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無道無乃  作者: 海原津子
朱花に染まる
32/43

(五)

 味気ない夕食だったために無乃(ウーナイ)の空腹は満たされないまま夜が更けていた。

 夜色つまびく涼しい風が星を奏でる清々しい夜。豊かな草の香りにじゃれついていた子猫は月に見守られてあぐらの上で眠っている。


 鞠のように丸まった小さな身体を、無乃は弦を鳴らすように優しく触りながら、張浮(チャンフー)はどうやら今更、盗賊業から足を洗ったようだとどこか高いところから見おろすように感心していた。

 張家の食卓はほとんど空に等しく、町へ行った方がまだ美味しいものにありつける。朝はどこか民家でもたずねて茶碗一杯だけでもお相伴にあずかるべきだろうか。


 そんな風に明日の食事を気にして無乃は身体を後ろに倒す。

 膝の上の猫を起こさないように足を立てて横になった。

 金菊(チンチュイ)の墓地から戻った後は疲労困憊にして崩れるようにすぐに眠れた。直後に小来がやってきてしまったから、休めたのはたった数十分ほど。


 あのときは隣に羅冴流(ルオフーリウ)がいて、清潔な寝台と、綾を織る美しい風に薄絹が揺れ、その光の彩りが羅冴流の逞しい身体にまつわり、薄らいでいく静かな風鐸の音と、湖と松の、新しいあの匂い……

 ぷっつりと失神するように眠った羅冴流の寝顔、体温の高い手がすぐそこにあった。

「……剣客らしい、胼胝だらけの、手だったな」


 無乃は自分の手をそこに重ねるようにして空に掲げてみせた。無骨で張りがあり、意外と器用そうな手が、無乃に触れるときだけやたらとためらいがちで不慣れなものだから、わざと揶揄ってしまいたくなる。


 ようやくうとうとしはじめてそのまま寝入ろうと瞼を閉じたとき、膝にいた猫が突然愛らしい声で鳴いた。無乃はほとんど夢を見ながら猫に優しく手を伸ばす。

「無乃……どうかしたか?」


 自分と同じ名前なんて、張浮は本当に何を考えているのだろう。

 子猫は天井に向かって目一杯身体を伸ばしていた。その小さな身体が、不意に横から現れた腕に抱き上げられた。

 はっとして目を覚ます無乃は、太い指と手の甲に浮き出た筋、そして見覚えのある淡い夕闇のような衣の色に一気に冷静になっていた。


「――羅冴流」

 飛び起きかけた無乃の身体は逆に床へと押し戻され、抗議しようとした頭に間髪入れず布が被せられた。

「これはなにかな、羅冴流……!」


 まさか窒息させるつもりだろうか。絡まった布を慌てて取り払う手がぐっと引き掴まれて、思わず竦んだその親指に冷たい感触が戻っていた。

 指輪だ。


「布を、とらないで……」

 苦いため息を吐かれると予感していたから、むしろそれとは真逆、月の明かりさえあまりにも優しく降りそそぐので、切望する羅冴流の声もさらに甘くなるようだ。無乃は布をとろうと格闘していた力をはたと抜いて困ったように微笑んだ。


「とるなって、なぜ?」

 羅冴流は若干言い淀んだようだ。

「……汚れてる」

 汚れを気にするのか?


 確かに、羅冴流は我氷津とならんでもどこか洗練されていた。衣服が汚れたままでいるのは彼の誇りを傷つけるのだろう。無乃はふっと笑みを零し、ならしかたがないと顔を覆ったままゆっくりと起き上がった。

「まだかかると思ったよ」

「君を見つけるのは容易い」


 急いだのだろう。手を握る羅冴流の指先がほんの僅かに強張り、息はまだ少し上がっている。無乃はその唇にそっと指先を近づけて、どれほど走ってきたのだろうかと探っている。

「君には、少し手強かったんじゃないのかな」

「どんな姿だろうと、たとえ死んだとしても君を見つけるよ」


 荷華幇の情報網は侮れないなと無乃は息をつく。

 ――本当に見つけるとは、思わなかったけれどね。

 無乃は頭の布ごと頭をかきながら、今度は羅冴流の腰を指さした。


「君が来たらお願いしたかったから、丁度よかった。もしその剣が飾りでなければ、あの老僧になぜ私をここに連れてきたのか、丁寧に聞き出してくれないかな」

「剣を指さしながら、丁寧にだと?」

「そうだよ、くれぐれも丁寧に」


「そういえば……」と羅冴流が少し身じろいだ。「俺が汚れたら、洗ってくれると」

「でも、君は汚れない。丁寧に聞くだけだからね」

 羅冴流がくくっと面白そうに喉を鳴らした。

「うん? どうした、何を笑っている?」


 無乃は知らないうちに前屈みになり、組んだ腕を前に突き出していた。おそらく羅冴流は今、飛び抜けて明るい笑顔をしているに違いない。無乃はそれが目にできないのを少し悔やんだ。

「それで、俺がご丁寧に老僧と話しをしている間、君は何をするんだ?」


「私は勿論、張浮の治療だよ」

 彼の足はすでに手の施しようもない。張浮はもしかして、腐った足を切り落とされるのを待ってでもいたようだ。だから無乃が来るまで放っておいたのだろうか。

 噛まれたのだとあの娘は言っていたが、傷の腐り方はむしろ刃物でそぎ落としたように広範囲にわたっていた。


 噛み傷を見てほしいというのなら分かる。けれど、自分で足を傷つけておいて病に罹ったから無乃を呼ぶというのは、一体どういうことだろうか。

 それに彼は私が藪医者だと知っているのに。

 無乃はそろそろ限界だなとゆったりと首をかしげて微笑んだ。


 眠気にはどんなに屈強な大将軍でも勝てないのだから、無乃がこの誘いに抗えるはずがないのだ。

「羅冴流、無様な姿を見られたくないなら、もう部屋を出て行くべきだ。私は寝るから」

 無乃は羅冴流がまだ部屋にいるのも構わず顔を覆われた布を脱ぎ、どっさりと身体を横にさせた。明日はやらなくてはいけないことが沢山ある。あの小心者の張浮が、張菫(チャンチン)を殺せるはずがないのだから。

 彼をそそのかした人物がいるはずだ。


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