第97回 仮想捜査ノート:マインドコントロール
金浩宇は写真で見たことがある。
精悍な顔付き、陽に焼けた肌、口元をきゅっとしぼり、目はカメラのレンズの先を見据えている。50余年使い古した顔に刻まれたシワの至る所に、将軍としての威厳が示されている、見る者を威圧する写真だ。
だが、それは過去だったらしい。
案内された薄汚れた廊下の先に不自然な装飾のドアをくぐる。
そこに座っていたのはでっぷりとした腹を抱え、顔の半分を覆うヒゲが好き勝手に伸び生えている初老の男だった。だけど、目だけは烱々と光り、CJとその後ろのわたしを射抜くように見定めていた。
「金将軍。つれてまいりました、真木村ナナミ対策官を」
金浩宇はおうようにうなずいた。
「入る、よろしい。座れ、そこ」
彼が大儀そうに持ち上げた右の手には、細工のほどこされた金の指輪があった。CJがわたしの腕を掴むと、金浩宇がさしたソファーへと乱暴に追いやる。
金浩宇は背もたれにからだを預け、じっとりとした視線をわたしの上から下へとそわせ、ぐうううむ、と不可解なうなり声をのどもとから響かせた。
電灯が胸元にいくつも貼り付けられた勲章を照らし、彼の腹が膨れるたびにわたしの顔に光が反射した。チャップリンの「独裁者」のシーンのようでわらいがもれる。
CJが、おいっ、とわたしに苛立ちをぶつけると、金浩宇は鷹揚にまた右手をふる。
「ミス・マキムラ、飲むか、ウィスキー、バーボン、紹興酒もある。どれにする?」
「ウィスキーをもらうわ、ストレートで」
また、ぐうううむ、とのどを鳴らし、CJにむかって人さし指を振る。
手早く琥珀色の酒精が準備され、品の良いガラス細工のグラスが目の前に置かれた。ガラス細工のブランドは知らない。だが、大戦のさなか、こんなグラスをいくつも用意できるところに、彼らの権力度合いが伺い知れる。
金浩宇は満月型の氷をからからと回し、鷹揚に杯を掲げた。
「偉大な高首相に!」
途端、CJと顔順は後ろにかかげられた高俊熙の肖像画に敬礼をする。
金は杯を勢いよくあける。
わたしは一気をする趣味はない。口にふくむと、ウィスキーの煙の香りが広がった。
つづいて喉を焼けつくように酒精が過ぎる。久しぶりだった、飲むのは。だが腹のなかに滴る琥珀色の液体を堪能するには、あまり興ののる雰囲気ではなかった。
「要望は聞いたか、CJから?」
「ええ。わたしは要望を叶えるように取り組む」
「マオウ熱、双頭の龍。どちらも重要。どちらもやれ。やってほしい。いいか?」
金浩宇が繰り返して訊ねると、わたしの両端にはCJと顔順が立つ。威圧をかけようとしてるのだろう。答えを間違えるなよ、と。
「ええ」
「すばらしい!」
金浩宇はそう叫ぶと、「すばらしい出会い、感謝、です、高首相!」と続けた。
ふたたびCJと顔順が敬礼。コントである。
金将軍の顔をみやった。
この手の人間とは幾度かやり取りをしたことがある。権力を傘に、恐怖で支配するタイプだ。高俊熙の名が口端にのぼるたびに写真に敬礼させるのは、マインドコントロールで有用なやり方だ。
真っ暗なトンネルに閉じ込められた人は冷静な判断を失う。
だが、細く暗いトンネルの先には1点の明りが遠くに光る。
閉じ込められた人間はそこに向かってまっすぐに走る。恐怖から逃げ出すために。
マインドコントロールはそれと同じだ。
たったひとつ、恐怖から抜け出す道を示し追いやる。
ただし、その光は決して正しい道だけではない。多くは罪悪感や後悔を伴わせるものだ。
だから、トンネルを抜け出しても、外のあまりの眩しさに再びトンネルへと戻ってしまう。罪悪感にさいなまれる共犯意識、そして自分の行動の正当化。ひとは恐怖に簡単に飲み込まれてしまうのだ。
それは、国家や宗教だけではない。会社や、学校、スポーツ、友達関係。すべては恐怖を支配したものが、人を支配する。
終末戦争前後は関係ない、人間の歴史で脈々と続けられてきた、宿命のようなものだ。
「金将軍」
「なんだ、ミス・マキムラ?」
「わたしは早急に、話を進めたい。マオウ熱のワクチンを提供してもらえるなら、我々も相応の対応をする準備をする。そのためには時間が必要」
わたしがまくし立てると、「口を慎め、女!」と顔順が怒鳴り声を挙げる。
だがすぐさま金将軍が、闭嘴(黙れ)! と声を飛ばす。
全身を瞬時に怒りが覆い、顔順を射殺すばかりの視線を向けていた。顔順は慌てて一歩、身を引いた。ポーズとしての怒りなのか、それとも、金浩宇は交渉ごとを邪魔されることに我慢がならないのか。
CJを呼ぶ。
彼は将軍の耳元で中国語を囁いていた。わたしの発言を訳しているようだ。わたしは同じことを今度は中国語で繰り返した。
金将軍が驚いたように、身を乗り出した。
ーーマキムラ、お前は中国語が話せるのか?
ーーええ、少しは。
そう答えると、ぐううううむ、とまたうなる。どうやら、これは笑っているらしい。
ーーそれなら、話がはやい。私たちの要望はお前も認識している。その要望を叶えるためにお前は動く。それがいい。日本にとって、それが最善だ。
ーーだったら……
ーーお前は孫武の兵法を読んだことがあるか?
ーー「孫子」ね、あるわ。
ーーもっと孫武に学ぶがいい、日本人よ。戦いは勝つべくして勝つのだ。今はその時ではない。
ーーその時では……ない?
将軍、とCJが話しかける。金浩宇はじろりと視線で部下を制す。だが、CJはひるまず、手元のモバイル端末の画面を畏怖の対象へと差し出した。
ーー喜べ、マキムラ、お前の望みはすぐにでも叶うことになりそうだ。
そういって破顔すると、瞬間で笑みを髭面の奥に隠し込んだ。
ーー事態がうごいた。我々の真髄を見せてやろう、日本人。