神話の存在
「……痛っ」
後頭部に走る鈍い痛みに耐えかね、僕はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井でも、学校の教室でもない。見上げれば、青々とした葉を茂らせる巨木たちの隙間から、二つの月が怪しく輝いていた。
「……は? 月が、二つ……?」
体を起こし、ポケットを探る。スマートフォンを取り出してみたが、画面の上部には『圏外』の文字すらなく、バッテリーのアイコンが力尽きたように赤く点滅していた。
状況が理解できない。通学路を歩いていたはずだ。角を曲がった瞬間、視界が白い光に包まれ、そのまま意識を失った。
「……夢、か?」
ほっぺたを強く抓ってみる。激痛が走り、思わず涙目になった。夢じゃない。だとしたら、ここは一体どこなんだ。
ガサガサ――。
不意に、すぐ近くの草むらが大きく揺れた。身を構えるヒロの視線の先から現れたのは、犬……いや、体長が二メートルはあろうかという漆黒の狼だった。その口からは赤い唾液が垂れ落ち、ギロリと光る赤い瞳が僕を捉える。
「ウゥゥゥ……ガアッ!」
「ひっ――!?」
狼が地面を蹴り、鋭い爪を剥き出しにして躍りかかってきた。逃げなきゃ――そう頭では理解していても、恐怖で足がすくんで動かない。
死が、目の前に迫る。
(ここまで、なのか……!)
僕はギュッと目を閉じ、襲いかかる衝撃に備えた。
「――ハァッ!!」
凜とした凛々しい叫び声が、静寂な森に響き渡った。
ドスッ、という鈍い音とともに、目の前で温かい液体が飛び散る。恐る恐る目を開けると、漆黒の狼は胴体を真っ二つに断たれ、地面に崩れ落ちていた。
その怪物の前に立っていたのは、一人の少女だった。
月光を浴びてキラキラと輝く美しい銀髪。繊細な彫刻のように整った顔立ちに、手に握られた一振りの美しい長剣。彼女は剣についた血を払うと、ゆっくりとこちらへ振り返った。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか……っ!?」
僕を気遣うように駆け寄ってきた彼女だったが、僕の顔を正面から捉えた瞬間、ピタリと足を止めた。まるで時間そのものが止まってしまったかのように、彼女の藍色の瞳が驚愕に見開かれる。
「え……あ……? つ、角もない……胸の膨らみもない……肩幅が広くて……声が……」
「あ、あの……助けてくれてありがとう。僕は――」
「ひ、ひゃいっ!?」
僕が声をかけると、彼女は跳び上がるように跳ね起き、真っ赤な顔で数歩後退りした。剣を握る手がガタガタと震えている。
「な、なんですかその低くて心地いい声は……!? それに、その体つき……まさか、あなた……『男』……なのですか!?」
「え? 男だけど……それが何か?」
「〜〜〜〜っ!?」
僕の当たり前すぎる返答に、彼女は耳まで真っ赤にし、まるで爆発しそうなほど顔を加熱させて立ち尽くした。
「そ、そんなの……あり得ない……! 『男』なんて、何千年も前の神話や童話の中にしか存在しない伝説の生き物のはずなのに……っ!」
彼女――エリスと名乗る少女の動揺は、僕が思っていたよりも遥かに深刻なものだった。
そして、彼女に連れられて辿り着いた森の出口で、僕はさらなる衝撃の光景を目にすることになる。
広大な城下町に行き交う人々。野菜を売る店主も、馬車を引く御者も、重厚な鎧を着て街を巡回する兵士たちも――全員が、例外なく「女の子」だった。
「……待ってくれ、もしかしてこの世界って……」
「ええ……この世界には、女の子しかいません。あなたが、唯一の『男の子』なんです……!」
エリスは上目遣いで僕をチラチラと見つめながら、上気した息を吐いた。
僕と彼女の距離は、まだほんの少し開いたまま。だけど、彼女の視線には隠しきれない胸の高鳴りと、未知の存在に対する愛おしさが混ざり合っていた。
全員が女子の世界で、僕のちょっと甘くて異常な異世界生活が、いま始まった。




