第110話 ツンデレは、危ない日の前ほど“いつも通り”を崩したくなくなる
柊坂真白は、空気を守る時ほど態度を変えたくないタイプだった。
わかりやすく優しくすると、相手が構える。
あからさまに心配すると、余計に気を使わせる。
特別扱いをすると、その時点で“普通じゃない日”が教室の真ん中へ出てきてしまう。
だから真白にとって、“守る”と“いつも通りでいる”は、最近かなり近い意味になっていた。
危ない日が近いからこそ、余計に。
今の久瀬湊人に必要なのは、学校の中まで全部が非常事態みたいな顔をされることではない。
少なくとも真白はそう思っている。
ただし、それは何も見ないふりとは違う。
むしろ逆だ。
見ているからこそ、崩しすぎない。
「……面倒」
朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、真白は小さく呟いた。
来週の学校行事。
AstraLinkの大型企画。
駅前圏。
一人になる時間。
そこまで共有されてしまった以上、もう“何となく危ない”ではない。
かなり具体的な危険日だ。
だから本来なら、もっと構えてもいい。
もっと何か言ってもいい。
でも、たぶんそれをやるほど久瀬は余計に整える。
だったら、いつも通りの顔で見ている方がいい。
その代わり、見る精度だけ上げる。
最近の真白は、自分でも少し驚くくらい、そういう方向へ変わってきていた。
◇
教室へ入ると、窓際の空気はまだ半分くらいしか起きていなかった。
日野は来ていない。
すばるもまだ。
紬希は席で静かにノートを出している。
久瀬はすでに来ていた。
「おはよう」
真白が言う。
「おはようございます」
返事は穏やかだ。
そこで終わるには、少しだけ惜しい沈黙がある。
昨日なら、ここでたぶん何か聞いていただろう。
来週の件をもう少し詰めるとか、何時台かを再確認するとか。
でも、今日はしない。
そう決めていた。
「今日」
真白が言う。
「はい」
「眠そう」
聞いたのはそれだけだった。
久瀬は少しだけ目を丸くしてから、ほんの少し困ったように笑った。
「少しだけ」
「少しだけ、ね」
「はい」
その“はい”の音で、だいたい分かる。
本当はもう少しある。
でも今日は、そこを無理に広げない。
「なら」
真白は席に鞄を置きながら言う。
「一限で寝ない」
「そこですか」
「最低限」
その返しに、久瀬が少しだけ肩の力を抜く。
それでいい。
今はそれでいいのだと思う。
特別扱いはしない。
でも、見ていないわけでもない。
そういう距離を、今日は崩したくなかった。
◇
一限目のあと、窓際の空気が少しずつ揃っていく。
日野が「今日の数学しんど」と言いながら席へ突っ伏し、
すばるが「朝から終わってる」と笑い、
紬希が小さく口元を緩める。
その流れへ、久瀬も少しだけ自然に入っていた。
昨日までの共有があるから、みんなそれぞれに何かは考えているはずだ。
でも少なくとも表面は、今日の窓際はちゃんと窓際のままだった。
それが真白には少しだけありがたい。
「ねえ」
すばるが言う。
「なに」
真白が返す。
「今の真白、だいぶ普通っぽくしてる」
ぎくりとするほどではないが、少しだけ図星だ。
「普通だけど」
「いや、そういう意味じゃなくて」
すばるはにやにやしている。
「もっと昨日の続きみたいに詰めるかと思った」
「朝からやると余計に構える」
反射でそう返してから、少しだけ言いすぎたと思う。
でも、もう遅い。
すばるが目を細める。
「出た」
「何」
「見てる側の人の発言」
日野が笑う。
「最近の真白、ほんとにそっち」
紬希も小さく頷いた。
「うん」
そして久瀬だけが、少し静かな顔でこちらを見ていた。
「……そんなに露骨ですか」
真白が聞くと、すばるはすぐに答える。
「かなり」
「便利ワード」
真白が返すと、少し笑いが起きる。
その笑いの中で、真白は少しだけ安心する。
よかった、と思う。
こういうどうでもいい会話がまだできるなら、少なくとも学校の中までは危険日に飲まれていない。
◇
昼休み、窓際の五人は自然にまた同じ空気の中へ集まっていた。
パンの袋を開ける音。
机を少し寄せる音。
すばるの早口。
日野の雑な相づち。
紬希の静かな笑い。
そして、少しだけ疲れを残しながらもそこにいる久瀬。
真白はそこで、昨日から考えていたことをそのまま口にした。
「来週」
一瞬で視線が集まる。
「はい」
久瀬が返す。
「当日」
「うん」
「私は、たぶんいつも通りにする」
その宣言は、自分で思っていたより少しだけ重かった。
「え?」
すばるが先に反応する。
日野も少しだけ首を傾げる。
紬希は静かに聞いている。
久瀬だけが、少しだけ目を細めた。
「何かあったら見る」
真白は続ける。
「でも、朝から全部“危ない日です”みたいな顔はしない」
そこまで言うと、すばるが小さく息を吐いた。
「あー」
「わかる?」
「ちょっと」
彼女は頷く。
「その方が逆に、久瀬くんは楽かも」
そこへ紬希も小さく言う。
「うん」
「学校の時間まで、全部そっちになるのは違う」
その言葉が、真白には少しだけしっくり来る。
そうだ。
危ない日は危ない。
でもだからといって、学校の時間まで丸ごと“危ない日仕様”にしたくない。
今の自分たちが守りたいのは、むしろその普通の部分の方なのだから。
「……ありがたいです」
久瀬が静かに言う。
その声に、少しだけ本音が混じっているのが分かる。
「でも」
真白はすぐ続ける。
「見てないわけじゃない」
「はい」
「おかしいと思ったら止める」
「ええ」
「そのへんは、いつも通りじゃない」
そこをはっきり区切ると、日野が吹き出した。
「結局そこは厳しい」
「必要だから」
真白が返すと、すばるが「それはそう」と頷く。
◇
午後の授業のあいだ、真白は自分でも少し笑いたくなっていた。
危ない日の前ほど、いつも通りを崩したくなくなる。
そのくせ、見ている精度は前より上げている。
おかしい。
だいぶおかしい。
でも、それが今の自分にとっては一番自然だった。
好きだから守りたい、みたいな甘い言葉でまとめるには、少し違う気がする。
もっと面倒で、もっと現実的で、でも結果としてかなり近いことをしている。
ふと窓際を見ると、久瀬は授業を受けながらも、時々ほんの少しだけ遠い顔をしていた。
たぶん、来週のことを考えている。
家側かもしれないし、配信側かもしれないし、両方かもしれない。
でも、そういう顔を見つけても、今はすぐには声をかけない。
学校の時間までは、できるだけ普通の速度で流したい。
その代わり、放課後になったらまた必要なことは聞く。
今の真白は、その切り替えを少しずつ覚え始めていた。
◇
放課後、帰り支度のタイミングで、すばるが小さく笑った。
「今日の真白」
「なに」
「めっちゃ“いつも通り”を頑張ってる感じする」
「頑張ってない」
「いや、頑張ってる」
そこへ日野まで乗る。
「たしかに」
「うるさい」
真白が切ると、紬希が少しだけやわらかく笑った。
「でも」
紬希が言う。
「そうしてくれるの、たぶん大事」
その一言で、真白は少しだけ言葉に詰まる。
「……そう?」
「うん」
紬希は頷いた。
「危ない日が近いほど、学校では普通の方がいい時ある」
それはたぶん、真白が今日一日言葉にしきれなかったことを、そのまま形にしていた。
「まあ」
日野が言う。
「全部が非常事態っぽいとしんどいもんな」
「そう」
真白はようやく頷く。
そこで初めて、今日自分がやっていたことを少しだけ肯定できた気がした。
「……ありがと」
久瀬が静かに言った。
その礼は昼より少しだけ近かった。
真白は少しだけ目を逸らす。
「別に」
反射でそう返す。
「でも、次の危ない日は」
「うん」
「もっと細かく聞く」
「はい」
そこはやっぱり崩さない。
すばるが吹き出して、日野が笑い、紬希が小さく肩を揺らした。
ツンデレは、危ない日の前ほど“いつも通り”を崩したくなくなる。
それは、危ない日そのものを軽く見ているからではない。
むしろ逆に、それだけ大事なものを学校の中に見つけてしまったからこそ、簡単には非常事態の色へ染めたくないのだった。




