最終話 「二人」の「感情」とか、「微笑み」とか。
12
僕には、新崎ことねしかいないのだ。放課後を迎えた校舎は、必然的な静寂をつくる。その静寂が、やがて訪れる夕陽を待ち侘びる。まるで深い森の奥のような静けさを孕んだ教室の中で、たどるはひとしきり思考を走らせる。教室の室内をみわたす。歪な靄が残ったままの黒板がある。その隣には明日の時間割が記されたホワイトボード。そのうえに掛け時計がある。時計の秒針は乾いた音を奏でて、沈黙を満たす。その韻律は延々と耳元に置いておくと、不思議な感覚に陥らせる。たどるは宙にを虚ろに触れていた自身の手の平に目をやる。そこには、重要な何かが廃られてしまったような無機質さが佇んでいた。窓から差し込む淡い光が、その迂闊な手の平に落ちた。その疲弊した光の直線は、たどるの制服の上を著しく走っていた。
手の平を視界から除き、たどるは教室の天井を眺める。無機質な表面には、まるで蜂の巣のように細かな穴が無数にできている。それは何か奇妙な生物が住み着いているような光景を連想してしまう。
たどるは新崎ことねの存在を脳裏に出現させる。遵ってたどるの脳内には、空想の世界が構成されていく。放課後の教室、時計が一秒を刻む音、肌に毅然とした色を与える夕陽。それらが明瞭にたどるの脳裏に完成する。そこに、たどるとことねが向き合って雑談している。他愛もない会話がなされていて、たどるはいささか頬を撫子色に染めている。そこにいるたどるは、笑っていたのだった。
僕は新崎ことねが好きだ。その事実にかぶりを振ることをたどるはしない。それは認めざるを得ない感情なのだ。たどるは彼女に好かれようとしている。まずは、謝罪をしなければならない。たどるは、反省しなければならないのだ。
13
「どうした? 葉山」
「先生、すこしいいですか?」とたどるは口ごもりながら言う。「……部活のこと、なんですが」
そのたどるの発言をきいた男教師は、「おお、おーおーおー」と昂りの声を洩らしながら腰を持ち上げる。そして小さな声量で「ちょっと待ってて」と男教師は言った。たどるは肯く。その教師は、他の教師になにか話し、一度顎を引いて、微笑みながらたどるの方へと戻ってきた。「じゃあ教室へ行こうか」。たどるはこわばった表情のまま肯く。
たどるのクラスを担任している礒部雄二は、突然自分を呼び出してきた葉山たどるに思わず首をかしげてしまった。礒部はたどるが部活に行っていないことを既に把握している。そしてこれまでにも何度か、たどるに部活動のことで相談を持ちかけていた。それは主に礒部が顧問を務めているバレー部に転部しないか、というものだ。しかし、たどるは億劫そうに黙り込むだけだった。やがて礒部はたどるに部活動のことで相談するのを諦めた。生まれつき、諦めは潔い方だった。成績表をつくる際に「部活に行っていない」という事実を記す行為に、いささか拒みはあったが、仕方なかった。
そんな葉山たどるが突然「転部したいのですが」と言い出すので、礒部は思わず困惑する。しかし、それは善い兆しだと思う。すぐに承諾した。「わかった。陸上の顧問からは、俺が言っておくよ」
翌日。たどるは放課後になると、新崎ことねの姿をさがした。新崎ことねを発見するのは、湖に小石を落すくらいに簡単なことだった。案の定、ことねは図書室にいたのだ。たどるは図書室の入り口のまえに立ち、泡沫を眺めるような表情で、ことねを見た。たどるの視界の主役が、ことねとなる。彼女はカーテンの隙間からしたたる夕方の光を、その黒髪に浴びていた。黒髪は煌びやかさを佩びて、神秘的な色に染まっている。本をめくる仕草のたびに、彼女の髪は寄せ波のように揺れる。その不規則な揺れにたどるは見惚れる。
たどるは前に足を踏み出そうと努める。ことねの元へ行き、「何を読んでいるの?」と自分が訊ねる想像をする。彼女はまたページをめくる。髪が夕陽の光を震わせながら、正しく揺れる。たどるの足は、根を複雑に生やした樹みたいに重くなっており、指示を無視していた。夕陽が彼女の肌の明暗をはっきりと偏らせている。光を強め、翳は濃さを増す。彼女の背中は、たどるの存在を拒否しているような気を物語っていた。それがたどるの足に鈍さを煽ぐ。匿名的で陰鬱な重みを含ませる。たどるは図書室のなかに足を踏み入れることができずにいる。
水銀の淀みのように重い自身の足に、たどるはじれったさを覚えていた。たどるはその邪気をはらおうと努める。この閉塞感から脱け出そうと試みる。ことねの背中が視野に現れる。抽象的で虚飾な光が辺りに漂っている。たどるの視界を眩ませた。
しばらくして、ことねはたどるに気づく。たどるは思わず身をこわばらせる。そして視線をことねから逸らした。ことねはそんなたどるの仕草を見て、思わず頬が綻んだ。「葉山くん」とことねは呼びかける。たどるはその声を耳にして、迂闊に安堵してしまう。何を僕は緊張しているのだ。たどるの頬が赤くなる。夕陽のせいにしよう、と言い訳を考案した。
夕陽に頬の紅潮をごまかしているたどるを目にし、ことねも思わず安堵の息を洩らした。ことねも、たどると同じ不安を抱いていたのだ。たどるが逃げ出してしまったあの日から、ことねの脳裏には篠木さゆの存在が著しくあった。あのときの鋭く冷たい氷柱のような視線が、再びことねの脳裏に過ぎる。自然とその視線の主が葉山たどるにへと変更されて、想像してしまう。教室のカーテンから覗く放課後の空が、ことねの頬を走る涙を見据えていた。
僕と一緒に転部しないか? とたどるは訊ねる。静寂がただよう茜色の明りに包まれた図書室は、たどるのその意思の強さをたたえている。ことねは「え」と一度息詰まり、顎を引いてたどるを上目遣いで見つめた。ひとしきり見つめる。たどるはさらに頬を紅く染める。思わず自分の膝下に視線を落としてしまった。そのまま視野は固定したみたいに、首を上げようとする意図を阻む。
ことねも頬に熱を佩びる。思わず怯んでしまう口角を、忘れないようにと口を結ぶ。それでも、ことねは微笑んでいただろう。「……いいよ」と一言、それだけことねは言う。そしてたどるが顔を上げる動作が窺えた。ことねも逸らしていた視線をたどるに戻す。そしてようやく二人は目が合った。二人は頬を染めている。お互いに、それは気づいていた。夕陽のせいにしよう、と言い訳を考える。
葉山たどるは微笑む。新崎ことねも微笑む。新崎ことねは、自身が二度目の誇張した感情を覚えていることに、既に気づいている。たどるのその誇張した感情は、さらに増している。
14
なにか才能がある、または他人とは違う特技を持っているという人間が、僕には理解できなかった。僕という人間には、才能と呼ばれるものが何一つないのだ。何の才能も、僕には無い。僕は神様が寝起きにつくったような人間なのだ。
放課後を迎えた教室に、僕はいる。僕が眺めているのは、そこから見える夕陽の空だ。空に飽きると僕は、隣にいる少女に視線を移す。僕の隣にいる少女は、その夕方がほのめかす色を髪に馴染ませている。僕はつい見惚れてしまう。迂闊に口元が開いていただろうと思う。校舎の外からは、各部活動の声が曖昧に渉ってくる。川の流れに委ねた舟みたいに。
聴こえてくる部活動の声のなかに、森屋幸太の声が紛れていた。中学二年が終了してからは、彼とは一度も話していない。顔も見ていない。つまり、興味が無いのだ。「俺はお前のいいところいっぱい知っているつもりだ」という森屋の言葉を、僕は思いだす。僕はふっ、と鼻で笑った。
「なに?」と隣にいる少女が訊ねる。
「なんでもないよ」と僕は頭を振る。
その森屋との記憶に倣うように、ふと僕は新崎ことねの存在を思い出す。新崎、ことね。僕は自身の膝下に視線を落す。僕の表情に翳りができる。それから、ふふっと笑みが零れた。「だから何よ」と隣にいる少女が僕に訊ねる。若干可笑しそうに笑みを含んでいる声調だった。「なんでもない」と僕はもう一度言う。僕もいささか笑みを表情に作っている。
「そう?」と、僕の隣にいる篠木さゆは、ゆっくり微笑んだ。 END
はい。最後でした! ありがとうございました!! いやあ、この話は苦労しました。登場人物なども僕と同じ年齢なのに、一番難しかったです。 次回作のプロットは八割できてます。 また、よろしくお願いします。




