第10話
エレオノーラが王国を発って、一ヶ月が過ぎた。
王太子の執務机には、書類が三つの山になっていた。
ユリウスは手前の山から一枚を取り、読み、眉を寄せ、元に戻した。北部の街道補修の申請書。数字が並んでいる。どれを承認し、どれを削るべきなのか、判断の材料がどこにも書かれていない。
以前は、書かれていた。一枚目に、要点と推奨する結論が添えられていた。
「殿下。港湾税の減免、期限が昨日でした」
ギルバートの声は、平坦だった。彼はもう溜息をつくこともしなくなっていた。
「……分かっている。明日、見る」
「昨日も、そうおっしゃいました」
ユリウスは書類を放り出し、椅子の背にもたれた。
「なぜ誰も整理しないんだ。宰相府には文官が何十人もいるだろう」
「宰相府は宰相府の仕事をしております。殿下の決裁書類の下読みは、宰相府の職務ではありません」
「では誰の職務だった」
ギルバートは答えなかった。答えは、二人とも知っていた。
王妃の慈善事業は、婚約と同時にマルグリットに引き継がれていた。
その帳簿を前に、王女は泣いていた。
「難しい……こんなに数字が並んでいて、どこを見ればいいのか分からないわ」
「王女殿下。まず、月末の締めから」
女官の言葉に、マルグリットはさらに大粒の涙をこぼした。ユリウスが慌てて肩を抱く。
「無理をしなくていい。誰かに任せよう」
「でも、ノーラ様はお一人でなさっていたのでしょう? 私、ノーラ様のようにはできませんわ」
王女は彼の胸に顔を埋めた。ユリウスはその金の髪を撫でながら、視線だけを帳簿に落とした。
修正の付箋が、まだ何枚か残っていた。几帳面な筆跡で、計算違いと修正案が書かれている。日付は、二ヶ月前。
貴族夫人たちのサロンも、同じだった。
マルグリットは舞踏会では輝いた。けれど昼のサロンで夫人たちが領地の税の話を始めると、「難しいお話ですわね」と微笑むしかなかった。それが続くうちに、夫人たちは招待状を送らなくなった。
「これは何だ」
ユリウスは、ギルバートが差し出した書類の束を見て、眉をひそめた。
「フォルスター嬢が処理していた案件の一覧です」
「……三十枚もあるのか」
「三十二枚です。決裁書類の下読み。謁見の順番の調整。慈善事業の帳簿。帝国からの書簡の翻訳と要約。貴族夫人への根回し。各領地の陳情の振り分け。殿下の体調に合わせた日程の組み替え」
ギルバートは淡々と読み上げた。
「これらはすべて、彼女が無償で、誰にも言わずに行っていたものです。私が把握している範囲だけで、です」
ユリウスは一覧を手に取った。彼女の名前はどこにも書かれていない。ただ案件の名前と、日付と、処理済みの印だけが並んでいる。
数字だった。
「物わかりのいい彼女」が何をしていたのか、彼は初めて、数字で知った。
「殿下」
扉が開き、マルグリットが駆け込んできた。目が赤い。
「ノーラ様のお友達が、私に冷たいのです。今日のサロンで、誰も私に話しかけてくれなくて……。きっとノーラ様が、私のことを悪く言っていたのだわ」
「……そんなことはない。あの人は、そういうことはしない」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。マルグリットが目を丸くする。ユリウスは慌てて言い直した。
「分かった。夫人たちには、僕から言っておく」
翌日、彼は数人の貴族夫人を呼び出し、王女への態度を叱責した。夫人たちは頭を下げ、黙って退出した。
その週、王太子への夜会の招待状は、半分に減った。
その夜、ベルトラン伯爵が王太子の執務室を訪れた。
伯爵は穏やかな笑みで、一冊の書類を机に置いた。
「両国の婚約を祝し、リュミエール国王陛下より、友好条約の草案をお預かりして参りました」
「条約?」
「婚約の証として、リュミエールへの穀物優先輸出と、南港の使用権を。両国の絆を、形にするものでございます」
ユリウスは草案を開いた。数字と条文が並んでいる。
要点を添えた一枚目は、なかった。




