第11話
十日目の朝、エレオノーラは分析書を携えて皇太子の執務室を訪れた。
皇宮の東翼にあるその部屋は、驚くほど飾り気がなかった。書架と、大きな机と、地図。窓辺に立っていたラインハルトは、振り返りもせずに「読め」とだけ言った。
彼女は読んだ。
「結論から申し上げます。リュミエール王国は三年続きの不作と造船債務で財政が破綻寸前にあり、王国の穀物と港を狙っています。今回の婚約は政略です。王女殿下の意思ではなく、リュミエール国王の意思によるものです」
ラインハルトは黙っている。
「婚約の次に来るのは条約です。穀物の優先輸出と港の使用権。この二つが結ばれれば、王国内の穀物価格は一年以内に三割上がります。帝国への輸出量は減り、現行の関税協定は履行不能になります。帝国から見れば、協定の破綻と、西の海路にリュミエールの艦船が入り込むこと。この二点が損失です」
「対策は」
「協定の見直し協議を、帝国側から先に申し入れることです。条約より先に。王国が帝国との協定を破棄できない状況を作れば、リュミエールの条約は成立しません」
数字を挙げ、条文を挙げ、彼女は最後まで読み切った。
冷静で、容赦のない分析だった。祖国の弱さも、王太子の愚かさも、一つも隠さなかった。
ラインハルトは、ようやく振り返った。
「君は祖国を守りたいのか、それとも見捨てたいのか」
灰色の瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。試すような色はない。ただ、答えを知りたがっている目だった。
エレオノーラは、少しだけ考えた。
「私が守りたいのは、あの国で暮らす人々です。王太子ではなく」
言ってから、自分の言葉に驚いた。けれど、それは本心だった。
北部の街道を使う農夫。施療院の薬を待つ母親。港で働く人々。彼女が十年間、帳簿と書類の向こうに見ていたのは、彼らだった。殿下ではなく。
「殿下が誰と婚約されようと、それは殿下の問題です。ですが穀物の価格が上がれば、困るのは民です。それを見過ごすことは、私にはできません」
沈黙があった。
そして、ラインハルトの口元が、ほんの微かに動いた。
笑ったのだ、と気づくまでに、少し時間がかかった。氷が一瞬だけ溶けたような、ごく短い笑みだった。
「いいだろう」
彼は分析書を受け取り、机の上に置いた。
「この分析は、外務局に回す。君の名で」
「……はい」
「もう一つ。君は数字で人を見る。それは、帝国では美徳だ」
エレオノーラは礼をして退出した。扉を閉めたあと、廊下で少しの間、立ち止まった。
胸の奥が、妙に温かかった。
その日の午後、皇宮の庭でゾフィーに捕まった。
「兄様の執務室から出てくるのを見たわ。どうだった?」
「分析書を、外務局に回してくださるそうです。私の名前で」
「まあ」
ゾフィーは目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「それ、兄様にとってはすごいことよ。あの人、留学生の書いたものなんて普段は目も通さないもの。それから、笑った?」
「……少しだけ」
「やっぱり」
皇女は満足げに頷き、腕を組んだ。
「兄様、あなたのこと気に入ってるのね。私、今夜言ってみるわ」
「ゾフィー様、そういうことでは」
「そういうことよ」
その夜、皇太子の私室。
ゾフィーは兄の向かいに座り、茶を飲みながら、何気ない調子で切り出した。
「兄様。あの方をお気に入りなのね」
ラインハルトは書類から目を上げなかった。
「あれは使える」
「それだけ?」
「……」
「否定しないのね」
灰色の瞳が、ようやく妹を見た。何かを言いかけて、やめた。そしてまた書類に戻った。
ゾフィーはそれ以上追及しなかった。ただ、茶器の陰でこっそりと笑った。兄が否定しなかったことは、この十七年で、一度もなかったからだ。




