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十話 「森屋幸太」の「怒り」とか、「連鎖」とか。

 10

 たどるの視界を占めるのは、空白を支配する活字の羅列だ。しかし、その羅列で構築された世界を、たどるは読み解くことができなかった。たしかにたどるは、その小説の世界に浸ろうとしている。努めている。しかし、たどるはその描写がほのめかす世界が、まるで読み取れなかった。なぜなら、たどるは最初から、文章など読んでいなかったのだ。

 まるで海岸を浸食する藻のように、たどるの思考はもつれを強いれさせていた。昨日の放課後の夕陽が脳裏に浮ぶ。そこには篠木さゆがおり、たどるに「新崎ことねとは絡まない方がいい」と忠告している。たどるはその事について思索を巡らせてみる。「絡まないほうがいい」それが示唆する意図を、たどるは暫定的に考える。篠木さゆは、なににあれほど懼れていたのだろう? 新崎ことねと、篠木さゆの関係――。

 彼女らは、小学生のときに通っていた「習い事」がきっかけで知りあった。そこでたどるはふと、彼女たちが参加していたという「習い事」が何かと疑問を抱く。ことねからは、「習い事」としか言われてないのだ。彼女はたどるに、告白したことが原因でああいう事態になってしまった、と言った。はたして本当にそうなのだろうか? 彼女の方にも――篠木さゆの方にも――なにか複雑な事情があったのではないのだろうか? あのとき訊ねておけばよかった、とたどるはいささか後悔を覚える。

 まるで春先の光を浴びて、凍結していた氷板が溶けた湖のような煌びやかさをまとった篠木さゆの瞳が、たどるの脳裏に揺らめく。その揺らめきに委ねられながら、明確に再生される。

「もし彼女に浅はかな希望を抱いているのなら、やめた方がいい。いつか葉山たどる君も、失望する」と彼女は言った。たどるはそれを幾度も反芻する。

 その言葉には、深い示唆が隠されているはずだ。それは新崎ことねの告白だけが原因ではない気がしたのだ。もちろん確証は無いし、たどるにはそれを探るという選択肢の余地は与えられていない。二人の間に、葉山たどるという人物は要されていない。その二人の関係にたどるが苦悩する必要などまるで無い。小鳥のさえずりが聴こえなくなったみたいに、夜空が星を散りばめることを停止したみたいに。たどるには、何一つとして関係のないことだ。たどるはただ、彼女に好意を抱いているだけなのだ。

 たどるの脳には、必ずどこかに新崎ことねの存在が明瞭と佇んでいた。それは釘を打ち込まれたみたいに、頑なに離脱しない。常に新崎ことねは、たどるの脳内を漂っているのだ。彼女はなにをしているのだろう? いささかな興味がほつれた糸みたいに著しく、そこにある。たどるは彼女のクラスを把握していないのだ。

 たどるは篠木さゆのことを考え、新崎ことねのことで悩み、森屋幸太のことをふと思った。あれから森屋はたどるに、部活の誘いをしてこない。それは自分に諦めてしまったのかもしれないし、呆れてしまったのかもしれない。以前のたどるはその事実に、自己憐憫が風に吹かれるカーテンの影みたいに踊り、高揚を覚えていただろう。しかし、今のたどるにとってそこには淋しさだけが虚ろにとり残されただけだった。たどるは、自ら孤独となったのだ。僕にはもう、新崎ことねしかいない。



 11 

 森屋はスターティングブロックをグランドに設置していた。釘を打ち、それを強く固定する。そして自分の足の裏をブロックの表面にあて、スタートダッシュの体勢を暫定的に完成させる。自分の膝を乾いた砂が舞う地面につけ、何度も弾みを確認する。SD五十メートルを三本、という練習内容を森屋はこなしていた。体勢が定まり、一旦スターティングブロックから離れる。同学年の部員、福嶋が声をかけてきたのはその時だった。

「なあ」と福嶋が言う。

 森屋は首を福嶋のほうへと曲げる。そこには警戒が伴われている。

 福嶋はかつて、森屋を貶めて虐げていた人間の一人だった。最近になって、まるで何事も無かったかのように森屋に絡むようになったのだ。なので森屋は彼がまた何かを企んでいるのではないか、という訝りを備えることを忘れない。その猜疑心がかえって著しく態度に表されすぎてしまい、要していない緊張が癒着する。「な、なに?」

「お前さ、葉山たどると仲良いじゃん?」と福嶋が訊ねる。

「お、おう」と森屋は曖昧に肯く。はたして自分が葉山たどると仲が良いのか、それは曖昧なままなのだ。しかし、きっと仲が良いと森屋は便利的に解決している。「それがどうしたの?」

「お前あんな奴と絡んでいるのかよ。やめとけよ。あいつ構ってほしいだけだから」と福嶋は軽やかな口調で言う。「いつも一人でいるしな。なんか喋り方も苛立ちを誘うような口調だし、調子乗ってるよ」

 なぜそんな事を忠告されなければならないのか、思わず森屋は福嶋に嫌悪を抱いた。いや、一度として彼に好印象など抱いた憶えは無い。その感情はさらに強みを増したのだった。それと同時に、なぜ今更になって葉山たどるの名前が登場するのだろう? と疑問も覚えた。「ど、どうして?」

 福嶋は誇張した素振りをしながら、森屋に言う。「あいつ、新崎ことねといつも放課後いるらしいぜ。気持悪いよな。やっぱり、ぼっちはぼっちといるんだな」ふっ、と福嶋は鼻で笑う。

「新崎ことね?」その名前を森屋は知らなかった。

「知らねえのかよ」と福嶋は驚いた表情でいう。「噂聞いたことねえの? あいつ小学校のとき、女子に告ったんだぜ。同姓に告白とか、気持悪りいよな」

 「そうなのか」と森屋ははじめて耳にしたその名前の女子生徒を想像する。どこかで会ったかもしれない。葉山たどるはいつから、その女子と仲が良くなったのだろう? と考える。「その人、何部?」

「さあな」と福嶋は首を振る。「でも部活行っていないらしいぜ」

「なるほど」なるほど。森屋は肯く。

 森屋はふと思い出して、自分の足に調節したままのスターティングブロックに目をやった。それは訓練を受けた賢い犬みたいに、じっと森屋を待っていた。ひとしきりの沈黙がその場に完成されている。やがて別の女子部員がやってきて、そのスターティングブロックをくずした。自分の足に調整しはじめる。まあいいか。森屋はふたたび福嶋に視界を戻す。

「とりあえず絡むなよ」と福嶋が森屋に戒めをする。「あんなのと一緒にいれば、お前またぼっちになるからな」

「……ああ」と森屋は小さく肯く。肯くというより、俯いた。

 森屋は推測する。きっと誰かが葉山たどるに嫌悪を抱き、捏造を加えた悪いうわさを広めているのだろう。それはかつて森屋も経験したことのあるものだった。はたしてその噂を拡げている張本人が誰かは、森屋には見当もつかない。しかし、そうに違いないだろうと森屋は確信をおぼえる。根拠は無い。だが、確信がある。

 森屋は自身の怒りがその犯人よりも先に、福嶋を捉えていることに気づいた。彼はこの噂に便乗しているだけなのだ。何者かが拡散させた波紋を、ただ興味本位で拾っただけなのだ。それは森屋のときもそうだった。彼は第三者で、それ以上なんでもない。部活が同じだっただけなのだ。彼と葉山たどるの繋がりなど、それだけだ。

 葉山たどるのことを考える。彼はこの状況を把握しているのだろうか? 森屋はストレッチ用のマットに腰を下ろす。砂の粒子が、マットの表面を白く覆っている。それに従って、森屋の体操ズボンの尻が白く染まった。それを手で払い、そのマットの表面も払う。そしてもう一度腰を下ろす。森屋は福嶋のことについて、思考を巡らせる。もしかすると彼は、その新崎ことねという人物に好意を寄せているのかもしれない。そう森屋は暫定的に解釈してみる。頭上を見上げてみると、空の昂りを表したような色合いをほのめかしていた。



 

 翌日、森屋はたどるに声をかけれずにいる。どこからか、福嶋の視線をかんじたのだ。森屋はたどるの未来よりも、自身の過去が連鎖することを、懼れている。森屋には、世間と葉山たどるを隔てる空間が、視界に映っている気がした。その空間に、自分が逡巡して彷徨っているようにも思える。



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