(七)
羅冴流は淡々と井戸から水をくみ上げたあと、言い訳をする間もなく無乃の手を指先から指の間まで丹念に洗い始めた。
ついに夜が明けてしまったので無乃はひどい眠気に襲われていた。
「ほら、羅冴流、老僧のところへ行ってきてくれ」
羅冴流の熱心さはまるで皮膚をこそぎ落とさんばかりの勢いなので、無乃は手がなくなってしまうよと微笑んだ。それでもやめようとしない羅冴流に、無乃がそっと腕をおさえる。
「あまりやりすぎても、痛いだけだ」
羅冴流の顎をつまみもち、真っ直ぐに視線を捉えた。思いのほか熱っぽい眼差しがすっと無乃の瞳に落ちたために少しどきりとして、思わず過った動揺を誤魔化すように咳払いをした。「手に傷があってね、大したことではないけれどあまり強く擦られると痛いんだ」
「消毒は」
見落としたと言わんばかりに顔を近づける羅冴流に微笑んだ。
「昔とある霊山で修行をしてから無病息災のご利益を賜り、それきり病の鬼は近づかなくなった。だから私の身体は健康体だし、どんな傷だろうと膿んだりはしない」
「君が、晩景門の主座として医術に長けているのは、もしかしてそのせいか」
けしかけようとする羅冴流の言葉に、無乃はふと言葉に詰まった。
なんだ?
胸の中にやわらかく浮かんでいた暖かなものが捻りつぶされたような違和感に戸惑う。今更晩景門の主座と言われて傷つくはずがない。一体何が嫌だと思ったのだろう。悩ましげに瞼を伏せるが、表情には少しとその戸惑いをあらわしはしない。
「人より多く治療を受けてきたから、その真似をしているだけだよ」
「死にかけの老人も救ったとか」
すました顔をして内心ではこの会話のきっかけを待っていたように思える。
ふふん、と無乃は鼻高々に微笑んだ。
「手を握るか? 久しぶりに私を尋問にかけたいみたいだ」
体温と夏の陽ざしにぬるくなっていく水の中で、羅冴流は無乃の指先をゆるく握っていた。やがて唇に微笑を浮かべて名残惜しいというように手を離す。
「……君には無意味だ。老僧から話しを聞いてくる」
羅冴流のにっこりとした笑顔に無乃は拍子抜けし、同時にほっとした。水に濡れた手を桶から引き抜いて息を吐く。建物の影へと消えていく羅冴流の濃い影が、日だまりを宿す柔らかな草の上を過ってすぐに見えなくなった。
「もっと踏み込めばいいものを……」
羅冴流が見えなくなってもしばらく無乃はそこにいた。やがてぽつりと呟く。
「私が晩景門の主座だと心では思いながら、どうして尻込みするのかな」
認めたくないというわけではないはず。疑うということはやはり確信もあるのだから。そのひずみをこじ開けてしまえばいいものを。彼なら簡単だろう。念願も果たされる。
無乃は鮮烈な陽ざしに瞼を伏せ、ゆっくりと廊下を歩いて張菫の部屋へ向かった。
部屋の中でみたものは口外してはならないというが、けれどそのわりに変哲のない部屋だ。棺と猫、そして猫の餌、敷き詰められた朝顔は確かに一見不気味だが、これらをどうして口外してはならないというのか。
むしろ他に隠しているものがあるとしか思えない。
無乃は張菫の部屋の中で立ち尽くす。
朝顔の青の中で、そのまっ白な棺は目をひく。
猫を抱き上げられるだけの隙間しか開けていなかったのだから、しっかり奥深くまで確認したわけではなかった。それに、子猫が入っているだけなら強烈な臭いなどこぼれてくるはずもない。
無乃は薄ら寒さを覚えながらも棺の蓋を押し開けていく。今度はしっかり内部を確認するために。窓から射し込む陽ざしに照らし、何一つと見逃すことがないように。
ゴト、と蓋が落ちた。
箱の縁から恐る恐る覗き込み、うっと息を止める。目が沁みるほどの凄まじい臭い。
「……なんだ、これは」
人の死肉を食う無乃という猫。その子猫が飼育されていたのは棺の中。棺の中には、土人形のような得体の知れないものがおさめられていた。
おそらく張菫の白い足だろう。それが胴の下に続き黒ずんだ足の隣に並んでいる。腐りかけた両腕と、崩れた顔には目玉が――
あ――、
と、無乃は気づく。
一つ足りない……
「確か張浮、私の目を気にしていたような……」
それに、張浮が怪我を負った足は、この土人形にはない方の足だった――




