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『どうして…ッ』
兄が呻く。どうして断らなかった。どうして俺に助けを求めなかった。きっと嚙み殺した声に続くのは、そんな言葉だっただろう。そして兄がそう思う気持ちも、その言葉を噛み殺したわけも、私は全てわかっていた。
優しいシャラが私たちに助けを求められたわけがない。優しくて穏やかで、慎ましい彼女。きっとシャラは、助けを求めて私たちに迷惑がかかることを恐れたのだ。自分がここにいていいわけはないのだと、口癖のようにそう言っていたのだから。
伯爵家に泥を塗らないように。兄に、そして恐らく私にも迷惑が掛からないように。そんなことを考えたのであろうシャラは、一人で静かに耐え続けて、そうして心を壊してしまった。
心だけではない、つられるように体の調子も坂を転げ落ちるかのように崩れていく。元々儚げだった体は痛々しいまでにやせ細り、高い熱を出したかと思えば凍えそうなほどに冷え切って震えるようになった。兄は放り投げられるだけの仕事を私に投げて、ほとんどシャラの側を離れなくなった。
シャラを傷つけた女たちへの復讐は、私が。彼女のそばを動かない兄に代わって、私は徹底的に令嬢方を追い込んだ。家格の違いも年の功も、悪いが切れた私には通用しない。表立って反抗できないからと高をくくっていた令嬢たちバカ娘とは生憎頭の出来と恨みの深さが違うのだ。
裏から噂を流し、さりげなく貴族の間に彼女らの悪評を流して証拠付きで現場を押さえさせる。彼女らが開いていた苛めの茶会の対象ははシャラだけではなかったようで。懲りずに開いたその茶会に偶然を装って力のある貴族を送り込み、そうして証拠と共に彼女らは罰を受けた。―――貴族位剝奪なんて、そんな甘すぎる罰に到底納得はできなかったけれど。
その頃シャラの容体が悪化したことで、私はそれ以上のことは何もしなかった。後は勝手に野垂れ死ねばいい、シャラを傷つけた奴らをこれ以上構うのも時間の無駄だ。
令嬢たちへの復讐をそうして終えた私は、兄とともに一日中シャラの側にいるようになった。熱で朦朧としているときも、寒さに震えているときも、シャラは私たちを潤んだ瞳にとらえてはふわりと笑う。無理をしないでいいのだと、笑わなくてもいいのだと、何度そう言っても笑って首を振って。
シャラはそのままどんどん痩せて、いくら食べても全てもどしてしまうようになって。そうしてもうベッドから起き上がることも出来なくなった日に、兄は初めて泣いた。もう駄目なのだと誰の目にも分かる程に容体を悪化させたシャラの隣で、いい大人の兄が泣きじゃくる。貴族らしさも威厳のかけらもなかったけれど、その悲痛な慟哭は今までの何よりもシャラへの愛に満ちていて、傍にいた私は涙をこらえることができなかった。
兄の、シャラへの愛情を。恋知らずだった伯爵の、狂おしいほどの恋情を。それを与えてくれた人がもうすぐ逝ってしまうことが、どうしようもなく悔しかった。
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―――そして今、私は眠るシャラの前で呆然と膝をついている。
「シャラ…?」
どうして?昨日、今日こそは一緒に夕餉を食べようと約束したのに。私と一緒なら食べられる気がすると、そういうから今夜はとっておきのメニューを用意したのに。夜は恋人と過ごしたいものなのだろうから、早めに食事にしようといったら嬉しそうに頷いてくれたのに。今日は調子がいいから、庭に連れ出してもらえるかもしれないと、そう言っていたのはシャラでしょう?
それに、今お兄様はここにいないのに。どうしても伯爵本人でないとできない仕事が溜まっていたから、サインだけしてすぐに帰ってくる予定なのだと聞いている。それを待たずに逝くなんて、シャラがそんなことするはずがない。きっと最期はなんとしてでも兄の前でと、そう言っていたのだから。――だから、これは嘘だ。
静かに眠るシャラからは、まるで美しい彫刻か何かのように生気が感じられない。眠っているだけのはずなのに、どうして。嫌だ、違う。そんなことは決して、
「シャラ、起きて…。夕餉を、食べましょう?ねえ、シャラ」
「…お嬢様、シャラ様はもうお目覚めにならないのですよ」
「嘘だわ!」
後ろからそっとかけられた声に反駁してキッと睨みつける。嘘だ。シャラがもう目覚めないなんて、そんなことがあるものか。絶対に、シャラは目覚める。そして私と一緒に夕餉を食べて、きっとデザートを食べる前に兄がやってきてシャラを連れていこうとして、怒る私に彼女はごめんなさいと笑うのだ。そうに決まっている、シャラが、このまま目覚めないなんてそんなこと。だって兄を愛していると言ってくれた。彼をおいて逝くわけにはいかないと、瘦せ細った顔にそれでも強い決意を浮かべていたのだから。だから、だから。
「―――――エリィ」
信じない、嘘だといったい何度繰り返したのか、不意に聞こえてきた声に私は目を見張って振り向いた。
「お兄様…」
「エリィ、そこを通して」
淡々とそう言った兄の顔を見て。恋知らずの伯爵だったころの、何の感情も浮かばないその瞳を見て。―――そこで初めて、ああ、シャラはもう目覚めないのだと悟った。これは夢ではないのだ。悪夢であれば必ずいつか目覚めが来るというのに、悪夢よりずっとひどいこの現実に救いはないのだと。だってシャラがいるところでは絶対に穏やかな微笑を崩さなかった兄が、笑っていない。シャラはここにいるのに笑わない。そんなの、理由は一つしかないだろう。
「どうして、シャラ…」
呆然とした私の横を、兄がすっと通り過ぎる。そのままシャラに触れんばかりに近づいたところで彼は床にひざまずいた。
「シャラ、俺だよ」
愛おし気に頬に手を添えて、それからふと微笑する。動かないシャラの髪をなで、指を絡ませ、そっとその耳に語り掛ける。何度も、何度も。ただひたすらに。―――兄の、彼女への愛情を伝えるように繰り返し繰り返し囁かれる愛の言葉。そしてぴくりとも動かないシャラの白い顔。
シャラ。堪えきれずに泣き出した私を振り向いて、兄は一言だけ呟いた。
「―――エリィ、下がって」
何故そんなことを言うのだろう、と不思議に思うほどに理性は残っておらず。言われるがままに下がった私の前で、兄はやにわに抜刀した。
「何を、お兄さ、まっ!?」
まさかシャラに何かする気かと色を失った私の前で、兄はその剣先を深々と己の胸に突き刺した。良く手入れのされた剣が、まるでゼリーか何かのように易々と兄の胸に飲み込まれていく。
「お兄様!やめて、やめてください!」
絶叫と呼ばれるものを上げたのは、きっとこの時が最初で最後のことだろう。目の前で起きていることが信じられない。なんで、どうして。がくがくと震える私の前で、やがて彼は相棒でもあったその長剣を、ゆっくりと引き抜いた。
「…………ッは、別に、死ぬ気じゃない。安心しろ」
「安心なんてできるわけないでしょう!?」
シャラと一緒に兄も逝くつもりなのか。二人で、私一人を残していってしまうのか。ぼろぼろと溢れる涙で歪んだ視界の中で、兄が笑う気配がした。違うよ、と。
「邪魔、するなよ」
そう言って。胸を貫いて息も絶え絶えになった兄が、緩慢な動作で立ち上がる。切っ先から己の血が滴る剣を掲げて、恋知らずの伯爵は微笑んだ。
そして。紡がれた言葉に、私は瞠目する。
「其は我が物にて神がものに在らず、神がものならざる者神が召すこと能わず…」
ぽた、と剣先から滴った血がシャラの頬に掛かる。―――と、その血はたちまち彼女に吸い込まれるようにして消えていった。同時に、ぴしりと音がしてシャラの体に薄い膜のようなものができる。
「お兄、さま。これは…」
これは。青ざめた私をちらりと見て、兄は黙ってうなずいた。嗚呼。眼前の光景にそこでようやく理解が追い付く。兄は心底シャラを愛していたのだと、そんなとうに知っていたはずのその事実が心を埋めてゆく。今ここで行われていることは、兄のシャラへの想いなくしては決してあり得ないことだから。
ぽたり、ぽたり。落ちてゆく血は、シャラの体を守るように消えてゆく。これは、禁術だ。魔力の有無は関係ない、ただ己が命をかける覚悟のあるものだけが使うことを許される、禁じられた魔術。ぴし、ぴしり。落ちた血は、透明な色を纏ってシャラの体を覆うように広がっていく。ゆっくりと氷に包まれていくシャラとその横に膝をつく兄を、私は呆然として見つめていた。
この術は、愛する者の命をとどめる。唱える呪文は、神を偽るためのもの。全ての生みの親足る神を欺き、この世の理から愛するものを連れ出すもの。避けられない死を避け、留められないはずの命を留めるこの魔法は勿論何の害もないものではない、この術を使ったものはその後、生涯ただ一人の相手しか見ることができなくなるのだという。
命をかけて守ろうとしたその相手以外が視界に入ってもその姿は見えず、他の人の声が耳に届いていてもその声は聞こえない。術が完成した瞬間から、兄の視界にはもうシャラしか入らない。その耳にはシャラの声しか、届かない。――それが、シャラを何としてでも失うまいとする、兄の覚悟だった。
「お兄様…」
「悪い、エリィ。伯爵位はお前に任せても、いいだろうか」
伯爵なんて七面倒くさいもの、絶対に引き受けたくない。昔そう言ったことがある。あれはいつの頃だったか、跡目はどちらにしようかとまだ健在だった両親に聞かれた時に私は絶対嫌だと言い切った。けれど今。あのとき、エリィが嫌なら自分が引き受けるから大丈夫だよと笑った兄が、それからもなんだかんだと言いつつ私の言うことを聞いてくれていた兄が、今初めて見せたその懇願に。
「もちろんです」
――――答えずして、どうするのだ。
カタカタと震える手を握りしめて笑ってみせる。シャラが兄の幸せだというのなら、それを求めるために私の力が必要なのだったら。私は喜んで伯爵になろう。それがどんなに苦しい道であったとしても決して弱音を吐いたりはすまい。必ず、何があっても必ず。
「後のことは心配いりません、だから、早くシャラを目覚めさせて。―――その、真実の愛で」
真実の愛。この魔法の名前だ。愛する者の懸命な叫びが、助かるはずのない命をつなぐ。けれど、たとえどれだけ愛していても人間はそれだけを追い求めて生きられない生き物だ。他のことに少しでも目を移した瞬間にその術は解け、術者は最愛を失う。そして、最愛を失っても他の人間は見えず、その声も聞こえることはない。
だからこの魔法は誰もが使えるものなのに禁術なのだ。成功の可能性は限りなく低い。成功したとしても、兄の世界はシャラだけになる。それが神を欺く罰で、だけど彼は躊躇いもなくその道を選んだ。―――その心を、妹たる私が継がないわけにはいかない。
「ああ。後は、頼んだ」
そう言って笑う兄の焦点が徐々にぼやけていく。シャラの体を氷が覆っていくのと同時に周りの人間が見えなくなっていくのだ。きっともう、兄の目に私はぼんやりとしか映っていないのだろう。ものすごく分の悪い賭けだ。数多の失敗例を見つけることは容易でも、成功例を見た者はいない。そんな禁術だけれど、でも。
「きっと、お兄様なら。待っていますから」
笑え。最愛の兄が最愛の人を救うというのであれば、残される私にできることは笑って見送ることだ。信じている、きっと兄ならシャラを目覚めさせて、そうしていつの日か二人で穏やかに笑うのだろう。だから、どうかきっと。
「ああ。―――ありがとう」
そのかすかな微笑みを最後に。それからもう二度と、兄の目が私を見ることはなかった。