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九話 「篠木さゆ」の「忠告」とか、「夕陽」とか。

 9

 夕陽が彼女の肌を、まるで熟した柿みたいに鮮やかな色合いで染めている。たどるはやはり彼女に見覚えは無かった。いささかな勘も浮ばなかった。まるで雲の存在しない朝方の空のように、たどるの脳裏は極端な空白を広げていた。何も浮びはしないし、なにも消えることは無い。たどるはもう一度、前にいる彼女が自分と関係している箇所があるか、模索してみた。何一つ浮ばない。そして断定する。彼女と僕は無関係だ。他人なのだ。

 彼女はたどるの顔をひとしきり見つめたあと、自分の名前を言った。順番が逆だろう、とたどるは思う。いや、顔を見つめるという行為は必要ないんじゃないか? 篠木、さゆ。たどるはその名前を知っているかどうか、自分に問う。たどるはかぶりを振った。知らない。やはり他人だ。これが初対面だ。関係など無いのだ。

 篠木さゆの瞳は、一瞬の乱れも窺わせずに、たどるの容姿をその世界に映し続けていた。彼女の瞳は毅然としており、懇々とした意思が何かを物語っている。たどるは茫然としたまま、彼女の顔に目を向ける。すこし自分の頬に熱が佩びるのがわかった。ところで彼女の瞳は、なにか光沢らしき物を連想させる。その丸い瞳には、明晰にたどるの姿が描かれているのだ。鏡に映るみたいに。

「な、なに?」とたどるは小さな声で訊ねる。

 篠木さゆはたどるの姿から目を一瞬だけ逸らす。そしてまた視線を戻す。「葉山たどる君だよね?」

「だからそうだけど」と小さいままの声でたどるは言い、頬をぽりぽりと掻く。わかりやすく照れているのだ。自分でもわかる。

「その……新崎ことね、と一緒にいるよね?」と篠木は訥々とたどるに訊ねる。

「え」たどるは目を丸くする。それから「う、うん」と肯く。「そうだけど」

 新崎ことねという名前が登場し、おもわずたどるは戸惑った。なぜ新崎ことねの名前が登場するのだ? たどるはいささか彼女に訝りを抱いた。夕陽の明りを、彼女は髪に馴染ませていった。彼女の奥行きの深い瞳が、夕陽を浴びて鮮やかな光を蓄える。まるで真夏の真夜中に光る海辺のような煌びやかさをおぼえていた。それは迂闊なたどるの懐へと侵入し、演繹的にたどるに様々な悶えを与えた。

 それからたどるは彼女が一体何者なのか訊ねた。篠木さゆは一度口をつぐみ、間を置いて新崎ことねと自分の関係をたどるに吐いた。そこにはそこはかとない気恥ずかしさと、自分で自身を述べるという、おこがましさが声調に含まれていた。そしてようやく、たどるはすべての謎を、合点することができた。

 彼女が、新崎ことねの過去の――あの暗澹な初恋の――重要人物だったのだ。

 たどるは思わず彼女に強い訝りの目をした。自身に戒めを刻む。一体何のようだ? 彼はさゆを警戒した。その警戒が孕んだ沈黙を、校舎の屋上にいたカラスの鳴き声が埋めた。夕方の空は、まるで何かの予兆のようにいささか紫を佩び始めている。虎視眈々と闇に沈めていこうという空の示唆が、たどるにはわかった。空が夜を迎えるための仕度をしているのだ。時刻はすでに、五時五十五分を過ぎていた――。

 先に静寂を破いたのは、篠木さゆだった。神妙な表情で、彼女はたどるに忠告するみたいにこう言った。「ことねとは、これ以上絡まないほうがいいよ」

「どういう事?」とたどるは訊ねた。

「もし彼女に浅はかな希望を抱いているのなら、やめた方がいい。いつか葉山たどる君も、失望する。わたし解るの。嘘じゃなくて、本当にやめておいた方がいいよ」

 たどるは首を傾げる。「どうしてそんな事言うの?」

「だって、本当にそうだから……」

「正直、意味がわからない」たどるは、いささか腹立ちをおぼえていた。「この前、新崎さんから彼女が小学校の頃の話を聞いたんだ。当時通っていた習い事で、君を好きになってしまったという事も聞いた。告白した事も聞いたし、失恋したことも聞いた。そしてその翌日からの話も聞いた――」それからたどるは息を呑み、続けた。「今日僕は篠木さんに初めてあったけれど、決して良いイメージは持っていない」

「……わかってる」と彼女は言う。不満がありそうだったが、たどるはさらに言い続けた。いささかな怒りが、淀みなく言葉を運んでくるのだ。

「今、新崎さんが部活に行っていない理由も聞いた。篠木さん、僕は君たち二人の間には何も関係ない立場だし、ただの第三者に過ぎないのだけれど、それでも篠木さんと友達になって、と誰かに言われても僕はできない。その二人の関係には僕は何も口を挟めなくても、僕は多分……」そこで一度たどるは口篭る。唾を呑み、口を開く。「新崎さんが、好きだから。彼女が篠木さんに抱いたのと同じ感情で、好きだから。だから、僕はあなたを敵だと意識してしまう」

 彼女は黙り込む。案の定とはいえ、やはり口答えはできなかったのだ。高い声で鳴いていたカラスが思い出したように、地に落ちていく夕陽のほうへと赴いていった。

 たどるは迂闊に露にしてしまった自分の感情に、否定をしようと努めた。しかし、自分が彼女のことを好きだという事に――自然と零れたその言葉に――抵抗を覚えることはなかった。それは、事実なのだ。たどるは彼女に誇張された感情を、抱いてしまっていたのだ。それと同時に、先程の自身の言動が(つい逃げ出してしまった事)場面となって、たどるの脳裏に過ぎった。それから、その教室に残された新崎ことねの姿がゆっくりと浮んだ。それはアスファルトを這う陽炎のように、曖昧としていて揺らめいていた。彼女の事を考える。すると強い後悔がたどるの身に浸食していき、空いた空洞をさらに広げた。その空白を埋めるものを闇雲に模索した。

 篠木さゆは、無言となっていた。必死に言葉を探っているようだった。虚無な世界をうろついているような濁った瞳にへと変哲している。さゆは遺憾をおぼえていた。たどるに忠告をしなくてはならないのだ。さゆの脳には、あの日の光景が上映されていた。彼も、いずれは落胆の渦へと彷徨ってしまう。しかし、篠木さゆには、新崎ことねを憚らなければならない、という理由を説明することはできなかった。その根拠が、見つからなかったのだ。

 黙り込む彼女を、たどるはひとしきり見つめた。そして、無言が終わらないことを確信すると、たどるは潔く背を向けた。「それじゃあ」

 やがては順調に深い暗黒に包まれていく空は、無遠慮に風を吹かせた。たどるとさゆの髪を踊らせ、グランドの砂を舞わせた。出鱈目な形をした砂埃が、地を軽やかに走った。それはたどるの足元も、すり抜けていった。

 何か言わなきゃ。篠木さゆはレーンを駆けるボーリングボールのように離れていくたどるの背丈を、ただ眺めていた。教えなくてはならない。新崎ことねはいつか、彼を失望させることとなるのだ。

 彼女の「才能」が、たどるを絶望させる事を、さゆは知っている。ただそれを説明することは、忌わしく難しい。できなかった。


 

   

 

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