学校があり、また学校があり、宿泊施設もあり、劇場もあり、近代文学館もあり、テニスコートもあり、駐車場もあり、となるほどバラエティーには事欠かない街並みであるけれど、しかし何と云っても山手の名物は洋館だ。わたくしは此処85番地にいて、直ぐ其処に「エリスマン邸」を見ている。無料で中を覗かせてくれるそうだ。「山手111番館」「山手234番館」「ブラフ18番館」「外交官の家」「イギリス館」「ベーリック・ホール」 ・・・・・・ これらも料金が掛からないと、駅でもらった案内書に書いてある。ほかにも、ただとは行きかねるが一般公開中のものに「山手資料館」があり「山手十番館」がある。前者は、字のごとく山手の昔を懐古したい人の為の品々を陳列する。十番館の方は、これはそもそもレストランであるにつき、飲食する人に限って入館を認めている

   山手はまた女の子の街だ。平日は二度、朝と夕と、駅を中心に丘の上一帯へ掛けて蟻の群れかと惑わす女学生でにぎわう。「駅」とは、降りたら窓口で洋館案内を手に入れたい、JR根岸線石川町の駅に外ならない。恐らく一度や二度は耳にされた覚えがありはしないだろうか、俗説に従えば、日本国に存する駅舎で女学生の利用率がナンバーワンであり、子供時分よりそう説かれていたとわたくしも記憶する。わたくしは説を支持するものの、ここで注意したい点は、旧の石川町とだいぶ違った、と云うのがつまり、彼女らの傍若無人ぶりの行き届いたことで、物は試しだ、ひとつ呆れてみる。ちょいとこんなんだ。制服姿の子がひとり、ホームへ続く長 ~ い階段を登る。登る。登る。胸に感ずる曰く言い難い面倒臭さは、おのれの脚すらもうざいと聞こえたげな、不貞腐れたみたいに引きずる踵の音でも察するにじゅうぶんであるが、その大きななりだと高校生だろうか。ようやっと登ってざッと見渡す。ちょうラッキー!ベンチがあいている^^ つかつか寄る。荷物を放り出す。どっかり腰を下ろす。しばし踏ん反り返る。思い出した様にかばんを引き寄せ、何はさておき携帯(電話)を調べる。そいつを仕舞う。かばんを脇へやる。いま少し踏ん反り返る。心ゆくまでそうしたら、うざったそうに、もう一遍かばんを引き寄せた。手を突ッ込んでゴソゴソ言わせている、のは、やがて出てきた手鏡、並びに女の子の七つ道具、お化粧が始まるのだった

   ベンチの向こう端、人が聞くのも知らず顔で携帯(電話)の相手に艶笑小咄を披露するミニスカートばきの蛮カラさん、で、一応はそれが制服である建前だ。この際、はいた物のちぐはぐさ加減は問題にしない。するだけ野暮、今や制服にユーモアの要素を取り入れているのは山手も山形も無い、国じゅうがそうなっちゃったのである。それはよいにせよ、あの小咄ばかりは感心できない。なぜと云うのに、昨晩の逢瀬は敢えて避妊法を用いるを快しとせず、なんどのコンテンツを発信するばやい、衆人環視の中でけらけら笑いこけて言い散らそうとは、たとい時代の寵姫となったジョシコーセーでも、親の名、学校の名を辱めかねない不行儀なやり方だと断じざるを得ないので、そういったことは、おなじ携帯(電話)を使用して発信するのにしても、うちに帰り、二階へ駆け上がり、自室に閉じ籠もり、鍵を厳重にし、押入れに奥深く隠れ、ひそひそと発信するのが、含羞初々しい破瓜乙女の発信マナーなのである。その発信器と来た日には、ぴこぴこ響く信号音の絶え間なさにつけ、学生の癖に皆どんなようがあって片時も手放せないらしくするのか、未だに自宅の黒(の親子電話)で間に合っている人間には見当が付かないけれども、嬌声さんざめくホームの着信音会話音ぴこぴこ音と云い、発育期に出す旺盛な体臭と云い、体臭がシャンプーの安香水と混ざり醸される一種独得の蒸気と云い、登下校の時たるや、風景は各位に御想像願ったら善いとして、そう云うふうである彼女らを除く、これは特別に身持ちが良い方の、優等生が通う学校を数校挙げるとすれば、たとえば共立学園と云うのがある。フェリス女学院がある。それと、横浜学院があった。女子商業学園と云うのもあった。雙葉学園の名は外せまい。まだ他にあるかしら。とにかく、それだけの生徒が毎朝ひとつ丘の上へやって来る。『山月記』『李陵』の作者中島敦が英語教師をしていた ─ 校名を何と云ったか ─ も山手にあったと聞く。そうした狭い、丘の街を、メイン・ストリートと云うべき、一筋の道路が縫って走る。山手本通りと云う。その正規の起点と終点とを知らない。エリスマン邸が見える此処85番地を暫く行くと、結婚式で名高い山手カトリック教会に至る;確か、門前に ・・・・・・ 古い記憶だもので自信はないが、門前に「山手本通り」を標示する案内板が出ていたように思う;今、仮に教会付近を起点と定め、港の見える丘公園のバス停を終点と考える。およそ千メートルの道だろうか、うねうねとして絶えず蛇行しながら、とくに大きな曲がりが二つあるのを、先ず二つ目を記せば、外人墓地の入口あたりでグイと、港の見える丘へ方向を右にとる曲がり。そして一つ目が、わたくしのいるセント・ジョセフ、85番地の曲がりだ。ここでは通りが左に湾曲する。横断歩道が渡してあり、そのあっちが元町公園、こっちがセント・ジョセフ、わたくしは先ほど、公園の木木をくぐり横断歩道を渡ったわけで。見れば、ここをてっぺんに急勾配の坂道がおりている。セント・ジョセフの急坂に差し掛かったと書いた、その坂道だ

   ところで、セント・ジョセフと云うのは今はない。正式名 Saint Joseph College は、1901年、フランス人マリア会修道士の創立になった。男子のみの学校である。多く外国人子弟が通い、美術家のイサム・ノグチや宇宙物理学者ヤーマード・ゲッチャム博士らの学んだ校舎は、同時に修道院の役割をも担った。日本で布教する宣教師が共に寝起きし共に祈るカトリックの道場だった、と云う一面を併せ持っていたとするなら、生徒のための寄宿設備等が兼用されていたとしても、それは当然そのはずで、またいきおい、そこに暮らすイルマンは、宗教生活を営むかたわら教壇に立ち、学科の教授にあたったので、ながく山手にとどまる事にもなったようだ。再び故郷を見ずにこの地で歿した者も少なくない。骨は外人墓地に眠る。敷島のやまとの國のさ丘べにとはにいねむと誰が思ひけめ。2000年5月、最後の卒業生十三名を送り出すと、学校は閉鎖され、やがて、寮であったベーリック・ホール以外は残らず解体された中に、往時、坂上に立っていた小さなチャペルが在って、日曜日の朝など、横浜港に寄った船員が、信心家なのに違いない、とんがり屋根に頂かれた十字架を仰いで足をとめる。ふと門を見入れれば、自分と同じ目鼻立ちをしたお坊さんがてんでんに立ち働く。船乗りは鐘を鳴らす。お参りさせて欲しいのだが、と案内をこう場面にしばしば行きあわせたものだ。そう云う、鐘を鳴らさんがごとき信仰篤き客人は、帰りしなに蜂蜜の入った小さな壺を、お土産にと手渡される

   今は大きなマンションが在る。従って、この坂を指して云うには「大きなマンションの急坂」とするのが正しいのだろうけれども、便宜上本書では「セント・ジョセフの急坂」と呼ぶことにしたい。1983年頃、確かにセント・ジョセフの脇をおりる坂道だったので、滋子の日記にもその名で出ている。1983年3月22日夕刻、滋子はセント・ジョセフの急坂をくだりつつあった

   滋子とは、第2章『己呂武反而』の書き手だ。姓は鎌田、当2006年をもって四十八才、この時間、京都大徳寺に近い実家にいる。重い病にかかって寝ている。1958年の12月2日に、滋子は京都で生まれた。山手に育ち、青春を山手で過ごした。暮らした家は以前のままにしてある。実は、わたくしが向かっているのもその家 ・・・・・・ 坂をおりて、昔どこぞにしまったと云う一冊のバインダーを、本人の依頼で探しに行く


これまでの所をひとわたり話して置くべきだろう

   あれは1992年のこと、正月、京都消印の年賀葉書が届いた。私は驚きもし、うれしい気もやましい気もし、なつかしくもあった。長い間消息が知れず、すっかり忘れている人が差出人になっていた。それが滋子だった。会いに行きたいような気さえした。なぜなら、昔可愛がってもらったのである

   両親がキリスト教徒ゆえ私は幼少より教会に通っている。今は結婚した。結婚と同時に東京の教会へ籍を移す以前、独身時代は、川崎にある、信者数二百五十を越える比較的大きな教会に居、そこでは、両親は古参信者の部類に数えられていた。一番の古株に鎌田氏がいた。鎌田家は脩太郎(しゅうたろう)と妻延子(のぶこ)、それに娘の滋子、の、三人

   私が滋子を慕うようになったのは小学生だった夏の事、彼女は七つ上の高校二年生で、来年の秋、つまり高校三年生の秋、米国東部の高等学校へ転ずる、との噂だった。一年間ホームステーする。それに向けて、本人も家族もちょっとずつ準備しているらしかった。勿論、お若い読者はホームステーなど珍しくも何ともない。けれども当時の世の中を思いだすなら、今日と違ってインターネットがいまだ影あって形なく、メールなる便利粗雑な通信手段は影も形もない。国際電話は人を青くさせる請求書が送付されて来た。女の子が一人でホームステーしに行くとは、ざらにある話で無かった。間違ったら御免なさい、聞けば(元)衆議院議員のT・M子氏にその御経験がおありだとかで、事実ならば成るほど氏の自在な英語力にも合点がゆく訳であるが、猶そのこと以上に、T氏の場合滋子よりも時代が一つか一つ半ぐらい前の筈だとすると、これはいよいよ、花も恥じらう乙女の単身渡米が、周囲の人々には大した冒険のように見えなかったろうか。氏の(頼もしい)度胸の良さは昨日今日に始まった事で無いのかも知れない

   と云うことで滋子の度胸も大したものだった

   こんな事があった....... 私が彼女と仲良くなる、その切っ掛けにもなった、私が小学校の四年生、彼女が高校二年生の夏休み中の、まだ滋子と云うものをよく知らない頃の出来事。「お姉ちゃん程の女の人は」と、じきそうなったように、彼女にのぼせているとは、まだ云えない。けれども、彼女はずうっと年上の、私の目には大人であり、しかも大層上品で優雅な大人であるに違い無い。もし向こうが構って呉れるのなら、そうして貰いたい気がないことはない。慕うと云う程でない。ぼんやり憧れている。彼女に対してそのような心持ちでいた時分のある日曜日、朝両親に連れられて教会へ行き、礼拝式が終われば、例によって大人たちの茶飲み話が始まる。われわれ子供は近くの公園に集まって隠れん坊したりキャッチボールしたりなにかする。親が迎えに来るのをそうして待つ約束になっているのを、教会に十人ばかりいる女の子は、皆小学校低学年か幼稚園以下、と云う訳で、大抵男の子を遊び相手にして、午後の小一時間、その日も四五人の仲間と「缶蹴り」に興じて駆け回っていると、ひょいとそこへ現れて「ナオちゃん」と声を掛けたのは、白いワンピースを着、腰へ届く長い髪を三つ編みに、青い造花を付けた麦藁帽子を被る滋子だ。ありありと目に浮かぶ。日に焼けて泥んこになった自分と好対照に、彼女は着ているワンピースよりも白く見えた

   「ナオちゃん、これからお姉ちゃんのうちに来ない。お父さんとお母さんも行ってらっしゃいって、そう仰っているからいいのよ」

   性来私はハニカミ屋で人見知りが激しく、その上素直な方でもなく、本当は嬉しくてもうんと云えない。「お母さんに聞いてみる」と云い捨てて教会の方へ歩きだした子に、「ナオちゃん待って、お姉ちゃんも一緒に行く」

   滋子が追い付いて手を取った。人に手を握られる理由を持たない自分としては、何だか唐突のように感じられて、無口を決め込んだまま、大人たちが茶を飲む建物の中へ入っていった

   延子に、母が慇懃に礼を述べていた

   「滋子ちゃん、宜しくお願いね。この子は強情でなかなか聞かないから、いつでも叱ってやって頂戴」と云った意味の事を云いつつ、離れて椅子に掛け莞爾と腕組みする脩太郎に小刻みなお辞儀を送った。後になって考えるのに、鎌田夫妻の発案だったに違いない。その晩は泊まって滋子のベッドで一緒に寝たし、延子お母さんは夜食にパンケーキと温かい牛乳を持ってきてくれたし、明くる日はわざわざ脩太郎おじさんが自動車を運転して家に届けてくれた。それはまあ、それとして、今私が語ろうとするのは、その日曜日の午後、滋子が住む山手へ行く途中で起こった事件についてだ

   駅へテクシー、手を引かれて行った。覚えている事は、道々あれこれ話し掛けられた事;丁度来た電車に飛び乗ったら、ひとつだけ空いた席に私を掛けさせた彼女の目は吊り革の高さ、小腰をかがめて又も色々と話し掛けてきた事;話し掛けられた事実は覚えているけれど、中身はとっくに忘れてしまった。あまり口を利かなかったのは確かだ。何せむっつりして機嫌の取りにくい子だった。でも滋子は、そう云う私のハニカミ屋を見透かしたのか、嫌な顔一つしないで、寧ろ黙り込めば黙り込むほど、顔をよせて微笑む。缶蹴りで乱れた頭の毛を直して呉れる。服に付いた泥を払って呉れる。「ナオちゃん暑かない」「ね、暑かない」と繰り返し聞かれた気がする。その度に首を横に振っていたが、てっきり山手まで乗るものと思っていたのに、突然「ナオちゃん、おりましょう」と手を握った。横浜で降りるのらしい

   あの頃、駅に隣接する店舗群にどんな名称が付いていたか覚えていない。こんにちでは駅ビルと云っている。電車を降りると、横浜駅の駅ビルを見て歩いた。でぱちかへは行かなかった;洋服屋と名の付く洋服屋を残らず覗いた。今と違って、親切気丸出しに纏わり付いてくる店員は例外的と云え、割合気軽く物を見ることが出来たように思う。玩具屋にも入った。お猿がナイトキャップを被ってシンバルを打ち合わしている前で立ち止まった。外国の絵本を絵解きする滋子に、本屋の隅にあって注目した。そんな事やなにかで一二時間ぶらぶらした。売店に寄ったとき、滋子は苺牛乳の瓶を渡しながら「ナオちゃん、もう直ぐお誕生日でしょう。お姉ちゃんがプレゼントして上げる」と云った。私はびっくり。よそのお姉さんが、なぜそう云う事をして呉れるのか。どうして誕生日を知っているのか。お姉さんと少しばかりの話ならした事があるものの、いきなりバースデー・プレゼントするというのか。相手の思惑を測り兼ねる一方、それにしても可愛げの無い、私はひねッこびれだ。人の歓心を買おうと一生懸命なお姉さん、お姉さんの戦術に落ちずじまいなのも情け知らずみたいゆえ、「ほんとう?ありがとう!」

   思い切り芝居がかった笑顔を作った。今日はうんと子供らしくするんだ。そう決めた。滋子が尋ねた:お店に欲しい物がなかったかと。さっき見た可愛いサンダルが欲しい、と私が答えたので、何とも云えない顔をした。満面ほころばかして頬擦りする。私は笑い声を立てた。自分も嬉しくなった気がして

   滋子は長身だ。(一体、鎌田家は脩太郎も延子も皆大きい。)さっき母は教会でお愛想を言うとき、彼女を見上げていたし、その彼女に抱きすくめられたら、ひとたまりもない。抵抗するにも体格の差が大である。身動きが取れぬ。けれども、そうされて嫌ではない。かえって心地よくさえ感じられる、そのわけは、滋子というお姉さんがもった不思議な徳のせいだ。私に笑い声を立てさせたのも、彼女の徳がそうしたので、あんな風に抱擁されると、先方の心がじわじわ浸透してくる。嬉しいような気分になって笑いが込み上げる

   子供を可愛がるうち、感極まる。抱き寄せて無闇に頬擦りする。そこいら中くちづけする。これも癖らしくて、私以外の者もこれでやられた。皆彼女が好きになる。数十年を経た今でも、滋子の抱擁癖は変わらない

   さて我々は履物屋の客になった。滋子が店員さんに云って、私が選んだサンダルを箱に詰めさせ、箱はプレゼント用の包装紙に包んでもらった。仕上げに緑色のリボンを結んだ。包みを手提げの紙袋に入れて店を出る時に再び私は滋子の手を握った。ナオちゃんに書くバースデー・カードを探すから、もうちょっと付き合ってねと耳こすりして、そうして店を出るが早いか、背広を着た男が近づいた。大股の、非常な速力で迫るので、私は足が竦んだ。歩を合わせながら付いて来る。三人横並びになって、「何してんの」と訊いた男を滋子は一遍向いたきり、無言で行く。きっと口を結んで一直線に進む。三十歩ほどして通せん坊された瞬間、方向を変えようと手を引っ張ったものだから、危うく私は転びかかった。紙袋に足を取られそうになった。プレゼントが入った紙袋を手に提げていたので。躓かなかった代わりにそれを放した。滋子が拾い上げる、ナオちゃん行こうと又踏みだす、男の手が滋子の肩へ掛かる、漸く動きが制止される。そのまま我々は連行され、彼女の左肩へ男が手をのせた恰好で、二人交番の客になりに行った

   さて椅子に座らされる。前には机。向かいに交番付きのお巡りさんが掛ける。背広の男はお巡りさんの横に立って、滋子は蒼白な顔で黙秘する。若干目を伏せ気味に、眉根を寄せて殊更瞬く。その瞬きと云うのが、ひどくゆっくりした ─ 何かの確かめとして都度に意識を集中させるような ─ 開いては閉じする映像が、今、私の脳裏にはある。受けている不当な扱い、彼女にしてみれば不条理だった、に、抵抗する現れが、あの時の瞬きだった。大の男が交替で尋問する。何を訊いても答えない

   「ねえ、教えてよう。」今度はこっちに質問を向けて、お巡りさんが作り笑いをした。「うちはどこ?」

   隣を見上げると、尚も瞬いている。ここは黙る場合なんだろう。自分も蒼白な顔をする。「困ったねえ。お巡りさんは君達が心配だから聞くんだぞお」

   「帰してください。悪いことはしていません。」目を伏せたまま滋子が言った

   「帰すよ」と背広。「それは帰すさ。かわいい顔をしたお嬢ちゃんが突っ張んなよ。だから二人で何をしていたか云え」

   「買い物をしていました」

   「あの店でか」

   「そうです」

   「お父さんとお母さんは知ってんの」

   「知っています」

   「何を買った」

   「・・・」

   「住所は」

   「山手です」

   「山手のお嬢ちゃんか。二人はどんな関係」

   「姉と妹です」

   「姉妹でもってショッピングと云うわけか」

   「はい」

   「うちに電話するよ」

   「どうぞ」

   「ぢゃあね」とお巡りさんが引き取った。「ここに住所と電話番号、それから君達の名前、それだけ書いてよ。いい?」

   滋子は澱みなく書いた。出された紙と鉛筆を使って、云った通り、住所、その下に電話番号、最後に「鎌田滋子」「鎌田なほみ」と並べて書くのを見た。背広はそれを持ってどこかへ行った。戻って来るなり「ぢゃ帰っていいよ。ご苦労さん」



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中間部は改訂中


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   京都には四日間の予定で来たのを延長して、私は二月の十七日より十日間、滋子と共に起き伏しした。予約を入れてあったホテルもやめ、滋子が寝る座敷の真上に当たる二階部屋で寝た。ヤエベニシダレの庭が見下ろせる。こうなる前、滋子が使っていた部屋だ。ヘルパーさんには続けて来て貰ったけれども、食事は私が作った。一度N病院へも付き添った。まだ入院する段階では無い。手術をして治る病気で無く、薬の投与を拒む以上、やりようが無い。N病院は総合病院で、設備だって整っている。しかし、規模は大きくない方だ。K病院やF病院のような大学病院へは行きたがらない。大勢に顔を見せるのが嫌なのだ。どうせそれに、と彼女が弁解するのに、N病院で検査するのもFで検査するのも診断は同じだから・・・いつかママが診て貰った時、Fの先生がそう仰っていた・・・N病院は看護婦もみんな親切だし・・・あたしFは好きぢゃない、と、駄々をこねてセカンド・オピニオンを求めに行かない。外出は滅多にしない。またそんな状態でもない。どうしてもと云う用事が出来たら、タクシーを呼んで柿葺きの門へ寄せさせ、サングラスをかけマスクをする;私がN病院へ引っ張って行った日もその要領で出掛けた。延子お母さんには一人で会いに行った。と云っても、私を覚えてはいず、あんなに話し上手だったお母さんが、黙りこくって酷く不機嫌だった

   滋子は宗教を捨てたか。捨てても不思議はない。敢えて聞く事をしなかったから言えないが。1992年の再会後、信仰のことには立ち入らぬよう彼女も私も話は避けていた。座敷へ、ベッド、テレビ、ラジカセのほかに、仏具が運び込まれている。床の間と違い棚のあいだ、天袋の下に、小型の厨子を置いて、中に象牙様の、黄味を帯びた光沢を放つ愛らしい十字架を、三本、それぞれ高さが違って、大中小と並べている。朝、彼女と冬のオリンピックの閉会式を見ている時だった ─ 考えてみれば、1992年はアルベールビルの年で、あのオリンピックは、私は現地でI・Mり選手が舞う様子を見たのだったけれども、それから数えても既に十四年がたち、今、お香の煙が籠もる座敷に居て、日本選手団のパレード行進の模様を二人で眺めているとき ─ 厨子の事で先週来聞きたく思っているのを察して、滋子は画面を見つめたまま、胸元に金メダルをさげ目深にキャップ帽を被ったS香さんが肩車にさられた形を目で追いながら、言った:一番大きい十字架は父ので、その次のが自分の‥‥‥今から自分のをああしておくのだ;母は最後になるだろうから、その時はナオちゃん、どうか母のも一緒に立ててやって頂戴、と。ベッド下が広い引き出しになっているのを開けるように云って、「奥に小さい木箱があるでしょ。箱の中を見て欲しいんだけれど」

   蓋を取ると、滋子のと同じ、中ぐらいの十字架が袱紗にくるまっている。「それをママの為にね、パパとあたしの間に入れるようにして。それからあの一番小さいの、あれはあたしが生まなかった子供の為、あたしの子袋の為よ。あたしったらこんなになっちゃって、子宮をひとつ無駄にしたわ。赤ちゃんは生める時に生んでおくものね、あたしのようになりたくなかったら

   「ナオちゃん頼まれて呉れないかしら。東京に戻ったらお願いしたい事がある」と最前より枕元にあった封筒を渡した。便箋らしき紙切れと、鍵と思われる金属が入れてある。「地図に書いたんだけれども、いっぺん行ってもらえないかしら。昔の山手の家の近く」

   二週間後の3月12日、夕刻、こうして私は元町公園の木々をくぐった。山手本通りを渡り、小雨の降りだしたセント・ジョセフの急坂に差し掛かったのである



坂 を 下 だ っ て


ゆけば『北方小学校』につきあたるはずだ。滋子はこの瀟洒なマンションが建ったことを知らないらしい。地図では、坂道の右全部を『SJC』としてある。Saint Joseph Collegeの略だ。と云う事は、遅くも2000年5月以降 ─ セント・ジョセフが廃校になって以来 ─ 彼女はこの坂に来ていないのだろう。今、右側は、瀟洒なでっかいマンションになっている

   さて、坂下に丁字路が見える位置まで降りて来たら、なるほど、道路の反対側は小学校と覚しい門と建物が見える。地図の『北方小学校』に間違いない。校門上方へ掲げた道路標識で、その名が確認できる。山手は何度となく訪れたけれども、この坂を下だるのは初めてだ。傘を閉じる。ぱらぱら降り出していたものは直ぐにやんでしまった

   小学校。正門。もうこの辺は「山手町」でない。電信柱を見ると「諏訪町」である。それも道理、山手とみんなが云っているのは、今降りてきた坂のウエ、あの丘を指して云うのだ。ここは山シタ。めざす家はしかし「山手町」の番地だ。滋子の地図を見るとそうなっている。本当に「諏訪町」に「山手町」の番地の付いた家が有るだろうか。地図は古いのかも知れない。町名の変更があったかしら

   北方小学校はキタガタだろうかキタカタだろうか。黒い石のプレートに刻字した門標、それには「横浜市立北方小学校」とだけ。振り仮名が無いのは好きなように読んでくれろと云うことか。あるいはホッポウ小学校か。漢字は困る。近年また漢字を有り難がる風潮が拡がったのはどう云う訳だろう。漢字検定と称するゲームさえ出来た。漢字をどっさり覚えた偉物方が、あまり覚えなかったお馬鹿さんどもを、やんわりとどやしつける仕組みがあの遊びだ。....... あなたもうんと頑張って一級をお取んなさい、われわれ偉い日本人の仲間に入れますよ、漢字を知らないお馬鹿さんたちを見下せますよ。え?そんなに字を覚えて何の役に立つかって?いや、だから偉い日本人になって日本的でない愚か者どもを‥‥‥ええ?違くて何のイミがあるかって?あなた。そういうね、馬鹿げた問いを発するものではありません。そらあ、字なんか沢山覚えて何の意味があります、意味はありませんよ。意味のないことを頑張ってする、そこに意味があるんでしょう。それが文化ってもんでしょう、芸術ってもんでしょう。モネの睡蓮に何の意味があります、モッツァルトのスィンフォニーに何の意味があります。生誕二百五十年、そもそもスィンフォニーはモッツァルトの本領でないんです。スィンフォニーを聴くならベートーヴェンが‥‥‥ええと、何の話だっけ、そう、だから漢字ですよ。漢字を記憶する事は非常に有意義です。だってそうでしょう。中国の人が知らないような字を我々日本人が覚える、我々日本人にしたって一生に一度使うか使わないかみたいな字を覚える。そうすれば一級に合格できる。単純明快、簡単なことなんです、すごいねえ。論語を読むんだって漢字を知らなくちゃならないでしょう。罪を悪んで人を悪まず、これは孔子の言葉なんです、すごいねえ、孔子様の曰うことは。それなのにどうも、近ごろ中国ときたら。日本には日本独自の風習がある、独自の文化がある。中国の方々にも孔子の言葉を勉強して頂きたいですねえ、一言ニシテ以テ終身之ヲ行ナフヘキ者有リヤ。其レ恕カ!己ノ欲セサル所人ニ施スコトナカレ~、すごいねえ。過チテ改メサル、是ヲ過チト謂フ。小人ノ過ツヤ必ス文ル、和シテ同セス同シテ和セス、官カラ民ヘ、官ニ出来ヌコトハ民ニ、由ラシムヘシ知ラシムヘカラス、汝知ルヲ知ルト為シ知ラサルヲ知ラスト為セ、是知ルナリ、論語にありますよ。だから字を覚えるがよろしい。....... 私が知る人でも文字が得意な向きは得てしてこんな話をしたがるが、何を隠そう、わが夫が経営する学習塾は文字のけんていばになっている。ポスターがそこいらぢゅうに貼ってある。便所の扉にまで貼っている。となると通って来る子供が字の事ではやかましい訳である。一昨々年、講師の一人が急病で休んだとき、わたくしが代理を勤めることに相なった。五年生、算数のクラス、授業の前に名簿を読み上げる。中に「廉村」と云う姓がある。私はこれを「カドムラ」と読んだので忽ち子供の尊敬を集めた。今までに教わった新任講師で正しく読めた者が無かったそうな。ところがその後がいけなかった。「倫子」と名のつく子が一人、呼ばれるのを今か今かと目を輝かして待っている。私はこれを「トモコ」と読んだ。「へっ!やっぱり間違った、先生も読めないんだね」「何て読むの?」「さあ、ねッ」とせせら笑いに付されたことだった。(後で夫に聞いて「ノリコ」と読むのだと教わった。)「倫子」ちゃんに馬鹿にされ、最後に「山崎」君を「ヤマザキ」君と云ったのが命取りになった。「違います、ヤマサキです!」廉村君が与えてくれた高得点も帳消し、気のせいか知らぬが、ここ十年ぐらいでヤマザキさんハマザキさんナカジマさん達は、みな申し合わせたようにヤマサキさんハマサキさんナカシマさん達になった。或いはその方が本当で、例の『細雪』を著したのもタニサキ・シュンイチロウだった可能性がある。『李陵』を著したのはナカシマ・アツシだったろう。そうかと思うと、アサイ・ナガマサと読むのは無学ゆえの読み方で、学問のある人間はアザイ・ナガマサと読む。してみれば、タニサキ・シュンイチロウはサザメユキの作者として今後知られることだろう。ナカシマ・アツジにはザンゲツキがあった。夫は戸籍上、単に「町太郎」であり、「町」の字はどう読もうが読む者の勝手だ。(彼は「マチ」と読んでいる。)文字ばかりが大切で、オトはどうでもよい。流石は日本人の字、すこいねえ。いやいや、でも「山崎」は「ヤマサキ」でなくちゃいけない。文字ばかりがどうでもよくて、オトは大切、簡単なことだ、こすいねえ‥‥‥ええと、何の話だっけ。ひとつ山崎くんと倫子ちゃんに学校の名前をおせえて貰いましょうか、キタカタ?キタガタ?ホッポウ?ホクホウ?

   道草を食ったようだ。だんだん暗くなってきた。北方小学校の時計が五時半になろうとしている。先を急ごう

   滋子(シケコではない)の地図に従って、小学校の裏手にまわる。右に公園。どこにでもありそうな、ありふれた公園、の奥に、巨大な石碑、が立っているのは、きっと『竹越與三郎の石文』と書いた石文だろう。道路の反対側は『サンモールに登って行く坂』。すると坂下に見えるあれはサンモールの裏門だろうか

   小学校のうらがわは緩やかなのぼりになっているのを百歩ほど行けば、読みは知らない、町名が「千代崎町」に変わる。そこで右へ曲がる道がある。曲がって直ぐに保育園があって、左へ又だらだらと登り坂がつづく。電信柱を見る。再びこれより「山手町」、滋子の地図に間違いは無いようだ。何にしてもしかし、いささか複雑な地理ではある



滋 子 の 家


1982年12月、フィアンセ小林伶門(れいもん)が入院すると、滋子は教会を離れた。我々は彼女を見なくなった。説明らしい説明がなかった。「二人の結婚が取り止めになりました」との知らせと、「拠無い事情で鎌田さんたちは京都へ戻られました」とする言葉のみを、牧師は告げたのだったが、鎌田家をも牧師をも気の毒に思った我々は、余計な事を尋ねようとしなかった。書いたように、牧師は伶門の叔父だ

   牧師の二つ目の言葉は三分の一だけ誤っていた。滋子は京都へ行かなかった。そのまま山手に残った。山手の新居に移ったのである

   読者は話をヤヤコシく感じられるか。ここでまとめよう ─

   滋子は山手の大きな屋敷で育った。伶門が入院すると時を同じくして鎌田家は山手を引き払い、京都へ移った。(移った先が大徳寺の家=ヤエベニシダレの家、だった。)ところが滋子は一緒に行かなかった。伶門との生活に入るはずになっていた家が、ほかに一軒、存在したのだ。上に云う「山手の新居」がそれで、京都へは行かずに新居で暮らし始めた。まさかそんな事だと我々は知らなかったし、牧師さえも詳しくは聞いていなかったらしい。二十四年前の十二月、彼女は二十四才の誕生日を迎えて数週間だった。今、私はセント・ジョセフの急坂を下だり、小学校の裏を歩いて、或る家の門前にやって来た。「新居」の門前にである

   滋子に渡された封筒の鍵を出して、地図をしまう。鍵は三本入っている

   門に巻いたチェーン。番号に合わせて外す方式だ。番号は地図に書きこんだので、道すがら覚えてしまった。しゃがんで番号を合わせる。手元が暗くて骨が折れる、それに、錆びついてダイアルが回らない。傘も邪魔だ。ひとつ気掛かりなのが、電気は来ているか。明かりが無いでは中が真っ暗に違いない。また出直さねばなるまい。懐中電灯までは考え及ばなかった

   「鎌田さん?」と出し抜けに浴びせ掛け(ゃあがっ)た。後に人がいる。私は身が縮こまって奇声を発したろう

   「お宅どなた?」

   年は五十恰好、細身の男が見下ろしている。私は云った:鎌田さんの使いで物を取りに来たのだと

   「ぢゃあ、こないだの晩来てたのも貴方(あーた)?」

   こないだの晩?いつないだの晩か。京都に移り住んで以来、滋子はここを空家にしていると聞いたが。たまに東京に出てくる用があって、そんな時は宿所に使ったそうだけれども、今はあんなだし、セント・ジョセフがマンションになった事を知らないようでは、随分前の話に違いない。施設に入った延子お母さんが来たのだとも考えにくい

   「この間の晩て、誰か訪ねて来たんですか。いつの事ですか」

   「十日ぐらい前だったよ、十一時すぎ、明かりが点いてたもの」

   「中の明かりがですか」

   「そう」

   筋向こうに住むこのYさんの談では、今月の一日だったか二日だったか、屋内で飼う犬が二階の窓辺で吠えて、いくら言ってもやまない。どうしたかとカーテンを脇へ寄せて見た。すると、この()の二階、ポーチ真上の角部屋に明かりが灯っているのが、鎧板(よろいいた)をすり抜け周囲をぼうっと浮き上がらしているのだと云う。Yさんが越して来て二十年、人が出入りするのを見たためしがない。鎌田さんに会ったことがない。空き巣狙いを疑ったけれども、奥さんが、あれは鎌田さんが帰って来ているのかも知れない、と注意した。もし奥さんの云う通りなら、一面識もない自分たちが通報するのも考えものである。まあ今晩は放っておこう、朝になったら見に行こう。それに、隣近所であの明かりに気が付くだろうし、中には鎌田さんを知ったうちがあるんだから、でしゃばって自分たちが心配する事もあるまい。で、翌朝来てみた。門はチェーンがぐるぐる巻きついて、中に人のいる気配がない。後で聞いて回ったが、皆あの明かりに気づかなかったらしい

   「お宅鎌田さんと親しいの?」私はそれほどでもない、ただの使いだと応答した。Yさんは「ふうん」と気どった。ずっとこのまま空き家にする積もりか、それをYさんは知りたいのらしい

   「余計なお世話と思うか知れないけど、こう長いこと人が住まないとねえ。何しろ二十年前の世の中ぢゃ無いんだからねえ。要するにさあ、一番心配してんのが、その ・ ・ ・ あのさあ、お宅さん急ぐ?用が済んだら寄ってよ、お茶いれんから。話を聞かして欲しいんだよねえ ・ ・ ・ 」

   Yさんが立ち去るのを待ってチェーンを外し、私は門を押し開いた。(どこかで見たような人だな、と話を聞いていたが、よく思い出してみると、歌舞伎とオペラと論語とエルヴィスが大好きで、自転車とサングラスが似合う代議士にそっくりなのだった)

   門は、錆びている割りに動かない事は無く、案外滑らかに開いた。私の背丈を凌ぐ、重い鉄製の扉だ。灰褐色をした石造りの門柱に、ただ「Kamada」と大理石の白い札を埋め込んでいる。門の外に立てば、建物は大方隠れてしまう。むかし訪問販売を試みて、ベルを鳴らす身になったら、ここほど無愛想な構えも珍しかったのでないか。目に入るものは一階の外壁。そこに一枚の窓ガラス、その端っこだけが見える。あえて鎧戸を取り付けてないのは、覗き窓にするのだろう。門の中へ踏み入れると、コンクリート敷きがポーチまで導く。コンクリートの帯が緩く曲がりながら、庭内をはしる。子供がキャッチボールできるくらい、長方形の庭だ。長い辺に面して家は立つ。ポーチと対角をなす、長方形のあっちの隅に、ひともとのハナミズキが植わって、かたわら大きな犬小屋が朽ちたような倒れ方で打ち捨ててある。私は庭に立って見た。正確には、コンクリートの上に立って見た。草が荒れて足のふみどとて無い。立って家を眺めた。赤味がかったタイルで葺いた屋根に、煙突をちょこんと載せる、古めかしく感じさせる家だ。造りは確からしい。四隅の支えはしゃんとしている。全体の色調は濃い灰色だけれども、本来のもので無さそうだ。Yさんの言葉が正しいとするなら、人が住まなくなって二十年間、土埃に晒され顧みられない上、又一つには垣内に光を入れない造作も、建物の印象を暗いものにしている原因なのかも知れない。日が沈んで相手の顔が見分けにくいのに、ここは一段と暗い。どう云うものか垣根がバカに高く、外光を遮らんばかりに結いめぐらしてある。隣家は、かろうじて二階の軒先が覗くのみだ。つる草が壁面をつたって煙突にはいかかる。屋根の一箇所、タイルがとれたか、それとも陥没しているのか、ちょっと判別しかねる窪みが見える。鎧戸のペンキは大部分剥落して木地が露出。残らず閉ざしてあるのが、うち何枚かは傾いでいるので左右合わない。隙間が出来た為に中のガラスが僅かな残光を返している。ポーチを駆け上がったら玄関だ。ここも問題なく開けられた。鍵穴の中で鍵が勢いよく回る。持った傘を立てかける。予想通り中は真っ暗。思ったような黴臭い臭いはない

   純然たる洋館だ。日本式家屋だと上がり框で段差を設ける。低い位置にいる者が高い位置へ「上がる」わけだけれども、ここはそんな風に造ってない。上がるのでなくて「入る」。ドアステップが内と外とを隔てるばかり;高さの違いはない。無論、床が庭よりも高い。そうで無くては雨が降る度に水浸しだ。屋外と屋内との高低差は、ポーチを登る高低差に等しい。洋式住宅と称するものが多い中、こう徹底したのは、今では横浜でも少ないのでは。むかし滋子が父母と暮らしていた広い屋敷 ― 同じ山手の ― あれも洋風は洋風だった。けれども玄関で靴を脱いで「上がる」点、結局は日本の住宅だったろう。ついでに書けば、ここはドアが内側へ開く。つまり押して入る。玄関の扉を押すと云うのも、しなれない動作だ。云われて見るとあの鉄の門も、押して開けた。鎌田氏が中古で手に入れたと聞く物件、もともと外国人の普請であろうか

   ドアを入って内側にマットを敷いている。開閉の邪魔にならないようにと、脇へ寄せてあるが、以前は外に出していたのだろう。転居する日、中へ入れた。或いはそうで無くて、マットの上で靴を脱ぐのかしら。ざらざらする床の上を、私はそのまま入ったけれども

   入ると云って探り足で進む。何も見えはしない。手で壁のおもてを撫で回す。にょきにょきとツマミが突き出る壁。明かりのスイッチと思って一つはじいてみる。ブレーカーが下りているらしい。Yさんの目撃談を信じるならば電気はおッと危ない。爪先が物に当たって蹴躓くところだった。とほぼ同時、反射的に伸ばした手が何か掴んだ。手すりだ。階段がある。....... これは諦めるより仕様が無いようだ。ブレーカーの在り処など分かりっこは無い。それとも、コンビニエンス・ストアで懐中電灯を買って来ようか。お店があったかしら。こんな時、山手の丘は非効率的な丘だった。ちょっとショッピングするにも元町まで下りて行かねばならぬ。子供の時分、鎌田邸へ出入りする用聞を見かけたっけ。それは昔も今も同じなのだろう、途中コンビニエンスめくお店を見なかった。これから元町へ行って来ると云うのも、あまり気の利いた話でないなあ、億劫だなあ。読者各位にはここまで(回り道を含めて)辛抱強くお付き合い願った関係上申し訳ない事だけれども、ひとまず引き上げて、後日出直そうか。建物の外観もとくと見ておきたいし、今度は明るい時間にしよう。....... そう決めかけた。その時

   どうにも出来すぎたストーリー展開することではあるが、光が射し込んだのである。そうして、こう云ったTPOの約束通り、後方で明かりをかざしたのは、誰あろう、我れらがKさん!また間違った。そうでは無い。Kさんなのでは無く、Kさんに大変似ているだけだ。その時、背後より明かりをかざした人、それは、誰あろう、Yさんその人なのであった!両の手に懐中電灯をさげて、門の所で会ったとおんなし、雪駄履きで現れたよ

   こんな事だろうと見に来た、とYさん。擦れ違いざま一本寄越した。心得たと云わぬばかり、廊下伝い壁伝いあっちを照らしこっちを照らしずんずん行く。あったあったと声がする。と、奥の一間が明るくなった。ダイニング・テーブルを置いたので食堂と知れた。目尻にも光を感じて振り返ったら、ポーチの外灯が灯っている。緑色の敷物が目にとまる。最前のドアマットだ。赤い字でWelcome to Beau & Annie's と縫い取りされている。やがてわたくしは食堂のかたへ意識を集中した;しきりに聞こえる:雪駄の音が。わたくしは滋子の為に憤った。云ってみれば、見ず知らずの男に土足で踏み込まれたのだ。彼女は男の草履履きやら雪駄履きやらをみっともないと嫌った。私だって好きでない。いけてないと思う

   へえ、へえ、と感心する声、棚だの引き出しだの開けるらしい。Yさんに来て貰わなくてよかったのである。それこそ余計なお世話と思いたいくらいであるが、しかし私は気の小さなお人好しだ。文句を言うのにも先ず詫びないと安心して言えない質で


A:す・み・ま・せーん ・ ・ ・ ちょっと来ていただけませんでしょうか


Y:なに


A:せっかく助けて頂いたついでに、と云ってはなんですけれども、ひとつお願いしたい事が ・ ・ ・


Y:いいよ


A:この番号に電話して「中に入れた」と伝えて頂けませんでしょうか。〈天野、滋子が書いた地図を取り出す〉


Y:誰に電話すんの


A:鎌田滋子さんといって、この家の持ち主なんですけれども ・ ・ ・ 滋子さんに電話して「入れた」と云って、それから、「番号を知らないから、装置の番号を教えて欲しい」と、そう云って頂けませんでしょうか。私が掛ければいいんですけれども、ちょっと試してみなければならない鍵があるし ・ ・ ・ 滋子さんに渡された鍵があるんです


Y: ・ ・ ・ (?Y?) ・ ・ ・


A:ポケットフォンがあれば良かったんですけれども、持たない主義だものですから。〈これは本当です、嘘ではありません〉


何だって構わない。出任せを云ったのだ。そして地図を突きつけた。Yさんは私が喋った意味も、内容も、理解出来ない顔をした。無理もない。喋った本人さえ何の事だか分からない出鱈目で。とは云え滋子の名を口にしたのが奏功した。地図を手に、Yさん、何の事だか分からぬまま、エグジットした

   出て行くや否や、客間に入ってピアノの屋根蓋を上げた。茶色の小型グランド、スタインウェイ社だ。滋子が言った通り、黒いバインダーがピアノ線の上に載せてある。バッグに仕舞って客間を出、奥の食堂に入った。食堂の隣は台所になっている;勝手口付きだ。勝手口の扉上にブレーカーが見える。下ろすと再び中は懐中電灯の明かりになった。点けっぱなして忘れていったらしい、それもバッグに放り込んだ。玄関に引き返して、戸締りして傘を持つ。ポーチを駆け降りればコンクリート敷き。門まで来た、表に出た、門を閉じた、チェーンをグルグル巻き付けた、そうしてYさん宅のベルを押しに行った

   Yさんの家は道を隔てて斜め左、Yさんの二階なら、高い垣根が切れている門扉を越えて「新居」の二階が見えるだろう

   奥さんが出た。続いてYさんが出てきた、ポケットフォンを持って。Yさん語らく、....... 今そっちへ行こうとしていたが、どうも変だ。向こうは小林を名乗る男が出て、こっちで鎌田さんの名を云ったら「鎌田さん?鎌田さんがどうかしたんですか」と怪しむ口振りだった。状況を説明したくてもあーたの名前を知らない。もう一遍あーたから掛けて貰うから、とそう断って、今携帯(電話)を切ったところだ。.......

   「すみませんでした。もういいんです、探しているものが見つかりましたから。後で公衆(電話)から掛け直します」

   懐中電灯を返した。拍子抜けしたか、それでもお茶を飲んでゆくようにとYさんは迫った。訂正:勧めた。奥さんも一緒になって勧めた。ここにおいて私は、お茶の接待に与る羽目になったのである

   「鎌田さんておいくつ?」応接間へ通されお茶を運んでくるなり奥さんが尋ねた。Yさんの質問責めにあっていたが、なかなか奥さんも好奇心では負けていなかった

   「そうですね、見たところ四十四五だと思いますけれども」

   と胡麻菓した。言うほど親しい間柄でなく、頼まれた物を取りに来たのだと答えた。(キリスト信者だからって何でも正直に答える訳ぢゃありません、当たり前ですが)

   「おきれいな方なんですってね。この辺ぢゃ噂になってたって。ふたつ隣のEさんは実際に話をしたことがあるって云いますけど、あんな綺麗な人をナマで見たことがないって。結婚もしないで、ひっそり隠れるようにして暮らしているんでしょう?みんなでカクレタ・ガルボさんてあだ名していたそうよ?今も一人でいらっしゃるのかしら」

   私はそうらしいと返事した。Yさんは構わないからウチの(電話)を使ってくれと云った。私はそろそろ失礼する、行く所がある、と云った

   「本当にウチのを使ってよ、かまわないからさあ。小林さんにはすぐ掛けさせるって言っちゃったんだから。滋子さんにも掛けた方がいいよ」

   とまあ、思うようにわたくしは新居が見られなかった。バインダーは、滋子があると教えた場所にあって、それを引っ掴むなり出てきた。かかった時間は秒単位のものだったろう。二階へは上がりもしなかった。一階の客間と食堂、それと台所。覗けたのはそれきり。客間の次に何かあるらしく、客間がわと廊下沿いとにそれぞれドアが取り付けられていた。廊下を隔ててもドアがあったが、あれはきっと浴室だろう。結局、使った鍵は玄関を開けた時の一本のみ。封筒に三本入っていたのだけれども。何の鍵だったのか分からずじまいだ



川 崎 へ


セント・ジョセフの坂を下だった所の丁字路、「北方」小学校の門のそばに、確か横浜市営バスの停留所が見えたっけが、そこで乗ることにして、五十分前に来た道を逆に辿った。日はとっぷり暮れている

   停留所の前へ来る。見れば、それは20番バスのだ。道路のこっち側、小学校側に立っているのが、山手行き、とすると、あっち側に立っているあれは横浜行きの筈である。ならば横浜行きにしよう

   このあと私は川崎に行く。小林牧師を訪ねるのである。滋子に二つの事を頼まれている。今、一つ済ました。一つと云うのが、彼女の家に行ってバインダーを取って来る事だった。牧師の所では二つ目を片づけたい。バスが来た

   来てハッと気が付いた。滋子の地図を返して貰い忘れた。電話を掛けて呉れるように頼みながら渡した紙切れ、なんともぼんやりであれをYさんの手に残してきた。実はあれに、牧師宅の電話番号が書いてあった。今日、家を出る時、牧師に何年ぶりかで電話した。首尾よくバインダーが見つかった場合、なるべくならその足で牧師に会いに行きたかったので、予め先方の都合を確かめておこうと、古い手帳を繰って調べた電話番号を、黒でダイアルするまえ地図にメモした。Yさんが滋子の積もりで掛けた相手は、ところがどっこい川崎に住む小林牧師だったので。さぞ二人はとんちんかんな遣り取りをしたことだろう。番号と云えば、あの地図にはもう一つ番号が書き入れてあった。それは私が書いたので無くて滋子が書いたのだ。門に巻いたチェーンの番号。まあ、チェーンはそのうち取り替えに行かねばなるまい。錆び付いて外れなくなる前に

   それと、バスの行き先も違っている。横浜駅に行かないで、埠頭に向かうらしい。運転手に聞いたら路線が変わったとか。以前、このバスは山手駅を出て港の見える丘公園を経由し、横浜駅へ行っていた。小学生の私が滋子に連れられて乗るのも、考えてみるとこの20番バスだった。お屋敷へ遊びに行くのに横浜で乗って港の見える丘公園で降りる。三十年も前のことだが。仕方なくタクシーを拾って横浜へ走らせた

   車の中で例の物を出して見る。黒い表紙で綴じ、おもてに表題ないし用途を書き込む白いシールを貼っている。それへ横書きで「己」「呂」「武」「反」「而」の五文字。滋子の字だ。表題だろうか、それとも何かの御まじないだろうか。山崎くん、倫子ちゃん、教えて頂戴な

   中身はルースリーフ紙が百五十枚程度、相当な分量だ。青い字で罫線が隙間なく埋まっている。陀羅尼めいた表題の五文字と同じで、本文も青の万年筆で書いたものらしい。全部横書き。窮屈そうな、細かい字で書いてある。滋子は体は大柄な女だけれども、体格に似合わず、字は可笑しいくらい小さく書く。癖は昔も違わなかった。横浜駅の交番の椅子に座らせられた日、おっかない背広の刑事相手にああ云う、十六才の少女らしからぬ悪戯をしながら、「鎌田滋子。鎌田なほみ。」と書いたその字は妙に小さく、そう云っても流石に警察官の前の事で内心は縮み上がっているのだろうかと、使いおわった鉛筆をかたッと置いた、その大きなお姉さんの手先が震えるのを見て、子供心にもそう思ったのだったが、実はそうで無かった。毎年呉れる年賀状も、いつもこの活字並みだ

   車内を照らす街の電灯を頼りに、難儀して最初の一枚を読んでいると、にわかに窓外の明るさが増したようなので駅に近づいていると知れた。桜木町の駅だ。行き先変更、降ろしてもらおう。電車に乗り換えたほうが早い

   京浜東北線は吊り革にも掴まれない混み様である。バインダーを開くことが出来ない。私は『己呂武反而』の続きが見られない。でも読者には見て頂くとしよう。牧師宅での話は第3章で続けましょう。なお、滋子の原稿は、誤字脱字と思われるものも本のまま翻印する


  編者の天野なほみです。

  序章にあたる『美人説』は、ネット掲載のための改訂をしている最中ですが、出来たところから公開することにしました。(外人墓地の写真以下がそれです。2006年にわたくしが書きました。順次足してゆく予定でいます。)続けて、本体である『己呂武反而』『遺書』『跋文』をも見てくださるように、お願い申し上げます。1982年11月に起こったのがどんな事件だったかは、序章が部分的だとしても、ほぼ推察されるとおりです。

  『己呂武反而』は、滋子自身が書きました。『遺書』は、婚約者だった小林伶門が書きのこしました。(前者の標題である己呂武反而は滋子によるものです。後者には、その性質柄、もともと標題がついていません。)

  滋子の原稿は特殊です。体裁の上で色々と制約が設けられる一般投稿サイトに、必ずしも馴染まない。ほとんどがルーズリーフ紙にペン書き . . .  あとになって思い直す。赤インクを入れて訂正する。そうした跡なんか、どうすればいいか。

  問題を解決するために、ウェブページ化することを考えました。PDFにもしました。

  せっかくですから、もとにちかい形で読んでいただけたら幸いです。


http://db.tt/pJ1syH7y (アクセスできないとの指摘があるので、対策を考えます)



2026年3月12日




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