蛍はいつも泣いている 6
どこをどう走ったのか。とにかく無我夢中で廊下を駆け抜けた。
気がつけば蛍は校舎の片隅で、はぁはぁと荒い息をついていた。
「くっ……ううう、うわぁあぁぁぁ」
泣いた。
声を出したくなかったが、堪えきれずに嗚咽が漏れる。
ぐるり
ゆっくりと世界が回り始めた。
ぐるり ぐるり
世界がぐるぐると回り始める。突然やって来た眩暈に蛍は立っていられず、両膝をつき、四つん這いになった。
「うっぷ」
胃液が逆流して口中に酸えた味が広がる。
蛍は目を閉じ、胃液を強引に飲み下す。
いじめは、体調を崩した蛍が学校で嘔吐したのがきっかけだった。それ以来、さっきのように『ゲロ吐き女』とか『臭い』とか言われるようになったのだ。だから、もう学校では絶対に戻さないと心に誓ったのだ。
全身に冷や汗をかきながら吐き気に耐えていると、少しずつ世界の回転がゆっくりになり、やがて止まった。
「ふぅ ふぅ ふぅ」
ばくばくと暴れる心臓が落ち着くのをじっと待ちながら、蛍は自分の腕の内側を見た。
細かなぶつぶつが浮き出ていた。
蕁麻疹
激しい眩暈と吐き気が治まると、今度は全身に赤い斑点が浮き出て痒くなる。
蛍はそっと頬を擦り、顔にもぶつぶつが出来ているんだろうな、とぼんやりと思った。
痒みはそれほどでもないから、我慢するのは辛くない。しかし、見た目が最悪だった。
これもまた、いじめの原因の一つだった。
詰まるところ、ゲーゲー女とかブツブツ女と言われても、あながち間違ってはいない。だから、だからこそ、余計に悔しく、悲しくなった。
目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
先程の激情の涙とは異なる悲しみの涙だった。
「ここにいたのか」
背後から突然声がかけられた。
「教室に戻るぞ」
蛍には声だけでそれが誰なのか分かった。分かったから敢えて振り向かない。
「嫌っ」
蛍は拒絶する。
声が震えて、泣いていたのを感づかれるのが嫌だったが、声の主である、健は既にばれているのだろう。でなければ、こんなところまでわざわざ探しには来ない。
そう思うと全身が熱くなった。
不意に健に肩を掴まれ、振り向かさせられた。健の心配そうな顔が蛍の視界に飛び込んできた。
「嫌だって言ってるでしょ!」
蛍はあわててその手を振りほどき、健に再び背を向けた。泣き顔と顔に出ているであろう蕁麻疹を見られたことに、蛍は半ばパニックに陥る。背中を丸めてしゃがみこみ、手足を亀のようにきゅっと縮こませた。
そんな蛍に健はなにも言わなかった。だが、去っていくわけでもない。ただ、じっと蛍の後ろに佇んでいるのが気配で分かった。
「こっち見んな」
一向に動かない健に蛍は理不尽なイライラをぶつけた。
「あいつらはぶん殴っておいた。
落書きも消しておいた。だから、教室に戻ろう」
「……余計なことしないで」
健の言葉に対して出てきたのがそんな憎まれ口だったのに蛍は、ほとほと自分が嫌になった。しかし、一度口から出てきた憎まれ口は止まるところを知らない。
「そんなことをしたって、あんたがまた先生に叱られるだけじゃない。
馬鹿なの?
いい加減、私のことなんて放っておいてよ」
しかし、そんな憎まれ口を投げつけられても健はなにも言わない。
私はただ単に甘えているだけだ、と蛍にも分かっていた。分かっていながら、なおも見当ちがいな怒りを健にぶつけてしまう。ぶつけられずにはいられない。
私は小さい
小さくて 卑怯で 醜い
比べて健は 大きい
大きくて 優しい
そして、そんな存在にすっぽりと包まれて安心しようとしている、いや、安心している自分を蛍は明確に自覚していた。
正直、本当はそんなところに収まる資格なんてこれっぽっちもないという、葛藤もある。
それでもそのここによさは極上の蜂蜜のようなねっとりした甘さがある。その誘惑に蛍は抵抗できない。
気づけば、あれほどお腹の辺りでぞわぞわしていた気持ちがストンと落ち着いた。
全身に感じていたヒリヒリした痒みも潮が引くように収まっていった。
また、私は健に助けられた
後悔と優越感がないまぜになった複雑な感情の中、蛍はそう思った。
■
「お前たち、どこに行っていたんだ!」
教室に戻ると、蛍と健は担任教師の怒鳴り声で迎えられた。
「海道!
お前、またやりやがったな!」
教師の怒りの矛先はもっぱら健に向けられていた。
「理由もなく立見たちを殴ったと聞いたぞ。
今度という今度は許さないからな。こっちへこい!」
教師は有無を言わせない勢いで健の腕を掴んだ。
「先生、それ違います」
抗議の声を上げたのは蛍だった。しかし、教師はかえって、ものすごい形相で蛍を睨み付けた。
「堂本、お前は黙っていろ!
二人でぐるになって先生を言いくるめようとしたって駄目だからな。
先生は他のみんなからちゃんと聞いているんだ。
お前はさっさと席につきなさい。
いいか、他のみんなもしばらく自習しているように。
それで、海道。お前はこっちへ来い!」
教師は健を連れて外へ出ていった。
一人残された蛍は仕方なしに自分の席へ戻る。途中で、瑠璃果や立見たちのくすくす笑いが耳に障ったが、頑張って無視する。そのせいか、ストレスで体がざわざわと粟立つ感覚がした。
ぐるり
世界が再び回りだす、あの感覚が再び舞い戻るってきた。眩暈を懸命に押さえ込み、ほとんど机にしがみつくように体を机に投げ出す。
ピチャリとした感触が頬を濡らした。
訝しげに蛍は机へと目を向ける。
確かに落書きは綺麗に消えていた。健が一生懸命雑巾で拭いてくれたのだろう。たっぷりと水を含んだ雑巾で懸命に机を擦っている健の姿が目に浮かんだ。
お陰で机を水でベタベタに濡れていた。
「ぷっ」
余りの『らしさ』に蛍は思わず吹き出した。
「あいつ、雑巾で拭くならもう少しきちんと絞ってよ……」
蛍は一人呟く。健のことを思うと、さっきのようにお腹がストンと落ち着き、世界も固まり、動き出すことはなくなった。
また、この感覚
蛍は自分の胸にそっと手を当てる。そこから甘く、苦い感情が流れ出てくるのが分かる。
この不思議な感情を味わえるなら、教室に一人ぼっちにされても良いかもと、少し本気で蛍は思うのだった。
2019/09/29 初稿




