第七話 ~清洲城攻略戦開幕~
「斉藤家との同盟に反対し、織田信長と対立していた平手政秀が隠居した。
近いうちに、織田信長は斉藤利政と同盟を結び、美濃の兵力を尾張へと招き入れるだろう」
その噂は、瞬く間に尾張の支配階級に広まっていきました。
そして、尾張の国人衆たちは、実際に、那古野城において平手政秀の姿が見えなくなったことから、その噂が真実だと判断していったようです。
それは尾張の守護代である織田信友や織田信安も例外ではありませんでした。
美濃・斉藤家の兵力が尾張へと入ってくるのは、彼らにとって、今川家が尾張へと兵を入れてくるのと同程度の脅威です。
自然、彼らは、彼らなりに、それに対する対抗手段を取らざるを得なくなります。
誰が流したかもしれない噂によって、再び、尾張では戦の気配が漂い始めました。
「……二重・三重の謀略とは、こういうことを言うのですね。
踊らされている彼らが哀れでなりません」
とは、私の旅先での感想。
実際には三重の謀略どころではなく、五つ先まで見据えた政略だったわけですから、これを考え出したあの二人は凄いです。
そして、その状況で真っ先に動いたのは、やはり、というべきか、織田信友でした。
いや、彼にとって見れば、動かざるをえなかった、といった方が真実に近いかもしれません。
萱津の戦いで大敗し、政治的権力を失墜させてしまった彼にとって、ここで斉藤家からの援軍によって信長の兵力が増強されることは政治的・軍事的に詰んだに等しいことだったのですから。
彼は、曲がりなりにもあの織田信秀を配下に押さえ込めることが出来るほどに優れたその政治力を駆使。
斉藤家の影響力が尾張で増加することを嫌う勢力や反信長の勢力を糾合し、斯波義統を盟主とした同盟を結ぶことに成功します。
斉藤道三と織田信長の同盟が結ばれる前に、信長との決着を付けることがその目的でした。
驚くべきことは、この同盟に岩倉織田家が参加したことでしょう。
岩倉と清洲の二家に分裂した後、抗争を繰り返していた両家が、再び斯波家の下で手を取り合ったと言うことなのですから。
逆に言えば、それほどまでに、斉藤道三の影響力が尾張で増加することを嫌う勢力は多かった、ということでもあります。
その総兵力は3000を超え、勝敗は誰の目にも明らかであるように思われました。
少なくとも、織田信友は、状況をひっくり返せた喜びと共に、勝利を確信したことでしょう。
信長の兵力は800、織田信行や織田信光などの兵を合わせても2000に届きません。
まして、その中で最大の戦力を誇る信行派が、潜在的に反信長派であることを考えれば、実際の戦力は更に下がります。
両軍が正面から激突すれば、信長軍が負けるのは確実でした。
勿論、そのことは信長自身もよく理解していました。
そう、正面から激突して負けるとするなら、正面から戦わなければいいのです。
そして、信長がその為に利用した物は【時間】でした。
恐るべきことに信長は、織田信友が兵力の動員を終えるよりも早く、配下の常備軍800を率いて、清洲城を急襲したのです。
織田信友にしてみれば、正に、寝耳に水、という他なかったでしょう。
如何に信長の軍が常備軍で、その動員速度が速いとは言え、これは異常なことでした。
そもそも、先手を取って、先に兵力の動員を始めたのは織田信友です。
本来なら、後手に廻った信長は、織田信友が行った動員に気が付いてから、兵力の動員を始めなければなりません。
如何に常備軍の動員速度が速いとは言え、動員を始めるときには既に相手はある程度の動員を終えていることになるのですから、それよりも早く攻撃を仕掛けるなど不可能だったはずなのです。
当たり前ですが、この信長の神速な行動には、信友が知るはずもない仕掛けがありました。
信長は、信友らが挙兵することを知っていたのです。
より正確に言うのなら、彼らを挙兵させる為に、態と斉藤家との同盟の噂を大々的に流したのが信長でした。
それ故、信長は、相手方が宣戦し、しかし、兵力の動員が終わっていない、という絶妙なタイミングで攻撃を仕掛けることが出来たのです。
居城を急襲された織田信友は仕方なく、既に彼の元に集まっていた僅かな兵力で篭城することを決断。
岩倉織田家を中心とした援軍が来るまで、持久戦を行う構えを見せます。
それに対して信長は、動員速度の差から数日後に遅れてやってきた織田信行軍と織田信光軍に清洲城の包囲を任せ、自身は配下の兵力800と柴田勝家を大将とする信行軍からの援軍300、それに森可成ら国人衆200を率いて北上、尾張上四郡を目指しました。
これを見た、岩倉城城主であり、尾張上四郡の守護代である織田信安は、周囲の豪族を何とかかき集めて編成した兵1200名を引き連れて出陣。
これは、
岩倉城に篭城した場合、清洲・岩倉の両城が包囲されることになり、対信長同盟の主柱が折れたに等しいことになってしまうこと。
戦が長期化した場合、斉藤家や今川家の介入がありえること。
同盟軍の集合予定地が清洲城だったために、岩倉城には、平時の備蓄しか備わっていないこと。
同数ならば、勝てる可能性も見出せたこと。
など、様々な要因が理由として上げられます。
そして、両軍は対陣。
予想では3000対2000と言われていた兵力差は、気が付けば、1200対1300と逆転していました。
やがて、両軍は激突。
数の上ではほぼ互角とは言え、信長軍を率いているのは、織田信長、柴田勝家、森可成、佐久間信盛など後世にまで名を轟かせる名将達であります。
如何に、信長式の常備軍が弱兵とはいえ、彼らが負けるはずがありませんでした。
戦は二刻ほどで、信長軍の勝利と言う形で決着。
敗北した織田信安は、命からがら岩倉城まで落ち延びます。
しかし信長はある程度の追撃戦を行うと、それ以上の深追いは止めて清洲城の包囲へと引き返してしまいました。
清洲城の包囲だけでなく、この機会を狙って動き出した今川家の尾張派遣軍を掣肘する必要があったためです。
そして、今川家との小競り合いを起こしつつも、清洲城の包囲を続けて一月後。
一人の使者が尾張を訪れます。
それは、尾張を巡る争いが新たな段階に入ったことを意味するものでもありました。
更新が遅れに遅れてごめんなさい。
約束やぶってごめんなさい。
それと、当分、感想の返信はできないと思います。すいません。