第76回 世界平和とぼやけた男
ぼくらは先生と生徒の関係から変わったことはない。
本当にない。
本当だってば。
ただ一度だけ、揺らいだことはある。
あんまり天気のいい日ではなかった。まゆちゃんから「好き」と告白された。世界崩壊危機のおわりのころのことだ。くわしく話すのはやめておこう。ひとつだけちゃんといっておくと、ぼくはお断りした。話はそれっきりでおしまい。
終末戦争の終結から学校が始まるまで、まゆちゃんとは連絡を取っていない。あんな事態の真っ只中だ、気持ちの混乱もあっただろう。戦争が終わって平和がおとずれれば気の迷いだった、ふりかえって「もうやめてよー」と顔を真っ赤にするような笑い話になるものだとおもっていました。
だから、それは幻聴だと思った。
でも背中に伝わる体温は、ウソや勘ちがいにするにはあまりにあつくて、たしかだった。
まゆちゃんの気持ちに答えられなかった……答える間も与えられなかったんだ。ぐるりと回した腕をはなすと、まゆちゃんは職員室を出ていった。出ていってといわれたのに、ぼくはその場に取り残された。
焼き付けるような日差し、煮え立つような室温、背中に残る体温、脳みそをオーバーヒートさせるのには十分だ。
校舎脇の水飲み場の蛇口をひねり、ちょろちょろと垂れでるひと筋のみずにあたまをつっこむ。なまぬるいみずの温度がほてったあたまの熱をゆるやかにうばっていく。排水口にながれる透明な液体と熱とまとめて、ぐちゃぐちゃとした気持ちもながれていけばいいのに。そう考えていた。
正直、自分におどろいていた。
なんでこんなに動揺しているんだろう? あのときは冷たく、まゆちゃんの気持ちをことわったんだ。ことわれたんだ。それなのにいまはどうだ。彼女の腕がぼくのこころを真綿のように、やわらかく締め付けていた。
空をみた。日のかたむきにかすかな色を帯びているけれど、とおくの雲の一片をのぞいて、どこまでの抜けるような夏の空が目のまえにあった。
腹の奥でぐねぐねととぐろを巻く重苦しい気持ちを、ちからいっぱいにこね固めて、とおくの白雲の、その彼方へ放り投げられたらどんなに気持ちいいだろう。
そんなことを考えながら、ぼくはひとつだいじな人生の教訓をえた。
男が恋愛にこじれると、面倒である。
くそくらえ。
※ ※ ※
「サクラサン、ですね?」
片言の日本語に呼び止められたのは商店街の路地をひとつ折れたときだ。あたりは静まりかえっていた。ひとっこひとりいない。雑踏はとおく、コンクリートの風景のなかにはぼくと声の主だけだった。図られたような場所とタイミング。もちろん、図ったんだろうけれど。
「サクラユウタサン、ですね?」
声の主はすらりとした長身の男だった。
夏なのに長袖のシャツを着ている以外は営業かえりのサラリーマンのようだ。顔をかくすような帽子もサングラスもメガネもマスクもしていない。それなのに彼の顔はまったく頭に入ってこなかった。アジア系の顔だという以外、まるでピントのずれた写真のようだ。ただひどくだるそうで、面倒臭そうで、ねむそうだった。
「あなたは?」
「あー、シンパイしないでください。ワタシはあなたのテキではない」
男は手を肩まで上げるしぐさを見せた。攻撃の意図はないアピールだろう。それぐらいわかる。そのつもりなら声をかけたりしないし、もっとやる気をだしてほしい。
「ワタシはあなたにハナシがあってきたのです。とてもダイジ。このハナシはあなたにとてもハッピーをもたらせます。あなたラッキー」
「その割には、ずいぶんな場所ですね」
「シカタない。ワタシがあなたにチカづくこと、むずかしい。ワタシはあなたにプレゼンテーションしたいだけ。ワタシたちにキョウリョクしてくれれば、あなたとワタシたちはとてもハッピー。あなたはセカイイチのシアワセをてにいれる」
景気のいい話のわりに男の顔はひどく暗く、世界の果てに幸せを置きわすれてしまったようだった。そして、ときおり、あくびをかみ殺すようにはなの穴がひくひくとうごく。ほんとう、やる気あるのかな。
「悪いんですけど、世界が平和なこと以上のハッピーはありません。よそを当たってくれませんか?」
「あなたがそうコタえると、わたしたちはわかっていました。(ここでも彼はあくびをした)……でも、あなたはわたしたちのことをしらなければいけません」
「あなたたちのこと?」
「イエス。サクラさんにとって、なによりもダイジ」
「そんな景気のいい話なら、俺らにも教えてくれないかな」
男の後ろにラフな格好の若い男がたっていた。
ナナミさんの部下だ。
銃口を男に向けていた。
いつものふにゃふにゃしたすがたとは似つかない。
彼が言い終わらないうちに、ぼくとぼやけた男をへだてるように路地裏には捜査官めいたひとがひしめいた。
取り囲まれた男はぐるりと見回すと、ゲームで降参をするかのようにあっさりと両手をこめかみあたりまで持ち上げた。すかさず、ナナミさんの部下は左腕をくるりとひねって取り押さえた。
「佐倉くん、大丈夫かい」
「はい、おかげさまで」
「そりゃあなにより重畳。ま、人類最強に大丈夫かもあったもんじゃないけど、警護対象者の状態を確認することは我々の責務なんだ」
「警護対象者」
「そう、警護対象者」
ナナミさんがこんなにはやく警護に力をいれるとは思ってもみなかった。相変わらず仕事がスピーディ。そして結果を見れば、判断は正確無比だ。
最近は直接の接触はなかったから油断していた。
ナナミさんの部下さんは組み伏せた男にいろいろな言葉で問いかけた。何語かわからないけれど、発音的には6個ぐらいの言葉で問いかけているみたいだ。でも、男の表情はぴくりとも動かない。組み伏せられている腕のこわばりを見れば、相当の力で抑え込まれているはずなのに痛みを感じないかのようだ。時折するどく鼻で息を吸うだけが彼の反応だった。それも、なんだか眠いだけのようだ。
「だめだね、さっぱりわからない」
部下さんはまわりの捜査官に視線を投げかける。捜査官たちもちいさく首を振る。手持ちの荷物からも男の正体をさぐれるものはみあたらなかった。
「サクラくんは、この男に見覚えがあったりするかい?」
「いいえ、さっぱり」
ぼくも首をふった。見覚えどころか、男の顔をしっかりと見られてもいない。かがみこんでもう一度顔をまじまじと見たけれど、やっぱりわからなかった。
ただ……奇妙なひっかかりがあった。それがなにかは、わかんない。
男は目をつむり、ぜんぶの情報をさえぎっているようだった。
「俺らはこいつを本部に連行する。で、あとでナナミさんから呼び出しがある。だいじな予定がなければ、いつでも来れるようにしておいてくれない?」
「はい、わかりました」
オッケー、重畳。
部下さんはそう言ってにこっと笑ってみせた。
ただ、最速最適な対応が果たして最善だったのかはあとからおもえば疑問符がついた。
ぼくと男が話をしていれば、もしかしたら物事はもっと別の方向に向かっていたかもしれない。いいか悪いかはともかくとして。
ぼやけた男は連れ去られ側、またひとつおおきくあくびをした。
「ふわーっ」




