第99話 秘密は、一度近づいた街では何度でもニアミスを起こす
秘密というものは、一度だけ近づいて終わる方が珍しい。
久瀬湊人は、それを今週に入って嫌というほど思い知らされていた。
学校近くの街でAstraLinkの現場が動く。
その事実を一度経験してしまうと、次からは何もなくても神経がそちらへ向いてしまう。
駅前の人混み。
制服姿の生徒。
街頭ビジョン。
スタッフらしき大人。
そういうものが全部、“もしかしたら”の候補に見えてくる。
しかも厄介なのは、危険が一回で終わらないことだ。
一度同じ街で揺れた境界線は、次から何度でもニアミスを起こす。
配信側の短い確認。
現場前の導線テスト。
スタッフとの受け渡し。
後輩ライバーのフォロー。
そういう細かい用件が、学校生活の行動圏とじわじわ重なってくる。
「……ほんとに、面倒だな」
金曜の夕方、学校を出たあとでスマホへ入った短い連絡を見て、湊人は小さく呟いた。
今日は本収録ではない。
だが、週末の大型企画本番へ向けて、現地近くで十五分ほどの事前確認が入った。
場所は、先日ニアミスしかけたあの商業エリアよりは少し外れた場所。
けれど、“学校帰りの人間が普通に通ってもおかしくない”範囲であることに変わりはない。
しかも、今日は学校側でも下校の流れが少し普段と違う。
部活動見学や小さな校内企画の余波で、いつもより遅く駅へ向かう生徒が出ているはずだ。
つまり、また起こりうる。
偶然が。
その認識があるせいで、まだ何も始まっていない段階から、胸の奥が少しずつ削られていく。
◇
「ねえ」
鳴海すばるが言った。
「なに」
真白が返す。
「今日、ちょっと寄り道してもいい?」
放課後、駅へ向かう途中のことだった。
日野が「珍しいな」と笑い、紬希が少しだけ目を上げる。
真白だけは、最初から少し嫌そうな顔をした。
「どこ」
「駅前の本屋」
「本屋?」
「うん」
すばるはなるべく軽く言った。
「新刊チェック」
それ自体は嘘ではない。
本屋には本当に行きたい。
でも、それだけでもなかった。
最近、駅前へ近づくとどうしても神経がそわつく。
大型ビジョンのあたり。
人の流れ。
あの“近さ”がまた起きるかもしれない場所。
行きたくないのに、確認したい。
確認したくないのに、目が向く。
完全にオタクの悪い癖だと思う。
でも今のすばるは、それを止めきれなかった。
「……今日はやだ」
真白が言う。
短いが、かなり本気だ。
「なんで」
「嫌な予感がするから」
先にそれを言われて、すばるは少しだけ言葉に詰まった。
自分も同じことを思っていたからだ。
紬希が静かに言う。
「私も、少し」
日野は笑おうとしてやめた。
「いや、さすがに最近そういうの笑えんのよな」
その一言で、結局四人は駅前寄りのルートを避けるのではなく、少し遠回りで様子だけ見られる道を選ぶことになった。
誰も「確認しに行こう」とは言わない。
でも誰も完全には背を向けられない。
それが、今の窓際の立ち位置だった。
◇
一方その頃、湊人は天瀬アルトとして、駅前から一つ外れた通りの裏手でスタッフと短く話していた。
帽子。
マスク。
私服。
目立たないようにしていても、完全な透明にはなれない。
だからこそ、こういう短い事前確認ほど神経を使う。
「明日の導線、変更なしです」
スタッフが言う。
「了解です」
「今日はこのまま解散で」
「はい」
「小鳥遊さんの方だけ、最後に立ち位置再確認あります」
その名前が出た時点で、湊人は反射的に周囲の人流を一度だけ見た。
多くはない。
でもゼロでもない。
制服姿も少し混じっている。
遠くに見える信号待ちの列の中にも、見慣れた色がある。
たぶん偶然だ。
でも、最近の自分はその“たぶん”にあまり期待できない。
「天瀬さん」
少し遅れて、絃葉が小走りで来た。
「すみません、お待たせしました」
「いえ」
湊人は声の温度を落ち着けた。
「最後だけ確認して終わりましょう」
「はい」
やはり彼女はまだ少し緊張している。
現場慣れしていないぶん、短い確認でも肩に力が入るのだろう。
それを放っておけない。
だが、今は“放っておけなさ”までが危険になる。
学校生活と現場の距離が近い街では、やさしさ一つ取るにも神経を使わなければならないのだと、最近は本当に思う。
◇
駅前から少し離れた歩道橋の上で、すばるが足を止めた。
「……あ」
息だけみたいな声。
それで残りの三人の意識が一気にそちらへ寄る。
「なに」
真白が聞く。
すばるは、歩道橋の隙間から見える裏通りの一角を見ていた。
人通りの少ない場所。
でも、スタッフっぽい大人が何人かいる。
少し離れて、帽子とマスクの人物が立っている。
顔は見えない。
距離もある。
断定には遠い。
でも。
「……また、いる感じ」
すばるが言う。
「誰が」
日野。
「わかんない」
「じゃあ」
「でも、あの立ち方」
そこまで言って、自分で唇を噛んだ。
またそれだ。
また、“久瀬くんっぽい”を言いかけている。
真白は少しだけ視線を細める。
「制服じゃない」
「うん」
「でも?」
その問いに、すばるは小さく言った。
「距離の取り方が、嫌」
かなり曖昧だ。
でも、今の彼女にはそれが限界だった。
紬希が、静かなままその方向を見ている。
日野は「近づく?」と言いかけて、すぐ自分で首を振った。
真白だけは、数秒ののちにはっきり言った。
「行かない」
「でも」
「ここで近づいて、違ったら最悪」
それは正しい。
「合ってても最悪」
その一言で、全員が少しだけ黙る。
そうなのだ。
違っても困る。
合っていても困る。
だから一番苦しいのは、“見えかけるのに確かめられない距離”なのだろう。
◇
裏通りでは、絃葉が最後の立ち位置確認を終えようとしていた。
「ここで一度止まって」
スタッフの指示。
「はい」
「そのあと一歩出てコメント」
「わかりました」
だが、返事のあとで少しだけ視線が揺れる。
人の流れが、思ったより近い。
学校帰りらしい制服も見える。
その緊張を、アルトはすぐ拾ったらしい。
「小鳥遊さん」
「はい」
「人の流れは気にしなくて大丈夫です」
静かな声。
「今ここで見るのはスタッフさんの位置だけで」
「……はい」
その一言で、絃葉の呼吸が少しだけ落ち着く。
やっぱり、すごいと思う。
先輩として。
人を落ち着かせるのが本当にうまい。
でも同時に、また少しだけ思ってしまう。
この“落ち着かせ方”、やっぱり学校で話すあの人に似ている、と。
その瞬間、絃葉はふと人波の向こう側を見た。
歩道橋の上。
遠すぎて顔は分からない。
でも、制服姿がいくつか見える。
心臓が嫌な音を立てる。
学校の誰かが、もしこちらを見ていたら。
何かが少しでも繋がったら。
「……天瀬さん」
思わず小さく呼ぶと、アルトは少しだけこちらへ視線を向けた。
「どうしました」
「いえ」
絃葉はすぐに首を振った。
言えない。
でも、なんとなく分かる。
今この場にいる全員が、表向き以上に神経を張っていることだけは。
◇
結局、その日は何も起きなかった。
歩道橋の上の四人はそれ以上近づかず、
現場側も短い確認を終えて解散し、
制服姿の人の流れも、ただの流れのまま過ぎていった。
でも、それが逆に嫌だった。
何も起きていないのに、全員が“起きかけた”気配だけは持ち帰ってしまったからだ。
帰り道、すばるはずっと無言だった。
紬希も、何を言えばいいのか分からない顔をしている。
日野は珍しく軽口が少ない。
真白だけが、一番静かに、一番深く考えているように見えた。
「……今、いた?」
不意に、真白が言った。
声は小さい。
でも、本気だった。
すばるがすぐに振り向く。
「え」
「いや」
真白は少しだけ眉を寄せた。
「見えたってほどじゃない」
「でも」
「気配がした」
その言い方に、すばるの背中が冷える。
自分だけじゃなかった。
真白も、何かを感じていた。
断定には届かない。
でも、“学校の外側の久瀬っぽい何か”が今日あの街にいたかもしれない感覚を。
秘密は、一度近づいた街では何度でもニアミスを起こす。
そしてそのニアミスは、何も見えないままでも、人の感情だけをじゅうぶん揺らしていくのだった。




