4 終
春の訪れを感じる日差しの中で、氷の女神は目を覚ます。
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「――シャーロック、さま」
―――――その瞬間。ずっと愛を囁き続けてぼろぼろになった兄が浮かべた表情を、私は生涯忘れないだろう。驚愕、歓喜、その他の激情を浮かべて。
次いで今までにため込んできた絶望と悲哀を解き放つように、兄は空を仰いで号泣した。最愛の人に呼ばれた彼が身を絞るようにしてあげた慟哭は、目覚めぬシャラの前で泣いたあの日よりもずっとずっと痛いほどに私の胸を打った。
あああああ、と言葉にならないまま声を上げて、何度も何度もシャラの手を握りなおす。抱きしめて、すぐにシャラの顔をのぞき込んで、彼女の瞼が開かれているのを確認してまた抱きしめる。目を離したらまたすぐにシャラが眠ってしまうのではないかと怯えているように、手放しでもしたら消えてしまうかのように。
「…………シャラ。シャラ、シャラ、シャラ…っ」
「シャーロック、さま。申し訳、ありま…」
「謝るな!」
何が起きたのかを理解したのだろう、シャラの顔がくしゃりと歪む。途切れ途切れに絞り出された謝罪を、兄は思い切りぶった切った。ぼろぼろと涙を流しながら、喜びなどという言葉で表すにはあまりに激しい表情で、それでも。
「―――ありが、とう。シャラ…。目覚めてくれて、ありがとう。生き、ててくれて、また名前を呼んでくれて、それだけで俺は…っ!」
つっかえつっかえそう言って、兄はまた慟哭した。唸るように、叫ぶように、今までの痛みを空に返していく。失った時間も物も、すべてどうだっていいのだと、その背中が言っていた。ただ一人の相手が戻ってきてくれただけで、それだけでもう十分なのだと。
「シャーロック、様…」
「シャラ、ありがとう、ありがとう、ありがとう…っ」
身も世もないほどに泣く兄の姿に、私の目からも涙がこぼれ落ちる。視界の隅にゼオンがそっと目の端を拭うのが見えた。
「お兄様、シャラ…、本当に、よかった」
ぽつりとつぶやいた声に、シャラがはっとこちらを見る。兄にぎゅうぎゅうとしがみつかれたままでその顔がくしゃりと歪んだ。
「エリィ様、申し訳ありません」
「謝らないでください、お兄様もそういってらっしゃいますもの。本当に、シャラが無事で目覚めてくれて、それだけで十分」
がくがくと震える膝を叱咤して何事もないかのように微笑む。この震えは、恐怖じゃない。嬉しくて。目の前の光景があまりに嬉しくて信じられなくて。
ああ、本当に十分だと、そう思った。
「エリィがいるのか?」
それからどのくらい経った頃か。シャラを離すまいと抱え込んだ体勢のままで、ようやく涙を止めた兄がくるりとこちらを振り向いた。泣きすぎで掠れたその声は、けれどこれまでの弱々しさとは打って変わって強いハリを纏っている。
「ええ、いますわお兄様。シャラ、ごめんなさい、いると伝えてくれますか?」
「え、あの、いらっしゃいますけれど…まさか」
私の声に一切の反応を示さず、瞳の焦点も会わない。そんな兄を見てシャラは瞬時に何が起こったのかを察したようだった。
「シャ、シャーロック様、なんてことを…」
「ああ、いるのか。エリィ、長々苦労掛けたな、これからも掛けるからそのつもりでいてくれ」
青ざめる彼女を抱えたままで兄が平然とそういう。兄だって今の状況に何も思わないということはないだろう、見えていたものが見えないことは辛いだろうし、聞こえていたものが聞こえないというのは恐ろしくもあるかもしれない。けれど、そんなことはきっと兄にとっては些細なことで。今はただシャラが生きていることがうれしくて仕方がないのだ。
それが分かっていたから、私もくすりと笑って平然と返す。
「まあお兄様、既に山ほど苦労掛けられてますけれど…。大体シャラをすぐに目覚めさせられない辺り、愛が足りないんじゃありませんこと?」
聞こえないのをいいことに思ってもいない憎まれ口をたたくと、シャラがこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて首を振った。
「エリィ様、そんなことはありません!この術に成功の可能性など、万に一つもないことは誰もが知っているはずなのに…それを、私なんかのために」
「シャラ、お前にしか使わない。私なんかなんていうな、お前は俺の唯一なんだから」
まだ余裕のない表情ですかさずそう切って返し、兄はぎろりとこちらを睨む。焦点が合っていないはずなのに射貫かれたと感じたのは、きっと私の気のせいではないはずだ。…だって横でゼオンもびくっとしている。見えないはずなのに、相変わらずの眼光だ。怖い。
「エリィ、お前っていう奴は少しは兄をいたわってだな」
「まあ、でしたらその間必死に伯爵として走り回った妹をねぎらうのが先ではないですか」
「エリィ様、本当にご迷惑を…私が不甲斐ないせいでシャーロック様から伯爵位を奪い、エリィ様に背負わせてしまって…」
「おいコラエリィ!文句言わずにいたわれ兄を!」
がうっと吠える兄の目はあっという間に五年前と寸分変わらぬ光を取り戻していて、私はそのことに心底安堵した。シャラも痩せすぎではあるけれど、あの頃のように今にも逝ってしまいそうな顔色はしていない。きっとこの二人なら、もう大丈夫だ。
「お兄様ったら、シャラの前なのに格好つけるのも忘れて」
くすくす、と堪えきれずに笑って。細めた目から、最後の涙がこぼれ落ちた。―――よかった。兄が無事で、シャラが目覚めて、二人がこうして私の目の前で動いて話している。
「はっ、いや、シャラこれは妹への愛の鞭であって別に俺は子供っぽいふるまいをしたいわけでは」
「シャーロック様…ふふ」
涙目だったシャラが、やがて慌てふためく兄の言い訳にふっと笑みをこぼした。柔らかな優しいその笑みは、彼女の持つ本当の笑み。あの、最期の日々に無理して作っていた笑顔ではない、心からの。
兄と、シャラと。心から互いを愛し合っているもの同士の幸せそうな光景に、胸がいっぱいになった。ずっと信じていて待ち続けて、それでももう駄目かもしれないと、見ているこちらの心が幾度も折れそうになって。
それでも、兄はあきらめなかったのだ。きっと最愛の伴侶が戻ってくるということを信じて信じて信じて、愛を伝え続けた。奇跡というものがあるのなら、それは兄の心とシャラの心だろう。きっとシャラも、兄の元に帰ることを望んで。兄は、絶対にシャラを逝かせまいと文字通り命をかけて彼女をこの世にとどめて。
「エリィ、お前覚えてろよ!」
「私記憶力には自信がなくて…お兄様が押し付けてった厄介すぎる事案片っ端から処理していただけたらどうにか忘れずにいられるかもしれませんわー」
「シャーロック様、厄介すぎる事案とは…」
「げっ、まだあれ残ってるのか!?絶対嫌だ手伝わねぇ、当分シャラと離れるつもりないからな!」
私の言葉を、シャラを介して兄が受け取る。心底嫌そうなその表情に思わず笑ってしまった。ぎゅうっと抱き込まれたシャラはそんな兄を戸惑ったように、けれどほんのりと幸せそうな笑みを浮かべて見つめている。なんだかもうそれだけで、この五年間のすべてが消えていくような気がした。
すべてが元に戻るわけはない。シャラしか見えも聞こえもしない兄は伯爵位に復帰することはできないだろうし、きっとこの五年間で得るはずだった思い出も手に入る日はやってこない。それでも、これから先の、未来の可能性を兄たちは取り戻したのだ。
――――決して手に入るはずのないものを、手に入れられる奇跡。全てを引き換えにして唯一を求める覚悟。きっとそれこそが、真実の愛と呼ばれる魔法の正体なのだから。
これにて完結となります。このお話は、普段コメディやざまぁに欠かせない道具としてでてくる「真実の愛」を、真剣に描いたらどうなるのかなというのを私なりに形にしたものになります。本文中では反旗とか言っていますがまったくそんなつもりはありませんので、こういう解釈もあるのか、ぐらいに思っていただければ幸いです。
次からはエリィの夫、ゼオン視点の話になります。