Prologue - 或る日の夢
目が廻る。視界がぐにゃりと歪み、息が上がり、もはや立つこともままならない。しかし、足を止めることは許されなかった。街灯が点す淡い白色光のみが頼りな漆黒の中、俺は必死に走り続ける。
「待テヨ——死ネ——死ネ——ッ!」
背後からはそんな呪罵のような言葉が聞こえてくる。その声は、不快なノイズのように揺れており、足音はしないが、段々と、着実にこちらへ近づいて来ているのは理解できた。
「来るなっ!」
必死に叫ぶも、そんな声は相手には届かない。そも、相手は人間なのか、亡霊なのか、化け物なのか。それすら分からなかった。
というか、俺は本当に走っているのか? 何処を? どのように?
急に足下が消える。地面も、街灯も消える。赤緑青がすべて零に振り切ったような暗闇は何も映さない。しかし、依然として背後に付き纏う声は消えてくれなくて。頭がかち割れそうになる呪いの言葉は、確実に俺の精神を蝕んでいった。
「——っ!?」
もはやただの感覚でしかないが、首元に冷たい何かが押し当てられたような気がした。背中らしき場所と額らしき場所に汗がたらりと垂れるのを感じる。そんな時だった。
「やっほー、穂月くん! 元気してる?」
完全な無から水蒸気が昇ってくるようにして現れたのは、どこかで見たことがある少女だった。俺の名を呼ぶ栗色ゆるふわウェーブな彼女は、明るい声と表情をこちらに向ける。俺のどこをどう見て元気だと思えるのか。というか、彼女は俺が見えるのか?
彼女はふよふよと浮き続け、常に必死に走る俺の斜め前に居る。ああもう、なんなんだこいつは。相変わらず甲高い声で俺に話しかけてきているみたいだが、背後の奴からの言葉と混ざり合って聞き取れず、むしろ頭痛を悪化させていた。
本当、一体全体俺が何をしたというんだ。悪夢なら......悪夢なら覚めてくれ——
「——おや、穂月くん。あなた今、『悪夢が消えてほしい』と願ったね?」
そう願ったのも束の間、目の前の少女は悪戯な笑みを浮かべながらそう問うてくる。何故だか、その声ははっきりと聞こえてきた。
「ああそうだよ、言ったよ。誰でも何でも良いからどうにかしてくれ!」
そう告げると、今度はぱあっと顔を明るくさせ、少女は徐にその小さな手を合わせた。
......ああ、その姿を見てようやく思い出した。こいつはいつもこうして、俺の夢を——
「それじゃあ遠慮なく。いっただきまーす!」
——とても美味しそうに食べるんだ。




