19.クッキーの行き先
アイラが座っている椅子に近付く。
怒らせてしまったことを真っ先に謝るべきだ。
そうすれば、今まで通り変わらずに彼女の護衛としていられるかもしれない。
しかし、また彼女と手を合わせて、背中を支えて、いつもと変わらない態度でいられる保証はどこにもない。
おそらくまた、緊張でアイラと目を合わせることを拒んでしまう。
自分の不甲斐なさに苛立って、何も言えずに俯いているとアイラから声が掛かった。
それがいつもより冷たく感じて、グッと拳を握り締める。
「座って」
「……はい、失礼します」
ルビー色の目はシューバットを映さない。
同じことを自分もしたはずなのに、胸の奥が激しくざわついて、焦燥した。
アイラの隣に並んだ椅子をシークが引く。
目礼して大人しく座って彼女を見るが、アイラがシューバットを視界に入れる気配はない。
自分はなんて馬鹿なんだろう。
主であるアイラをシューバットの方から拒絶するような態度を取ってしまった。
嫌われて当然だ。
「シュー、貴方が自分に自信がないことも、私と関わるのを怖がっている理由も理解しているつもりよ」
「……」
「でも、協力して欲しいの」
シューバットは自分が優秀ではないこと、田舎の貧乏貴族の男爵令息の次男であることを度々訴えてきた。
公爵家の屋敷でも装飾品を見る度にびくびくしている姿や豪華な客室に抵抗を感じたことを、彼女は知っている。
その上で、アイラはシューバットに何かを求めていた。
「私達が出会ったあの婚約破棄から私は社交会で可哀想とか、捨てられたとか言われているらしいのよ」
「それは違う!」
「ええ、そうね。でも、貴族達からはそういう風に見られている。久しぶりに出る夜会で私は注目の的になるでしょうね」
「っ…」
怒りがぶわりと湧き上がる。
アイラのどこか可哀想なのだ。
彼女は国や家族、領民のために昔から一生懸命に学び、今はその知識を活かして働いている。
立派で誰よりも誇らしい人。
それに捨てられたわけでもない。
アイラは元婚約者と一緒にならずに喜んでいた。
婚約者がいなくなったことを悲観することなく、彼女は変わらず凛としている。
どうしてそんな不名誉なことをアイラが言われなければならないのか、意味が分からない。
眉間に皺がグッと寄り、行き場のない苛立ちが身体中に燃え上がる。
「多くの貴族が出席することになるから私のことをよく思わない人には、嫌味を言われ、見下されるかもしれない」
「そんなっ!」
「おそらく煩わしい視線も沢山向けられるわね」
「お嬢様は何も悪くありません!」
気持ちが萎んでいたのが嘘のように、身体を前のめりにして真っ直ぐに訴える。
アイラに反論しても仕方がないと分かっているけど、言わずにはいられなかった。
立場のある彼女をよく思わない人達がただでさえアイラを傷付けようと隙を見計らっているのに、あの婚約破棄のせいで彼女に牙を向ける連中が増えたというのか。
許せない。腹立たしくて仕方がない。
話を聞いているだけでも、こんなにも猛烈な怒りが込み上げてくる。
ゆっくりと首を動かして、怒気を纏わせたシューバットの茶の目と視線を交わしたアイラは微かに笑っていた。
「私は、それを全部塗り替えようと思っているの」
「…塗り替える?」
「そう。私はあんな男がいなくても十分に、いいえ、今まで以上に幸せだと皆に見せつけるつもりよ!」
ふふ、と笑うアイラは自分に向けられる敵意や悪意に真っ正面からぶつかって、それを薙ぎ払うつもりらしい。
全く気後れする様子のない彼女にシューバットの肩から力が抜けた。
アイラはいつだって堂々としている。
負けず嫌いで、我儘な部分はあるけれど、シューバットが今まで出会って来た誰よりも立派な女性だ。
「……だからね、シュー。私が可哀想な女じゃないって周りに思わせるために協力して欲しいの。それに、護衛なら私のこと…ま、守って、くれるわよ、ね?」
凛々しかった表情が徐々に崩れ、アイラはオドオドした様子でシューバットを見上げる。
今のままではアイラのパートナーは務まらない。
それでも、アイラが他の誰でもないシューバットを選んでくれるというのなら。
「当然です」
きっぱりと言い切った。
残りの時間でアイラの目的を達成出来るような、何かを考えなければならない。
アイラに恥を掻かせないようにダンスを完璧に覚えるのは、絶対条件。
もっと訓練を重ねて更に威圧感が出るように鍛えてもらった方がいいかもしれない。
容姿は平凡でも、隣に立つだけで恐れられるような、そんな存在になれるだろうか。
シューバットが頭の中で色々と考えていると、アイラは安堵したように息を吐く。
「ありがとう、シュー。パーティーまで一緒に頑張るわよ!」
「はい」
二人の間に出来た壁がなくなり、いつも通りに振る舞えていることにシューバットの胸の奥のざわつきが止まった。
ダンスホールの扉が開くと、シエナが紅茶とお菓子が乗ったワゴンを押して戻って来る。
そのままアイラとシューバットの前にシエナとシークが手早く並べて、二人は後ろに下がった。
紅茶の良い匂いと木の実が入った美味しそうなクッキー。
このクッキーはアイラの最近のお気に入りだ。
しかし、シューバットはテーブルの上に何か違和感を覚えて、心の中で首を傾げた。
「……まずは、シューの緊張を解きましょう」
「え?」
「こ、これからもダンスは必要になるし、その度に緊張していたらシューも疲れるでしょ?」
「それはそうですが…」
自分のせいでアイラを怒らせ、精神も随分とダメージを受けたが、そんな簡単に解れるものではない。
ただ簡単に無理だというのにはアイラに対して不誠実で、どう答えようかと迷う。
「いい?これから私が何をしても全て受け入れるのよ」
「お嬢様…?」
「これはシューのためなのよっ!拒否したら、な、泣くわ!」
「泣く!?」
すごく嫌な予感がしていると、最後には脅しのような言葉を言われて堪らず声を上げる。
目を見開いて戸惑っているシューバットに、駄目押しするように「私は本気よ!」とジッと見つめられながら言われて、ぎこちなく頷く。
アイラに泣かれたらどうしていいか、分からなくなる。
彼女はシューバットの前で一度も泣いた姿は見せたことがない。
人を慰める場面に今まであまり遭遇してこなかったシューバットには、涙を流すアイラの前でおろおろしている自分しか想像出来なかった。
それに、公爵に娘を泣かせた不届き者と思われるのも避けたい。
それにしても、彼女は一体何を企んでいるのか。
懐疑的な目でアイラを観察しつつ、恐る恐る声を掛けると彼女に怒られた。
「あ、あの?アイラお嬢様?」
「だめよ!動いて良いなんて言ってないわ!」
「はい…」
指先一つ動かすにもアイラの許可がいるらしい。
シューバットが状況の把握に戸惑っていると、アイラが小さな右手をゆっくりと伸ばす。
シューバットの分として用意されていたクッキーを一枚、小皿から取り出して親指と人差し指で掴む。
そこでようやく、テーブルの上に並べられた物の違和感の正体に気が付いた。
アイラとこれまで何度かお茶を共にしてきたが、いつも対面で座って顔を合わせた。
しかし、今はほぼ隣り合わせと言っていいほど、近い。
少し身を捩れば触れてしまう間隔しか空いていなかった。
ダンスの時の方が近かったため、いつもの感覚がずれていたらしい。
シークが椅子を引いてくれたから、深く考えずに座ってしまった。
動きたいけど、そのためには彼女の許可がいる。
また彼女の存在感を急激に身近に感じて、胸の奥がバクバクと跳ね上がる。
アイラの綺麗な指に摘ままれたクッキーが、じりじりとシューバットの方へ近付いて来る。
甘美なお菓子の届け先がどこなのかを想像して、ごくりと息を飲む。
無意識のうちにクッキーから逃げるように顎を引いて、警戒心を強めた。
これは、良くない。
「お、お嬢様…?」
「口を開けて」
「え、いや、でも…」
まさかとは思うが、アイラの手からクッキーをシューバットに食べさせようとしているのではないだろうか。
そんなわけないと思いつつ、口元に近付いて来るクッキーを凝視する。
「こ、これはシューのためって言ったじゃない!貴方が私に触れるのが怖いなら、私が触れてあげるわ!」
「っ、」
「し、仕方がないから手伝ってあげるのよ!?早く慣れてよね!」
早口で畳み掛けられる言葉の連鎖に口が挟めない。
的を目指して近寄っていたクッキーがシューバットの口元まで届き、アイラの指に挟まったそれがツンツンと唇を叩く。
それが上唇の更に上に当たったり、唇から外れて口端の方に触れたりしていた。
よく見るとアイラの右手は微かに震えていて、彼女の緊張が伝わって来る。
「口、あ、開けて…っ」
本当は彼女だってこんなことをしたくはないはずだ。
主のアイラから新人の護衛のシューバットにクッキーを食べさせるなんて、本来ならあり得ない。
親しい相手同士でやる行為は、婚約者や夫となる者とやるべきだ。
無理をしてまでシューバットの緊張を解きほぐそうとするのは、アイラの名誉挽回のため。
彼女が下手なダンスを踊って少しでも隙をみせれば、アイラのことをよく思わない連中が心にもないことをまた言いふらす可能性もある。
協力すると決めたのだから、シューバットだって覚悟を決めなければならない。
一緒に頑張ろうと思った気持ちに嘘はない。
覚悟を決めて、クッキーに目を向ける。
「……分かり、ました」
ゆっくりと右手を上げて、小刻みに揺れているアイラの細い手首を出来る限り優しく掴む。
彼女がびくりとした気がするが、シューバットは一口でクッキーを口内に入れられる大きさに唇を開く。
アイラの指先で甘い香りを漂わせるお菓子を口の中に、導いた。
舌の中にクッキーが落ちて来る感覚がなくて、ちらりと彼女に視線を向けるとはっとして力が抜ける。
アイラの綺麗な指を歯で傷付けないように気を付けながら、手首を引いて手を離す。
サクッ、とクッキーを歯で割って何度か咀嚼を繰り返した。
アイラと一緒に食べたことがあるお菓子だが、シューバットもシンプルな味のこのクッキーを気に入っている。
最後にゴクンと飲み込んで、未だに手を上げたままのアイラに微笑む。
「美味しい、です」
彼女は自分の指先とシューバットの唇を交互に見つめながら、ぷるぷるとさっきとは比べ物にならないぐらい震え出した。
様子がおかしくなったアイラに慌てていると、ボンッと彼女の全身が真っ赤に染まる。
え、と思った瞬間にはアイラの身体から力が抜けて、ふらりと倒れた。
シューバットは椅子を後ろにひっくり返しながら慌てて立ち上がり、アイラの身体が床に付く前に抱き留める。
支えながらアイラの体勢を戻し、彼女の顔を覗き込む。
「お嬢様?アイラお嬢様っ!?」
紅潮した顔はとても辛そうで、シューバットがそっと頬に触れるとすごい熱を持っていた。
控えていたシエナとシークも集まり、心配そうな顔でアイラを見つめる。
「シューバット様、お嬢様を休ませましょう!」
「はい!」
シエナに言われて、シューバットはすぐに頷き、彼女を丁寧に両手で抱き上げる。
そしてシークを見て一つ、お願いをした。
「お医者様を手配してください!」
「……久しぶりにダンスをしてお疲れになっただけかと」
「そうだとしても、絶対に呼んでください!無理なら俺が探してきます!」
「…分かりました、手配します」
アイラがシューバットの前で顔を赤くすることは今まで何度もあったが、倒れたのは初めてだ。
何かあってからでは遅い。
どんな手を使っても医者を呼ぶつもりのシューバットに、シークは頷いて約束した。
シューバットはそれを確認するとアイラを抱えたまま早足で扉に向かい、シエナはその後を小走りで付いていく。
三人がいなくなったダンスホールに一人残ったシークは、大雨の降る窓の外を見つめ、困ったように息を吐き出した。




