十三話 暴かれる秘密
昼の光が、高窓から柔らかく差し込んでいた。
書庫の中は静かで、紙とインクの匂いが穏やかに満ちている。遠くから、風が窓を揺らす音がかすかに届いてくるだけだ。
その一角で、リシェルは机に向かっていた。
(……あと、少し)
昼休憩のわずかな時間。誰も来ないのをいいことに、こっそりとペンを走らせる。カリ、カリ、とペン先が紙を引っかく音だけが、静寂に溶けていく。
——王太子を主人公にした物語。
金髪の、深い青色の瞳の王太子。理知的で、冷静で、けれどどこか歪な内面を抱えた男。気づけば筆が止まらなくなっていた。
(こんなの……ダメなのに)
分かっている。けれど——。
初版にしか載せなかった、あの第七章。そこに出てきた王太子を、主人公にして。
カリ、とペン先が紙を引っかく。
王は民に選ばれることはない。
だが、ただ一人には——
選ばれたいと、願ってしまった
その続きを書きながら、胸の奥がざわついた。
(……エリオス殿下に似すぎてる)
思わず息を止める。これは、ただの創作じゃない。あまりにも——。
そのとき。扉の外で、足音が止まった。
(……え?)
規則正しく、無駄のない歩み。聞き慣れてしまったその音に、心臓が大きく跳ねる。
「——いるな」
低い声。
「っ……!」
反射的に、紙をかき集める。慌てて鞄に突っ込みながら立ち上がると、ちょうど扉が開いた。蝶番が低く鳴る。
エリオスが、いつも通りの表情でそこに立っていた。
「こ、こんにちは。殿下……!」
声がわずかに裏返る。その背後から、ルドヴィクが顔を出した。
「殿下。本日はどうされましたか。昼間にいらっしゃるのは久しぶりですね」
「少し、確認したい資料があってな」
簡潔なやり取り。その間も、エリオスの視線がリシェルへと向く。ふと、机の上に一瞬だけ目が落ちた。
(……まずい)
エリオスがくるとは思っていなかった。
机の上には官能小説の原稿がある。かといって慌てて回収したら不自然だ。心臓が嫌な音を立てる。
「リシェル?」
ルドヴィクが眉をひそめた。
「顔色が悪いぞ」
「え……?」
「さっきから手も震えている。大丈夫か」
言われて初めて、自分の状態に気づく。動揺と焦りで、確かに呼吸が浅い。
「い、いえ……その……」
言葉が続かない。エリオスは静かにその様子を見ていた。
「……無理はするな」
低く落ちる声。それが、かえって逃げ場をなくす。
「っ……少し、だけ……」
思わず口をついて出た。
「少し、体調が……」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
(嘘を吐いてごめんなさい……っ)
申し訳なさで泣きそうになる。けれど、この場から逃げたくて仕方なかった。
「なら、今日は下がれ」
間を置かず、エリオスが言う。
「え……」
「仕事に支障が出る」
あくまで淡々とした判断。だが——。
「そうですね。リシェル、今日はもう帰りなさい」
ルドヴィクも頷く。
「鍵閉めはこちらでやるから。無理する必要はない」
「……すみません」
俯いたまま、小さく答える。本当は違う。でも、これ以上ここにいたら——。
(見られる)
書きかけの原稿をまとめて入れた鞄を抱え、足早に出口へ向かう。
そのとき。
「……リシェル」
呼び止められる。
「っ……は、はい」
振り返ることができないまま、足を止める。
「……何を書いていたんだ?」
静かな声だった。問い詰めるでもなく、ただ気にかけるような——そういう響き。
「え……?」
「さきほど、机で」
一瞬、言葉に詰まる。
(見られてる……?)
背中に、冷たいものが走る。
「……仕事のものか」
続けられた言葉は、あくまで落ち着いていた。だが——。
(逃げなきゃ)
「ち、違います……!」
思わず強く否定してしまう。
「その……ただの、メモで……!」
自分でも苦しい言い訳だと思う。短い沈黙。
「……そうか」
それ以上は、追われなかった。それが逆に怖い。
「失礼、します……!」
小さく頭を下げ、そのまま書庫を出た。扉が閉まる。
◆
リシェルの足音が遠ざかっていく。
石の廊下を踏む音が、やがて聞こえなくなった。書庫の中に、紙とインクの匂いだけが残る。
しばらくの間、エリオスは何も言わなかった。
「……随分慌てていましたね」
ルドヴィクがぽつりと呟く。
「体調も、あまり良くなさそうでしたが」
「……そうだな」
短く返す。
だが、視線をぐるりと回した時に机の下に数枚、紙が落ちていることに気づいた。
(……忘れ物か?)
「少し、失礼する」
そう言って、拾って手に取る。ルドヴィクは特に気にした様子もなく頷いた。
エリオスは、その一枚に目を落とす。
——瞬間。
指先が、止まった。
王は民に選ばれることはない。
だが、ただ一人には——
選ばれたいと、願ってしまった
青色の瞳が、その一文の上で止まる。
(……これは)
胸の奥を、静かな衝撃が打った。
この言い回しを、彼は知っている。初版にしか載らぬ第七章。削除された章の核心。王は選ぶ側の存在——それが、この国における当然の理だ。だが、あの章だけは違った。選ばれたいと願う王太子。その弱さに踏み込んだ、異質な一節。
——あの一節を。
(なぜ……)
視線が、次の行へ落ちる。そこに続いていたのは——まるで、その先を書き継いだかのような文章だった。
(……ありえない)
あの章を知る者は限られている。しかも——ここまで正確に、その内面をなぞるなど。
ふと、思い出す。視線を逸らす癖。過剰な反応。そして——あの知識量。思考が、水が流れるように繋がっていく。
(……まさか)
確信が、音もなく形を成す。
——無慈悲な夜の女王。
その名が、疑いではなく確信として、胸の内に落ちた。
(……これは俺か?)
エリオスに似た名前の王太子。誰に対しても『私』と距離を置くくせに、心を許した相手には『俺』や『お前』を使うところ。何気なくしてしまう癖や仕草。襟から少し覗くほくろの位置まで同じ。
——どう考えても、自分がモデルだ。
喉の奥がわずかに熱を帯びる。
(もしかして……俺のことを、そういう対象として見ているのか……?)
でなければ、エリオスをモデルに官能小説なんて書くはずがない。
そう理解しかけた瞬間——。
ふと、以前見かけた光景がよぎる。カフェで向かい合っていた二人。思い出しただけで、胸の奥に不快なものが滲んだ。
(……あの男……王都印刷工房の編集長……ギルベルト)
あれも、偶然ではないとすれば。
(……打ち合わせ、か?)
しばらく、その可能性を転がした。彼女の初心な反応の理由も、それなら筋が通る。だが——腑に落ちない何かが、静かに残る。
紙面を凝視する。自分をなぞるように書かれた男。内面を、知りすぎているほどに知っている描写。そして——今日の、あの様子。エリオスから隠そうとした手元。動揺。逃げるように去った背中。
モデルとは——エリオスのことだったのだ。
『その調子で、どんどん観察してください。モデルを』
リシェルに会いにきた時に放ったギルベルトの言葉が、脳裏をよぎった。
そう考えれば、すべて筋が通る。
観察。
再現。
——記録。
恋愛指南と称して、距離を詰める。反応を引き出す。言葉を拾う。それらすべてが——。
(……キャラクターの取材、か)
分かってしまえば、単純な話だった。
彼女にとっては、これはただの王太子という題材で。
自分は——その一部に過ぎない。
あの反応も。あの言葉も。あの距離も。
すべて、小説を書くためのものだったのだとしたら——。
(……違う)
そうではないはずだ、と一瞬だけ思う。
耳の後ろに触れたとき、あの震えは——。腕の中で強張った体の温度は——。あれは、演技ではなかったはずだ。
あの時、確かに彼に向けられていた熱があった。計算されたものでも、観察されたものでもない。——そう思いたいだけなのかもしれないが。
(……それでも)
もしも、それらがエリオスの反応を見るために演じたものだとしたら。
(……)
紙を持つ指先に、わずかに力が入る。
怒り、ではない。失望とも、少し違う。もっと静かで、重い何か。
(……違う。そうじゃない、はずだ)
だが、それを証明するものがなかった。
(……俺は、利用された……ということか……?)
わずかに口元が歪む。自嘲に近い、笑み。
(——俺だけが、あれを恋愛だと思っていたのか)
そう思うと、どろりとした感情が胸の奥に生まれる。
静かに、紙を裏返して机へ戻す。何事もなかったかのように。
一度、深く息を吸う。紙とインクの匂いが、肺の奥まで満ちた。
不快感は消えない。むしろ、じわじわと形を変えていく。だが——それならそれで、向き合い方を変えればいい。
(……いいだろう)
低く、思考が沈んでいく。
恋愛指南は、続ける。——そのまま。ただし。
(……今度はこちらが、試す番だ)
逃がしてやるものか。
ここまでエリオスを振り回しておいて、すべて取材のためでしたと言われても、納得できない。いまさら手放すことはできないのだから。
(……俺をこんなふうにした責任は取ってもらう)
歪んだ執着が、彼の内側に芽を出していた。
「……殿下?」
ルドヴィクの声で、我に返る。
「いや、何でもない」
エリオスはゆっくりと視線を落とした。
窓から差し込む昼の光が、机の上の紙を白く照らしている。その上に、彼女の筆跡が残っていた。
——選ばれたいと、願ってしまった。
自分が書いたわけでもない一文が、なぜか胸に引っかかって離れない。
エリオスはそっと紙を置いた。静かに、視線を窓の外へ向ける。
——次に向き合うべきは、ただ一人。
——リシェルだ。




