第65話 地味男子の顔を守るには、少しだけ地味じゃない動きが要る
久瀬湊人は、自分が受け身のままでいられる段階を、たぶんもう少し前に過ぎてしまっていたのだと思う。
文化祭の非常階段で、声が少しだけ漏れた時点で。
打ち上げに来られなかった夜、短いメッセージを送った時点で。
教室へスーツの男が入ってきた時点で。
そして昨日、校門の外の視線が“本人だけではなく生活ごと見ている”と共有された時点で。
もう、“隠していれば何とかなる”の段階ではない。
もちろん正体はまだ知られていない。
でも、何かがあることは、窓際の面々にも、そしておそらく学校の外の連中にも、かなりの精度で伝わり始めている。
だったら次に必要なのは、ただ隠れることではない。
むしろ、学校生活を守るために、少しだけ先回りして動くことだ。
そう思ったのは、水曜の夜だった。
ベッドの上で、スマホを伏せたまま天井を見る。
家側の窓口へすぐ確認を入れるべきか。
AstraLink側にも、学校近辺の不審な視線について共有するべきか。
あるいは、まず自分で一度だけ校門の外を見に行くべきか。
選択肢はある。
だが、そのどれもが“地味男子・久瀬湊人”のままではやりづらい。
少しだけ、外側の顔に寄らなければならない。
「……でも、やるしかないか」
小さく呟く。
このまま見られ続けるのは嫌だ。
窓際の空気ごと観察されるのも嫌だ。
真白も、すばるも、紬希も、日野も、もう十分巻き込まれている。
守りたいなら、自分も少しは動かなければならない。
ただ受け身で申し訳なさだけ抱えていても、何も減らないのだから。
◇
翌日、木曜の朝。
教室へ入ると、窓際の空気はいつも通りの形をしていた。
日野が眠そうに欠伸を噛み殺し、
すばるが「その顔で一限現文は死ぬよ」と笑い、
真白が「毎日死んでるみたいに言うな」と切り、
紬希が少しだけやわらかく笑う。
その中に、今日も自分がいる。
最近はその当たり前さがありがたい分だけ、少し痛い。
「おはようございます」
声をかけると、みんながそれぞれ返す。
声の温度が、前より少しだけ近い。
そこへ、今日の自分は少しだけ別の意図を持って座る。
単独で動く。
それを、できれば今日の放課後に片づけたい。
少なくとも校門の外を一度、自分の目で確認したい。
相手の顔、立ち位置、時間帯、動線。
窓際の皆にこれ以上心配させる前に、もう一段具体を掴みたい。
その考えが先にあるだけで、朝から少しだけ落ち着かない。
そして、そういう落ち着かなさを一番先に拾うのが、最近の窓際だった。
「……今日」
真白が言う。
「はい」
「また何か考えてる」
即座だった。
「顔に出ていますか」
「かなり」
そこへすばるも乗る。
「うん、今日の久瀬くん、“静かな顔”じゃなくて“静かに企んでる顔”」
「言い方」
日野が笑う。
でも笑いながらも、少しだけこちらを見る目は鋭い。
紬希も、何も言わないまま少しだけ気にしている。
「……そんなにでしょうか」
「うん」
真白が頷く。
「昨日までと種類が違う」
そこまで見えるのか、と少しだけ思う。
でも、最近の彼女たちならまあそうだろうとも思う。
「まあ」
言える範囲で濁す。
「少しだけ、考えごとを」
「少しだけ、は禁止」
真白が即答する。
「最近の禁止事項多くない?」
すばるが吹き出す。
「必要だから」
真白は平然としている。
「逃げ道に使う言葉、先に潰してるだけ」
「それ地味に怖いんだよなあ」
すばるが笑う。
紬希はそのやりとりを見ながらも、やはり少し不安そうだった。
やめた方がいいのかもしれない、と一瞬だけ思う。
でも、その一瞬の迷いのあとで、別の感情が来る。
このまま何もしない方が、もっとだめだという感覚だ。
◇
二限目のあと、短い休み時間。
窓際の会話が少し途切れたタイミングで、湊人はスマホを机の影で確認した。
家側から新しい通知はない。
AstraLink側も今日は静かだ。
つまり、少なくとも今日の放課後は“外側の用件”としては動きやすい。
ならやるなら今日だ。
校門の外を少しだけ回る。
場合によっては駅前まで見る。
誰がどの時間に立つのか、どこから見ているのか、自分で押さえる。
その瞬間、前の席から日野が振り返った。
「今日、放課後なんかある?」
心臓が一拍だけ変な鳴り方をする。
「え」
「いや、なんか」
日野はわりと無邪気に言う。
「このあとちょっと抜けます、みたいな顔してる」
雑な言い方なのに、かなり核心だ。
すばるがすぐに身を乗り出す。
「え、ほんと?」
真白は何も言わない。
その代わり、視線だけがかなりまっすぐになった。
紬希も小さくこちらを見る。
最悪だ、と思う。
ばれている。
まだ何もしていないのに、もう“単独行動しそうな顔”が出ている。
「……少し」
とりあえず濁そうとする。
「少し、何」
真白が低く聞く。
その声に、もう完全に逃げ道がなくなる。
「校門の外を」
観念して言う。
「少しだけ見ておきたいと思って」
教室のこの一角だけ、空気が止まる。
最初に反応したのは、意外にも紬希だった。
「一人で?」
小さな声。
でも、かなりまっすぐだ。
「……そのつもりでした」
そう答えた瞬間、すばるが額を押さえた。
「あーもう」
日野が「やっぱりか」と笑うが、その笑いも完全に軽くはない。
真白だけは、しばらく何も言わなかった。
それが逆に怖い。
「久瀬」
やがて彼女が言う。
「はい」
「それ、たぶん一番だめ」
短い。
でも、切れ味がすごい。
「でも」
「でもじゃない」
即座に返される。
「昨日まで何の話してたと思ってるの」
「……見られている範囲が本人だけじゃない、という話です」
「うん」
「だからこそ、僕が一度」
「一人で動いたら、余計怪しいでしょ」
そこが痛い。
しかも、かなり正しい。
すばるもすぐに頷く。
「それな」
「なんかさ」
彼女は手をひらひらさせる。
「今の久瀬くんが一人で校門の外うろついて、知らない大人の位置見てたら、向こうから見ても“あ、こいつ気づいてる”ってなるじゃん」
言葉の粗さに反して、内容はかなり鋭い。
湊人は少しだけ目を閉じたくなる。
「しかも」
真白が続ける。
「地味男子の顔、守れてない」
それもまた、本質だった。
久瀬湊人として学校生活を続けるなら、
不審者を追うみたいな動きはあまりにも不自然だ。
少しでも戦略的にやるなら、もっと“普通の下校”の中に混ぜなければ意味がない。
「……そこまでは」
考えが足りていなかった。
そう言う前に、朱莉の声が横から入った。
「だから一人でやると雑になるのよ」
いつの間にいたのか。
いや、たぶん最初から近くにいたのだろう。
御門朱莉は廊下側の席の近くで立ち止まり、呆れたみたいにこちらを見ていた。
「御門さん」
すばるが言う。
「今の話、聞いてた?」
「半分くらい」
彼女は平然としている。
「でも十分」
真白が腕を組んだ。
「ちょうどいいから言って」
「何を」
「一人でやるとだめな理由」
朱莉は少しだけ肩をすくめた。
「簡単よ」
そして、かなりあっさり言い切った。
「一人で校門の外を見に行くの、地味男子の動きじゃないもの」
教室のこの列に、少しだけ乾いた沈黙が落ちる。
誰も反論できない。
「しかもアンタ」
朱莉が続ける。
「今の学校での立ち位置、もう完全な単独行動型じゃない」
「え」
日野が聞く。
「どういう意味」
「窓際のこの辺で、話して、帰る時も一緒にいる人間が、急に“ちょっと一人で校門の外見てきます”やったら不自然ってこと」
そこまで言われると、もう完全にその通りだった。
自分の頭の中では、“守るために動く”つもりだった。
でも実際には、学校生活の中の久瀬湊人を壊しかねない動きだったのだ。
「……最悪だ」
小さく漏れる。
それに、すばるが苦笑した。
「一応、自覚はあるんだ」
「あります」
「あるならもう少し相談して」
紬希の声は小さいが、かなり本気だ。
そこへ真白も重ねる。
「そう」
「一人で抱え込んで動かれるのが、一番面倒」
その言い方は厳しい。
でも、その厳しさに含まれる感情は、今の湊人にはもうわかる。
怒っているのではない。
怖いのだ。
一人で動いて、余計なことになるのが。
そしてそれを、自分たちがあとから知る形になるのが。
◇
昼休みのあと、話はそのまま“どう動くか”へ少しだけ具体化した。
「つまり」
日野が言う。
「一人で突っ込むのはなし」
「はい」
湊人は素直に頷く。
「そこまで素直だと逆に怖い」
すばるが言う。
「ちゃんと反省してるので」
「出た」
真白が小さく息を吐く。
「その“ので”で全部まとめる癖」
「やめた方がいい?」
「今日はやめて」
そこに小さな笑いが起きる。
笑いが起きている間に、少しだけ救われる。
完全に怒られているわけではない。
ちゃんと、次の動き方を一緒に考える空気になっている。
「じゃあ」
朱莉が言う。
「次にあの手の人間が出たら、単独で見に行くんじゃなくて共有」
「ええ」
湊人は頷く。
「それくらいなら」
「くらいじゃない」
真白が切る。
「そこから」
「はい」
「勝手に一手進めない」
やはりそこまで言われる。
でも、その言い方の方が今の自分にはありがたい。
紬希が小さく言った。
「できれば、帰る時も」
「一人にならない」
すばるが先に受けた。
「そこは継続」
日野も「異議なし」と笑う。
こうしてみると、本当に共同戦線みたいだと思う。
でも、それが少しも冗談にならないくらいには、今の状況はもう“個人の秘密”だけではなくなっている。
◇
放課後、五人で駅まで歩く流れは、もはやほとんど自然なものになっていた。
すばるが前の方でしゃべり、
日野が適当に返し、
真白が一歩引いて全体を見る。
紬希はその少し内側で静かに歩く。
湊人はその中心あたりにいる。
まるで、そういう帰り方が最初から決まっていたみたいに。
でも本当は違う。
少し前まで、こんな形ではなかった。
それを変えたのは、自分の事情だ。
そのことがまた少しだけ胸に刺さる。
「久瀬くん」
すばるが急に振り向く。
「はい」
「今日の“単独偵察しようとしてました事件”」
名前が雑すぎる。
「かなり減点」
「採点制なんですか」
「最近そう」
真白が横から言う。
「私も減点」
「そこまで」
「そこまで」
真白は即答した。
でも、そのあとで少しだけ声を落とす。
「一人で抱えるって、そういうことだから」
その一言に、湊人は少しだけ黙る。
やはり、自分が思っていた以上に今の窓際は近い。
近いからこそ、一人で動くのが“裏切り”に近く見えてしまうのだろう。
「……すみません」
小さく言うと、紬希がすぐに言った。
「ごめんより、次しないで」
静かな言い方。
でも、その内容はかなり強い。
すばるも頷く。
「うん、それ」
日野が笑う。
「包囲網えぐいな」
「アンタも入ってる」
真白が返す。
「俺はまあ、わりと最初から反対だったし」
その言い方が少しだけ気楽でありがたい。
駅前が見えてくる頃には、湊人も少しだけ理解していた。
もう自分は、一人で判断して一人で動く“だけ”の立場ではない。
そして、その変化を完全に嫌だとも思っていない。
守ってもらうだけでは終わりたくない。
でも、守るためには、まず壊さない動き方を覚えなければならないのだ。
◇
夜、自室でスマホを見つめながら、湊人は一人で思い返していた。
単独で動こうとしたこと。
それをすぐに見抜かれたこと。
朱莉に“地味男子の動きじゃない”と切られたこと。
真白とすばると紬希に、それぞれ違う言い方で止められたこと。
全部、かなり効いた。
しかも、反論できない形で。
「……ほんとに、だめだな」
独り言が落ちる。
無能だと思っているわけではない。
ただ、今の自分は“守るための動き方”がまだ学校生活と噛み合っていないのだろう。
地味男子の顔を守るには、少しだけ地味じゃない動きが要る。
でも、その“少しだけ”のさじ加減が一番難しい。
そして今の自分には、そこを見てくれる人たちがいる。
それはありがたくて、やっぱり少しだけ面倒だった。




